第74節 湿り気をおびた日
さて、年中暑苦しいジオという男が、梅雨のような湿り気を帯びたのは、ある日の放課後のことであった。
帰宅時間になったというのに教室は学士院生たちのざわめきに満ちていた。教壇には導師先生の口真似をする男子たち。仲の良い数人集まって他愛無いおしゃべりに興じる女子たち。その後ろの席に座り豪快に寝息をたてているのはジオである。
平素から講義中に寝ることの数あるジオであるが、この居眠りにはまがりなりにも理由がある。先日学士院の休暇の終わりにアイリーンとジオとはエルファーム名所巡りをしたのであるが、調子に乗って時刻が遅くなり、眠ってしまったアイリーンを起こさないようにそっと背に乗せて帰ったのである。
彼にしては珍しいくらいの気配りだ。彼にとって彼女は特別なのだろうか。もし、彼女でなく他の人物が彼の背中に乗ったりしたものなら小数点以下四、五秒の早業で振り落としたりしなかったり。
「ジオさん。起きて下さい」
「うう……おのれ、くそ親父めぇ……サラダパンダを手に入れるのはこのオレだぁぁぁ……」
「な、なんなんですか。それ……」
と、戸惑いの声を上げたのは気弱げではかなげで病弱そうな女の子、アイリーンである。彼女は隣の自分の教室からジオを起こしにきたのだ。普段はジオが来るのをおとなしく待つのだが、たまにジオが、用事があって遅かったりするとたまらずに来てしまう。以前は独りではこられなかったのだが、最近は独りでも来るようになった。その到着点にはジオがいる。
控えめにゆすぶってもジオは一向に起きない。昨日はよっぽど疲れたのだろうか。この前、不思議な島に出かけた時の方が客観的に考えても大変だったと思うのだが。
昨夜はそれほど神経を使ったということか。
泥のように眠るジオ。その寝る様は豪放そのものだったが、アイリーンの目にはどのように映るのか。寝顔を見つめながら隣の席に座ったアイリーンは、机の上で腕を組んでその中に顔をうずめるとジオの閉じた瞳に向かい合う。
よだれを運河のごとく垂れ流し、口から洩れるいびきは活火山。公共の施設でやろうものならたたき出されること必至だろうが、いまや事実上治外法権である放課後の教室であるからして その心配はない。
やりたい放題な様態のジオ。アイリーンは微笑ながら、見つめている。
ささやかなりし幸福の時間。
それを堪能しつつ、アイリーンは思わずジオの愛らしい寝顔に……彼女にはそう見える……手を伸ばした。頬に触れ、クスリと笑みを深める。
「なんじゃこりゃぁ!!」
突然ジオが立ち上がったのはそのときだった。
そんなこと言われてもとっさに返す言葉を持たないアイリーンはしばし硬直し、
「ノートンだよ」
ひょっこりと、前の席との隙間から、歩くゴシップ紙、ノートンが現れたのだった。
「あ……アイちゃん。うわ、悪い。オレ寝てたか」
「いえ、確かに寝ていましたけど、そんな、気にしないでください」
「実にナイスな無視だね、お二人さん」
むしろ爽やかなくらいに非難を上げるノートン。
「そんなところにいたなんてちっともわかりませんでした」
「というか、わからないうちに消えろ。えせ為政者」
「えー、僕ってば二人に嫌われることなにかしたっけ?」
「どーやら、昨日オレとアイちゃんを尾行していたやつがいたみたいなんだよなぁ、しかも色々吹聴して回っているそうなんだよ。なにか知らないか、好奇心の強いノートン君」
「ははは、それなら知ってるよ、ジオライト君」
「へえ、それは誰なんだね」
「もれなく僕さ」
「臆面なく言うな!」
捻りのはいったアッパーカットがノートンのあごをとらえた。
「ま、まぁ、待ってくれよ。とびっきりホットなビッグニュース教えてあげるからさぁ」
目の端に涙をためたノートンはそれでも軽薄な笑みを浮かべて待ったをかけた。アイリーンの非難がましい視線とジオの怒りをはらんだ視線にさらされながら、ノートンはあごをさすりさすり立ち上がる。
「いいや、聞きたかないね」
「そう言わずに〜。誰もが気になる今年のインターン生の発表だよ〜ん?」
ノートンのその言葉を聞いた途端、ジオの表情が強張ったようにアイリーンには見えた。
それは、うすうす予感はしていながらも、直視したくはない現実だった。