第73節 ルルの記念日
静かな夜だった。
昼とはうってかわってひんやりとした風が通りを吹きめぐる。
花の都と呼ばれるエルファームは、貿易が盛んで活気に満ちた町であるし、他国に比べ温暖な気候であるため、過ごしやすい。また港町の特徴として、その名に恥じず『夜の花』もしっかりと咲く。まぁ、花は植え方が肝心というか、それは区切られた歓楽街の話。
郊外へ出れば、普段の住み心地は驚くほど良い。
閑静な郊外の一角。夜更けになっても灯りの消えない家があった。かのアリアンロッド家である。
郊外の住宅地でジオの家以外深夜に灯りが残っているのも珍しいことだが、それがアリアンロッド家であるというのはますますもって珍しいことである。ママさんは日頃からハイテンション過ぎるくらいハイテンションだから寝付きもいいし……歳って言っちゃダメ☆ ……長女のマリアさんは王宮警備という仕事の性格上、家を空けることが多いし、ルルはと言えば品行方正な優等生で最近はもんもんと悩めるお年頃♪ なのである。それじゃ逆に寝付き悪いだろ、なんてツッコミは無視して……睡眠に関しては周りの家よりよっぽど規則正しい生活を送っている。そんなアリアンロッド家が珍しく夜更かしをしている理由。
それは――。
「……ルルちゃんがいなくなっちゃうなんて〜、ママはとぉ〜っても悲しいなぁ」
エルファーム特産の上質な花油が提供する暖かな灯りの中で、三人で使っても大きいテーブルにうなだれたママさんの独白が響く。
目の冴えるどピンクのネグリジェに包まれてはいるものの、その様子はこれから寝る人間のものではない。洗い上げられ、落ち着いてしまった髪の艶と少し眠そうに下げられた目尻、少し尖らせた唇から出る声に、いつものハイテンションさは微塵も感じられない。小さなランプの灯りに照らし出される虚脱感もあらわな表情は、それこそ「どうしちゃったんだママさん!?」ってな感じである。
ママさんの声を聞き取って、洗い場から聞こえていた、食器の触れ合うカチャカチャという音が止まる。
「別に今生の別れってわけじゃあるまいし? そんなにへこまれたらこっちまで参っちゃうじゃない」
そう言って洗い場から戻ってきたのは、今回で有給休暇を使い切ってしまったマリアだ。
落ち着いた白のブラウスと薄茶のフレアスカート。いつものストレートも今日は邪魔にならないように結い上げられており、手の水気をぬぐっているのは、彼女の体型にしっかり馴染んだエプロンで……色はどピンクではなく清潔感のある薄い青である。日頃から鎧を着用する事を前提とした軽装が多い彼女だったが、今日はいかにもまあまあ家事担当然とした家庭的な服装である。
マリアは居間に着くなり無言でランプの明るさ調節つまみを捻る。
パキンッ。
呆気無い音を立ててランプのつまみが折れた。部屋は明るくはなったが、さすがにこれでは明る過ぎる。間近で焚き火をしているような明るさだ。
「あ〜、マリアちゃん壊したぁ……ママし〜らない。自分で買って来たんでしょ〜、力加減もわからなくなっちゃったのぉ?」
強すぎるランプの明かりに目を細めながら、ママさんがすねたようにつぶやく。最後の方は、少しだけ心配気に。
しばらく呆然としていたマリアだったが、はっと気付いたようにランプのつまみをテーブルに置くと、ランプの光源を吹き消す。部屋は一転、闇の中。それでもしばらくすれば目も慣れてくる。今夜が満月であったことも幸いした。マリアは、そもそもその月明かりで洗い物をしていたわけであった。
「今度は暗ぁい。今夜のマリアちゃん少し変よぉ?」
「細かいことは気にしない! 別にいいじゃない。洗い物多かったから少し疲れているだけ」
本当はあまり片付いていない洗い物とママさんの非難を、いつも通りの勢いでかわして、マリアもテーブルに着いた。定位置。マリアとママさんが向かい合って座り、ルルがその間に、ちょうど窓を背にする形で座る。ママさんの女の子女の子教育が始まる以前、ルルの父親がこの家にいた頃から、このポジションは変わっていない。
父親は育児にはこれっぽっちも向かない男だったが、ママさんもマリアも、新しく生まれ、家族に加わった存在――ルルには惜しみ無い世話と愛を注いでやりたかったから、なにかと手の届くこの配置はつまり、陣形なのだ。
そんな二人の会話は途切れたまま。憎まれ口の一つも出てこない。
横たわるのは静寂。まるで、訪れるであろう変化を少しでも遠ざけたいかのように、ママさんもマリアも、見飽きた部屋になんとなく視線を漂わせている。
「……ねぇ、マリアちゃん。この傷。覚えてる?」
ママさんが、いつもと少し違った口調でマリアに語りかける。ちょうどテーブルに置きっぱなしになっている果実酒の瓶をつかんだマリアは、そのままの姿勢で、ママさんの指差したテーブルの一角に目をやる。
「ルルが初めて怪我したときの傷でしょ。テーブルに乗って、お父さんと遊んでる時転んで、そこに頭ぶつけて……」
「そうそう、あの時最初に駆けつけたのがマリアちゃんで、パパはオロオロしちゃってまったくなんの役にもたたなかったのよねぇ……」
まるで不安を忘れたかのように、二人は言葉を繋いでいく。話題が過去のものなのが、その不安の表れであることに気づいていたとしても。
「そうそう……って、それ見てコロコロ笑ってた人が、今更なにを言うかぁ!」
マリアの絶妙のツッコミを、ママさんは当時から変わらない笑顔でコロコロと受け流す。と、その笑顔が不意に凍った。
「だって、ルルちゃん泣かなかった。代わりにこう言ったの『ルルは泣かなかったから、お父さんみたく強くなれるね。でも、テーブルさんは痛かったかな?』って、マリアちゃんは慌ててたし、小さかったから覚えてないかもね……その時ねぇ、ママ。この子もパパと同じで、いつか強くなってどこかに行っちゃうんだ、って思ったの」
マリアは無言だった。ママさんが、いつものポワポワフワフワしたママさんじゃなく。一人の母、一人の女として、マリアの目には映っていた。
「だからぁ、ルルちゃんが女の子になるといいなぁって思って、育ててきたんだけどねぇ。やっぱり強い子になってくれちゃったみたい。思ったようにはいかないわぁ。ね、マリアちゃん。その歳になればわかるでしょ〜、ママのぉ、愛らしくて〜いじらしい〜気持ち♪ みたいな〜」
マリアは、黙って果実酒の瓶を放すと、キッチンにとって返し、洗い終わったばかりのグラスを持って戻ってきた。乾ききっていないグラスに、淡い琥珀色の果実酒が注がれる。
と、陽炎のような揺らぎを残して、水と果実酒は混じり合う。
「冗談も休み休み言ってよね。まだ夜も長いし、久しぶりに飲まない? ……母さん」
ママさんはグラスを受け取り一息にそれを飲み干す。そして見事に空になったグラスをマリアに差し出し、ケロッとした表情で続ける。
「マリアちゃんの就職記念以来ね〜。でもぉ、マリアちゃん? その時の飲み比べのせいで初めてのお仕事休んだこと、忘れてない〜? ちょっとは強くなったのかしら〜?」
マリアは、苦い思い出を掘り返されて顔をしかめて見せたが、エプロンをバシッと放り投げると、臆せず自分もグラスを空にして見せた。新たな一杯を注ぎながら、甘い匂いの中、ささやくようにつぶやく。
「いいのよ、今日はルルの――記念日なんだから……」