第95節 だから、今だけは
秋酔いの日の当日。
ジオは大分元の体調を取り戻していたが、まだベッドを長く離れずにいた。
身体そのものはもう十分健康である。以前にも酷い目にあったことは何度もあるが、それでも三日と経たずに全快してきた。今回の動けない原因は限界まで魔力を行使したことにある。
そもそも失われた肉体を蘇生させることはどうにかなるが、失われた精神性を復活させることは術を用いても至難の業なのである。
激闘によりポテンシャルが高まり、ジオは普段の実力以上の魔力を放出することができた。火事場の馬鹿力というやつである。そのせいでジオの体内の精神体は消耗し、揺らいで安定しないのである。
まぁ、なんのかんの言って、あんなことがあったんだからゆっくり休んでろって話である。
「ジオさん、リンゴむけました」
「お、ありがとな」
丁寧に皮をむかれ、切り分けられたリンゴを受け取り、ジオは一口にそのリンゴを腹に収める。次々と平らげていくジオを見つめているアイリーン。
窓の外は熱に浮かれた人々の、大地への感謝の言葉で溢れている。駆逐された女神が優しく人々を抱いている。
「祭り、行かなくていいの?」
外の景色が目に付き、ジオはアイリーンに尋ねた。せっかくの行事なのだから、ちょっと見てくればよいと。アイリーンはあの日から毎日、つきっきりでジオの世話をしているから。
アイリーンは静かに首を振る。楽しい祭りも、ジオさんがいなくては寂しいだけだと、照れて言えずに。
食事も済んだ。ジオは大きくおくびを漏らし、マクラを背に入れ横になる。
する事のない、手持ち無沙汰な時間。話題もとうに尽き、気まずい時が過ぎる。
祭りの喧騒がどこか遠くに歩み去っていく。
どれくらい時間の流れたか。不意にアイリーンがイスから立ち上がりベッドの傍に立つ。うつむき、顔をそむけ。
「……ジオさん、隣……いいですか?」
「あ、ああ」
脇に動いてジオが空けたスペースにアイリーンが潜り込む。ジオはがらにもなく硬直し、アイリーンは小さく縮こまって背を見せる。
更に気まずい空間。
フルマラソンを終えた時より心臓が脈打つ。
鼓動が、相手にまで聞こえてしまいそうに思えて、動けず。
でも、やがて。
ジオの手が肩に触れ。アイリーンの眼差しが瞳に触れて。
二人は……、
「お〜い、イカ焼き買ってきたぞ〜!」
石像のように硬直した。
「……あ、悪い」
一瞬放心したジオの兄アレックスは取り繕うように扉を閉じた。
当人たちのように心臓を高鳴らせて足元もふらつき、居間まで戻ってからバツが悪そうに頭をかく。
「あ〜、そっか、あいつももうそんな歳なんだよな」
アレックスは自分を納得させると台所に向かう。動揺している場合じゃない。こういう時こそ兄としての余裕を見せないといけない。
落ち着いて。とりあえず。
今夜は赤飯だ。
「ジ……ジオさん……」
「大丈夫だ。あいつは後で殺っとく」
物騒な事を言うジオ。
「そ……そおじゃなくて……苦しいです」
と、その言葉を聞いて、ジオは自分がアイリーンをかばう様にきつく抱きしめていたことに気付いた。
「だぁぁ!?」
慌てて手を離すジオ。こんなに動揺するとは面白い。
「悪い。いや、つい……」
弁明しようとするジオの手を一回り小さな手が包む。
女の子の柔らかさは武器だと思う今日この頃。
アイリーンはそっとジオの胸板に身を寄せた。
「……このまま」
つぶやくアイリーンをジオは一瞬の戸惑いの後、優しく背中に手を回す。
アイリーンの身体が震えていることに気付いたから。
必要以上に優しく、安心させるように。
抱きしめた。
(……温かい)
アイリーンは思った。胸の鼓動は一向に治まらないけれど、不思議と失神したりはしない。
大地に抱かれるような安堵感があった。ジオと互いの体温を共有する。
世界はこんなにも幸福なのだと、実感する。
ずっとこうしていたいと思う。
ずっと。
この命があっけなく尽きてしまうまで。
だけど。
(ジオさんには夢がある)
紋章術師になる夢。
あの日、確信した。ジオの真剣な気持ち。自分が束になってもかなわない、熱い気持ち。
できればずっと傍にいて支えてあげたいと思う。でも、
(私は、みんなのところへ戻らないといけないから……)
(シュリーちゃんたちの子供を導いていってあげないといけないから……)
だから。
(さようなら。ジオさん、私は幸せでした……)
ジオに見えないように涙をぬぐう。
それはアイリーンが決めたことで。
もしかしたら、ジオに対して本当に愛を抱くようになったからかも知れず。
アイリーンは独りで故郷に帰る。
(でも、だから、もうこれで最後だから)
(今だけは傍にいたい……)
アイリーンはそっと、瞳を閉じた。
次の日。
アイリーンはベッドの上のジオに別れを告げた。
アイリーンは強くあろうと決めたから、笑顔でさよならだった。
ジオは呆然として、その後追いかけようとしたが、身体が言うことを聞かなかった。