第75節 振るわれた拳
速かった。
ジオの健脚は、いつも通り、疾風のようなスピードを生んでいた。
螺旋の階段を目が回るような早さで流れ下り、階下の導師室まで弾丸のように駆け抜ける。
しかし、なにか妙だった。
違和感があった。それがなにかというと言葉に困るが。
言うなれば、そう、今日のジオの走りは妙に静かな感じがした。
だが、実際、ジオの走りが静かであるなんてことは物理上ありえないわけで。
ドゥッ、ガラッ!
その騒々しさは木枠の扉を開ける音にも表れていた。
「導師! 聞きたいことがある!」
呆然とした導師たちの視線をその身に集めながら、ジオは一番近くにいたオラデッティオ導師の胸倉をつかむ。
「オレが、インターンに選ばれなかったってのは本当なのか!?」
泡を食った魚のように口をパクパクさせる細身の導師。
「答えろ! オレは……選ばれなかったのか!?」
怒号の後の静寂の隙間。誰も、なにも言うことができない。ジオの剣幕に、場は完全に飲まれていた。追いついたノートンや他の野次馬生徒たちも、ハラハラワクワク成り行きを見守るどころか、萎縮してしまっていた。
ジオの歯が軋むのがわかる。
再度、怒鳴りかけたジオを制するように、冷え冷えとした言葉が発せられたのはその時だった。
「選ばれなかった」
皆の視線が、声の主に集まる。
「サーバイン君。その手を離したまえ。そんな暴力では事態はなにも好転しない」
声の主、学士院エルファーム支部において、もっとも齢を重ねた老獪、ドッパラピッパラ導師は底冷えのする眼差しでジオを刺し貫く。
ジオを炎の虎とするならば、ドッパラピッパラ導師は氷の蛸のような印象だった。場を凍らせる怒りのオーラ。ジオはその頭部の眩しさに目を細めた。
ようやくジオから解放されてゴホゴホとむせかえっているオラデッティオに一言かけると、ドッパラピッパラ導師は前に進み出て、ジオと相対する。
興奮した瞳にひるみもせずに、いつも以上の気難しい表情。
「別に、暴力なんて振るっていない」
「少なくとも、私にはそう見えたのだがね」
「それはそこはかとなく気のせいだ。それより……」
「私にはそう見えたのだ!」
氷の表情。反面、激しい言辞。
はむかえば、望まない厳罰が待っているだろうことを予想させる語気。
普段から相性が悪く、ジオに対し雷を落とすことが稀ではない導師である。だが、どこか、笑って眺めていられるような、いつもの境界を今の導師は明らかに越えていた。
誰もが感じ取っていた。ドッパラピッパラ導師から発せられる威厳。
皆が畏怖を享受し硬直する中、ただジオはまったく物怖じしていなかった。
怖いもの知らずというか。胆力に優れているんだか、頭に血が上ってしまっているのかわからないが、ジオは憎しみすら浮かぶ真剣さで睨み付けている。
静かな時。
だが確実に時は流れ。
どんなところにも、言わなければ良いのに余計なことを言うやつがいるもので、ジオが言葉を返さないでいるのを怯んでいるのだと見誤り、教務担当のグォーライ導師がこんなことを言った。
「ふっ、まったく。サーバイン殿とご嫡子殿はあんなに優秀だったというのに。残りものはとんだ落ちこぼれですなぁ……」
かすかに語調が震えていたところを見るに、自身を落ち着かせる意味も込められていたのだろうが。
数瞬後にはジオの右の拳によって床にたたき伏せられていた。
「ジオさん!」
「グォーライ殿!」
二人に殺到する人々。あるものはジオを取り押さえ、あるものはグォーライの安否を確かめる。
「なぜ殴った。サーバイン! 君は……」
「オレができねぇってのと親父やアレックスとは関係ないだろうが!!」
ドッパラピッパラ導師の非難を怒号がかき消す。それほどの力が、その言葉にはあった。
再び静けさを取り戻す室内。白目をむいたグォーライの口から泡が垂れ流れる。
「……わかった。サーバイン君」
ドッパラピッパラ導師はグォーライの呼吸を確かめると立ち上がり、ジオを見た。
ジオも四人がかりで羽交い絞めにされながら、導師を見返す。
「だが、君が導師に手を上げたのは事実だ。私は主任導師長として君に停学処分を言い渡す。詳細は後に伝える。それまで、謹慎していたまえ」
「そんな!?」
叫んだのはジオではなかった。
ジオは身にまとわりつく四人を振りほどき、黙ったまま部屋を出て行った。
アイリーンはすぐに後を追ったが、すぐそばの位置まで行くと立ち止まった。悲しい顔をして、もうそれ以上近づけず、声をかけることもできなかった。
壁には点々と、拳の跡が刻まれていた。