第86節 狂気の目覚め
「……くくく」
笑い声。ひどく聞きづらい。
さも嬉しそうな、騒音の中にあって静かに耳をさいなむ、嫌な声。生理的に嫌悪を誘う、狂気じみた不快。
「……はーっはっはっは!」
それは倉庫中に聞こえるような大笑へと変化した。
「ど、どうしました……バテリオ殿……」
ヒゲ、と語尾につけることも忘れ、肩を貸す者が恐る恐る問いかける。バテリオは痙攣を抑えるようにうつむき。
「……いや、なんでもない。久々に楽しくなっただけだ。ふひひ、そうだなぁ、戦いの最中にくっちゃべッてなんかいたらいけねぇよなあ!?」
「バテリオ殿!?」
ヒゲ男は自身の背が震えるのを感じた。とっさに、バテリオの腕を放し飛び退いていた。このヒゲの男は、ヒゲ男たちの中でも古参である。前にも、このようになったバテリオを見たことがある。
その間、ジオはまた一人、ヒゲ男をふっ飛ばしていた。追撃をかけようとして、その時、
「ジオさん!」
聞き覚えのある女声。いや、女のような声。
「シュリーさんはどこに!?」
空いた壁の穴。息を切らせて肩を上下させるルルの姿がそこにあった。
一瞬、注意がそこに集まる。
「おひおひ! 最中に、よそ見なんかしたら興ざめだよなぁあぁぁああああぁ!?」
叫び。
ランケンとルルの、すぐそばにあった壁が爆発した。
そして破片に紛れて現れたのは戦槌を握る巨漢。
ルルの腰ほどもある豪腕によって振り下ろされる鈍器。ルルに迫るそれを受け止めたのはランケンだった。歪むランケンの顔。その寸前で鈍器の先端は止まったもののランケンの皮膚には今までは気にもならなかった血管が無数に浮かび上がっている。
「今、助けに!」
ツララが目前の剣を大きく弾き、救援に駆けつける。いくらランケンが腕の立つ武道家とはいえあの体勢はまずいだろう。巨漢に、横から攻撃を仕かけてやる。
そう思ったツララの太腿に一本の矢が突き刺さった。
「……っが!?」
予想外。その場に踏みとどまる。苦痛に顔を歪めながら、矢の飛んできた方向を睨む。
「命中した」
コンテナの陰で冷めた視線でツララを見つめる小男がそこにいた。いつからそこに潜んでいたのか、一向にわからない。ツララは矢を引き抜き、投げ返した。からからと床で音をたてる。
「……っく! こんなもので! 私を倒したつもりにならないでよね!?」
「いや、思惑通りさ」
表情を変えずに小男は言う。大きな布で全身をぐるぐる巻いた、妙な格好だ。
「……な……!?」
「その矢の先端には即効性の麻痺毒が塗ってある。五秒と経たずに、君は動けなくなる」
からんからん。
乾いた音をたてて、フライパンが踊り、ツララもその場に崩れ落ちた。
「ツララさん!?」
「なんだ! どうした!?」
ジオが振り返った時には、もう既にツララのまぶたは閉ざされていた。唇を読むと、荒い呼吸音がわかる。
「おい、お前、こっちを見ろよ!」
バテリオの声。
「んだとぉ!」
声の大きさから大体の位置を確認。振り向きざま、拳を構えて飛びかかる。
「魔神鞭!」
視認したバテリオの顔は狂気に染まっていた。
彼の左腕から赤黒い炎が立ち上り、のたうつ蛇のように絡みつく。禍々しきその気配。その帆柱の一つが牙をむき、しゅっと目でとらえることもできない速さでジオの体を貫いた。
爆発。
魔力の爆発によって抉られたジオの胸の血肉が、バテリオの顔を汚した。
「ぐ……ぁっ!!」
肉片、血液、組織液をぶちまけながらジオが倒れこんだ。とびかけた意識を気力で呼び戻す。激痛を、歯を食いしばって耐える。
その傷をぐじゅぐじゅとねじ込むように、バテリオの靴の踵がジオの胸を踏みにじる。小石や砂が、傷口に潜り込んだ。
「なんだぁ、弱いなぁ? 弱い、弱いぞ、お前。手加減しなきゃぁ、死んでたぞ、お前」
「ク……クソ……」
「弱いやつはぁ、身体もがれちゃうぞぉ? ぶちぶちぶちって、無理矢理引き離されるんだ。ひっひゃぃ、かっこう悪いぜぇ?」
ひきつった不快な笑い。語尾の怪しい口調。バテリオの瞳は、どこか遠くを見ている。
「こんの腕、もいじゃおうかぁあぁ?」
おかしいイントネーション。
「私みたいによぉぉ!?」
明らかに、異常。バテリオの左腕が膨張する。衣服やその下で巻きついていた包帯を突き破り、黒光りするその表皮を外気にさらす。関節の三つ見られるバテリオの腕は、人間のものとは到底言うことができない。
「てめえ!? その腕、デーモン!?」
「その通りだよぅ?」
へらへら笑う。
デーモンとは、黒竜エキドナの屍骸より生まれし異形のものたち。数あるエキドナの末裔種族の中でも群を抜いた能力を有し、脆弱な人間など歯牙にもかけない、超越した者たち。
またの名を、ルシファー。
現代とは比較にならぬほどの超文明を築き、栄華を誇った彼らは、しかし、三百年前神より聖なる武具、聖戦器を賜った十三人の聖戦士たちによってそのほとんどを封印され、または滅せられた。
今、極たまに目撃されることのあるデーモンは、彼らの中でも下級のクラスに属する低級の怪物である。
それでも、並みの怪物や人間など、相手にならぬほどの存在であるが。
「……なんで、そんなものをつけていやがるんだ!」
「なんでって。ほら、私の腕、もがれちゃったし。なにかと入用だったんだよねぇ?」
「知るか!」
どこをどうやってデーモンの腕など身体に移植しているのか知らないが、確実に言えることは、どうせまっとうな方法じゃないということだ。ジオの知識の中でも、そんな肉体改造は禁呪の類に分類されるものである。
さらに、言えることは、この男が、まっとうな脳ミソも持ち合わせていないということだ。
デーモンとの一体化など、たとえそれが部分的なものであったとしても、正常な精神の持ち主なら選択肢にすら残さない。
だが。
事実、その凶行を実行に移した男がジオの目の前にいた。
ジオは瞳だけを動かしてバテリオを見る。
「……なんつーか、オレにもくれ。その凶悪な腕」
(え、欲しいの?)
「やだね、あげない」
ルルの動揺をよそにして、二人は見つめあう。ジオは苦痛をかみ締めて、にやりと笑う。
「嘘だよ。いらねーよ、そんな腕。でも」
荒い呼吸。止まる瞬間。
ジオの両腕がマッハで伸びる。胸の上にのるバテリオの足に絡みつき。
「足はもらうぜ!」
あらぬ方向に折り曲げた。バテリオは慌ててもう一本の足でジオを蹴り飛ばし、飛び退く。
胸の傷を意識させずに跳ね起きるジオに対して、バテリオは片膝を屈させた。
「どうだ。痛かろう」
「ああ、痛いね。迂闊だった、また馬鹿をやってしまった。お前、結構タフだなぁ?」
「これくらい、屁でもないな!」
「ククク……なんだか、お前を見てると思い出すぞ。我が仇敵のことを」
「そんなやつは知らん! 言い訳も聞かん!」
「まぁ、そう言わずに聞いてくれ。私と同じ宮廷術師で、私と違った大馬鹿野郎のことを……」
「聞かねぇって言ってるだろうが! くらえ、必殺! ジオライトスマッシャァァ!!」
ジオの手刀が走る。一直線に突き出されるその衝撃は確実に相手を倒す軌道を辿っていた。バテリオの体術では、受けられようも避けられようもない。
ジオのしなやかな筋肉は、しかし、伸びきる前に空中で止まった。
唐突に、なんの理由もなく、不自然に。
驚きに染まるジオの顔をバテリオはさもおかしそうに見つめる。
「不可視の防御壁かっ!?」
「……ああ、それもアレンジバージョンだ。すごいだろう?」
紋章術の中では割とポピュラーな術である。ジオはすぐにその正体に気付いた。
周囲の意図する範囲に物理的な障壁を生成するこの術は、しかし、応用するにはそれなりのセンスと技術を要する。
回り込まれたら意味のない壁を作り出してしまう者も多いのだ。
「だけど、お前、いつ術を発動させたんだ!?」
紋章術の行使には印を組むことと術によっては呪文を唱えることが必要とされる。だが、ジオの見る限りバテリオにはその様子はなかった。そもそもそんな隙は与えていないはずだ。
だが、その疑問はすぐに氷解する。
「なにを言ってるんだ。私は、デーモンと融合した男だぞ?」
デーモンは下級の者でもその強力な魔力と多次元的知覚能力によって術式を省略できる。高位の者ともなるとイスに腰かけたまま微動だにせず複数の術を起動できたともいう。
そんなデーモンを手に入れた男に、なぜ、など、愚問であるのかもしれなかった。
「さぁ、次はどうしてくれるんだ?」
状況の不利は明確だ。もはや戦いは一対一にもつれ込み、仲間の援護も期待できない。というか周りの状況を見ている余裕もない。この人外の紋章術師を相手に独力で立ち向かわねばならない。
だが。
「……決まってるだろ。てめえをぶちのめしてやるのさ」
だからといってジオの闘志は少しだって翳ったりしないのだ。今日は。
今のジオの雄姿はどこぞの武術大会に出てもおかしくないくらい、立派だった。
「……やっぱり似ている。お前は、私の仇敵に」
バテリオはすっと目を細めた。その視線の先は、ジオを通してどこか違うところに行っていた。懐古の情に浸っているかのように。
「……あいつが、邪魔をしなければ、結果は変わっていたかもしれなかったのに。革命もなっていただろうに。私の左腕と一緒に、いなくなりやがって」
「なにをごちゃごちゃ言ってやがる!」
「お前がいなくなって、私は亡霊のようになってしまったよ。お前は単純で馬鹿で、術師とはとても思えないようなやつだったが……、どうやら、私はお前に勝ちたがっていたらしい」
「いくぞぁ! 旋風烈弾!!」
「……紋章術が使えるのか!?」
ジオの掌に集い圧縮された空気の塊が、勢い良く放出される。見た目ではわからない破壊力を秘めた風の砲弾は真っ直ぐにバテリオの身体に吸い込まれていった。
かに見えたが、その寸前で風の弾は風船の空気が抜けるようにしぼんでしまった。
「……なんだ? もう終わりか?」
嘲笑。余裕の表情。術の力量差は歴然としていた。
歯噛みし、続けざまに旋風烈弾を放つジオ。胸の傷から血がどうと噴きだす。構わずに連続発動。
しかし、術の影響で吹き上がった砂煙の晴れた後、そこに立っていたのは変わらず嘲笑を続けるバテリオの姿だった。
「終わりか?」
(くそっ、全部防がれてやがる!)
ジオは内心舌を巻く。あの旋風烈弾の防ぎ方は、魔力で内部干渉し術の効力を無効化するという、高難度で、無駄な防ぎ方だ。
そんなことをせずにさっさとジオのそれ以上の魔力を以て吹き消してしまえば良い。それをしないのは、ジオに『決してお前は私に勝てない』という屈辱的な感情を植えつけるつもりなのだ。無理だと思うが。
(化け物め……一体どんだけの精神力してやがるんだ)
ジオの勝利は絶望的である。だが、ジオの心は絶望していない。むしろ、近頃のジオより、生き生きしてすらいた。
(だが、オレは、絶対に負けねぇ。必ずぶちのめす! 雰囲気的に!)
その時。
「炎槍!」
横から飛んできた炎の槍を、バテリオは魔神鞭で打ち消した。