第77節 悩める学生相談所
これはルルがシュリーを呼び出すほんの一日前の出来事。
学士院嫁き遅れナンバーワン……もとい、心の傷も一発治療、頼れる保健室のグラマラスであるモニカ・ハーモニー導師。彼女の聖域である治療術室に、渦中の人物が訪れていた。
インターン生にして最近とみにみんなの注目の的、かのルル・アリアンロッドである。
「で、今日はあたしに相談があるんだって?」
モニカ導師は、少し控えめにパイプをくゆらせる。ルルが治療術室を訪れてから、興味本位の連中を追っ払ったり、とってつけたような教育心でルルにちょっかいを出す導師連中を撃退したりで、本題に入れないまますでに一時間近くが経過してしまっていた。無論、その間モニカ導師は青筋全開である。必然的に灰皿の草灰の量が増えるのも道理。これ、ヘビィスモーカーの常識アルヨって感じで、今治療術室はある意味、環境汚染されていた。
「……換気したいのは山々だけど、外にも妙な二人の気配を感じるのよね、だから、少し我慢してちょうだい」
ルルは煙る室内でも、苦笑とも微笑とも取れない表情を崩していない。まあ、それは元来の性格だから、決して無理しているわけではないだろうと、モニカは推測した。
それにしても、とモニカはルルの服装に目を向ける。相変わらずのファッションセンスではあるはずなのだが、それでもデザインから雰囲気から、随分と男の子然としてきたものだ。もっとも、今までが美少女か美少年かって性別すら区別しがたかったルルが、美少年と即答出来るレベルに変わっただけだが、なんというか、雰囲気自体がそれまでのルルとは違う。思わず「ルルちゃん、変わったわね」なんて口から出てしまいそうになる。
「相談ってのは、あれ? インターン?」
モニカは少しカマをかけてみる。実際ここ数日、インターン生の何人かはそれで相談に来ていた。まあ、成績偏重のせいと言ってしまえばそれまでだが、慣れない環境の中で生活していくノウハウが足りない生徒、デリケート通り越して神経質な生徒なんかも結構選ばれるのだから、この時期に相談件数が増えるのは当然と言えば当然。中には熱弁の置き土産に「先生、彼氏いないんでしょ?」なんて告白しくさるプライド馬鹿も居たぐらいだ。
ルルもそうなら問題は無いが、いや、あるか……。
「あ、そうじゃないんです。ルルは、その、今あんまりインターンの事は考えないようにしてるから」
(って事は、コレか)
ピンときて、モニカは自分の座ったイスの後ろに回した右手の小指を、ツン、と立ててみる。次の瞬間には、なんだか自分が嫁き遅れてる理由がわかった気がして、少し悲しくなった。
「んじゃ、なに?」
元はと言えばこんな青春ど真ん中の子供たちの相談なんか乗っているから、自分もその頃に戻っちゃって、高望みしてしまうのかも知れない。ある一時期の子供は妥協なんて言葉知らないから。
(そう、そうに決まってる!)
あらぬ方向に向けられ始めたモニカの青筋が、ルルには見えただろうか、まあ、青筋が見えなくても、その据わった目を見れば、自分がいつの間にか、不用意な足運びすれば途端に爆破される、一触即発の地雷原に足を踏み入れたことぐらい容易にわかるだろうが。
「……えと、その、ルルの相談って言うのは、え〜と、あの、だから」
案の定、言い出せないルル。まあ、つい最近まで恋だのしゃちほこだのから隔離された環境で育ってきたルルだし、それも仕方ないと言えば仕方ないことではある。だが、すでに点火されてしまったモニカの導火線は、止まりはしないのだ。
(じれって〜な〜、さっさとゲロしちまえよ若造。あたしの一発は、大司教のお説教よりもキツイんだ! んな悩みチョロッと解決してやるぜぇ、ベエベー!)
などと思ったかどうかはともかく。
モニカの心模様は、もう酒癖の悪い上司そのものであるようだ。そういえば、どこかのコメディアンが、「女は二十五になったら三十まで冬眠させておけ」と言っていたが、今のモニカを見れば、それも納得できる気がするから不思議だ。
「……ルル、とっても大事なことを決めなくちゃいけないんです。それは、片方を選んだら片方が無くなっちゃうくらい大事なことで、だけどルルは、そのどっちにも決められなくて、ルルは、なんだかどうしたらいいか分からなくて、それで……」
なんとも抽象的な相談だった。大体を整理すれば、要するに二択問題でどっちも正解ってとこだろうか。まあ、ここまで聞けば、噂好きノートンを子飼いにしているモニカには、ルルの相談の大体の実態も分かるのだが、本人が言いたくないみたいだし、そこはモザイクをかけたまま話を進めるべきだろう。
「う〜ん。それはまた随分大変な問題に出会ったのね。まあ、中身を聞いてないから、漠然としたアドバイスしか出来ないけど……それでもいい?」
今にも泣き出さんばかりの顔をしてうつむくルルに、モニカは優しく語りかける。相変わらずパイプからは煙が盛大に立ち昇っているが、その表情はやわらかい。
ルルは、顔を上げずにうなずいた。随分男の子らしくなったと思っていたモニカだったが、今のルルを見れば、それが多分に強がりを含んだものだとわかる。それでも、ルルは強がりの中から本物の強さを得ようとしているのだ。人生の先輩としては、少しでも背中を押してやりたくなる。
「ルルちゃん。あたしが思うにね、それって、両方って答えもありだと思うのよ」
ルルが、肩をピクリと震わせた。なにかを言おうと顔を上げる前に、モニカはその肩に手を置いて続ける。
「難しいことは確かね。でも、挑戦してみてもいいんじゃない? ルルちゃんは、今、十三歳だっけ? あたしの経験談だから、あんまりあてにならないと思うけど、その頃だったら、もし失敗しても、いくらでも取り返せるはずよ。人生の先輩のありがたい名言。それにルルちゃんは男の子でしょ? ね?」
名言、もとい迷言であった。それは確かだ。モニカ自身、ルルぐらいの歳のことは、あまり思い出したくなかったりする。だが、だからこそ、あの頃の自分の姿を重ねて、代わりに上手くやって見せて欲しいと思ったりもするのだ。そんな失敗を繰り返して来たから、大人は、子供に期待せずにいられないのだから。
「……ルルに、出来る?」
ルルが、相変わらず肩を震わせてモニカに聞いてくる。モニカは、思った以上に華奢な肩を、何度も撫でながら、しっかりと通る声で、ルルに伝える。
「大丈夫。ルルちゃんが自分を信じられるなら――必ず、ね」
それから少し経っただろうか、部屋の煙も空気に溶け始めた頃、ルルはやっと顔を上げると、ゴシゴシと顔を擦って立ち上がった。
「ありがとうございました……ルル。そろそろ帰ります」
そう言ってそそくさと帰り支度をするルルに、モニカは苦笑する。
(やっぱり、男の子、なのかな?)
ルルが部屋を出る直前、モニカがルルを呼び止めた。振り返ったルルに、モニカは小さな包み紙を投げ渡す。突然のパスに慌てたルルだったが、なんとか落ちる寸前で、投げられたものをつかみ取る。
「空気も悪かったしね。青春と喉の味方、ハッカキャンディーよ。取っときなさい」
ルルは、モニカの気遣いに、丁寧に頭を下げると、少し暗くなり始めた校舎を歩き出した。遠ざかるルルの足音を聞きながら、モニカは心の中でつぶやく。
(ちゃーんと、信じんのよ)
「さぁて、そこのデバガメ二人組! もといコリーとノートン! 補習課題出されたくなかったらさっさと出てきなさい! あたしの生徒相談を盗聴した罪は重い!」
勢い良く窓を開け放つと、二対の目があたふたと驚きに見開かれる。
ひっくり返る二つの悲鳴を聞きながら、それでもモニカの青筋はいつの間にか消えていた。