第71節 祝日の終わり
「面白そうな子たちだったでしょう?」
真っ暗闇の洞窟。若い女の声が茶色の服の女、ウェビライラを迎えた。ウェビライラの記憶では、この女性がいつごろ来たのかわからなかったが、
「あなた知っていたの?」
質問には答えず聞き返すウェビライラは予期しない人物の登場にもさして驚いていないようだった。まるでその女がこの場所に突然現れることは不思議なことでもないというように。ウェビライラと彼女とは旧知の仲だった。暗闇の中であっても相手の姿をはっきり思い浮かべられるほどに、彼女の多くを知っていた。さすがに、彼女の今の姿が、フィービー・ノーレントと呼ばれているといったことまではわからないが。
「まあ、ちょっとね。あの子らなら、まあ、心配ないわ。いざとなったらまた入り口を閉じればいいんだし」
(期待通りに、片方の問題は解決してくれたわ)
フィービーは笑う。
「……あなたはいつも楽観的ね。私は、彼女が求めるものが現れるまで彼女を守る。彼女に危害が及ぶような要素を野放しにはしておけないわ」
そんなこと言ってもあたしは知っているのよ、といった女の雰囲気は見せずに、
「あんたはそういう風にできているんだから、まあ、しょうがないけどね。だけど覚えといた方がいいわよ。案外、ああいう不安定な子供たちこそ古い鎖を断ち切ることができるんだってことをさ。でないと好機を見誤るわよ」
「知ったようなことを」
消えゆこうとする女の気配に向かってウェビライラは悪態をついた。この女の軽率さを、今この世に生きる誰よりも知っているからそんなことを言うのだ。
「知っているわよ。あんたの守る、あたしの義妹もそんな子供だったもの」
軽い口調で言って、女は完全にその場から消えた。
界隈では密かに定評がある香花亭で一人、壮年の男がカウンターに座り黙々と食事をとっていた。
まだ時間が早いせいかどうかは知らないが、周囲にほとんど客はいない。テーブルの一つでは真っ青な髪の青年が、この店のウェイトレスなのだろう、エプロンをした栗色の髪の少女に叱られている。カウンターの向こう側にいる店の主人は興味ないのかこちらを見向きもしていない。
壮年の男は、はっとある事実に気付くと、スプーンを持つ手を止め、さっと立ち上がった。
「このガーリックライス。うめえ……」
男は目を見開いて重々しくつぶやくと、なに事もなかったかのように席について再び黙々と食べ始めた。
この男、武道家。見た目ではわからないが、それなりの腕の者なら余分な肉をかなぐり捨てたような引きしまった身体をしていることに気付くだろう。東方出身者らしく、真っ黒に日焼けした顔はどこかエキゾチックな雰囲気を漂わせている。
男はガーリックライスを平らげると、おくびを漏らしかけたのを手で塞ぎ、水を飲みながらこれからどこに行こうか、一人旅の次の目的地を考えた。
と、彼の目に止まったのは右手で握っているコップ。半分程で揺れている綺麗な水であった。
男はにやりと笑うと、一気に残りの水を飲み干した。
食糧の詰まった樽や木箱と共にふよふよと漂流しているところを、ルルたちがたまたま近くを通りかかった漁船に助け出されたのは船が大破して丸々一日経った頃であった。
毛布に包まり、ヒゲ面の漁師のおじさんにいれてもらったスープで体を温めながら、ルルは心配そうに言った。
「ジオさんとアイリーンさんは今頃どの辺りにいるんでしょうか?」
「さあねぇ」
ルルのつぶやきを聞きつけたツララは大して心配はしていないように、むしろ疲れてそれどころではないといった感じで言った。
「今頃エルファームについているんじゃない?」
苦笑交じりのその一言は、果たして的を射ていた。
漂流後、ジオとアイリーンは他のみなと別れて一心にエルファームを目指した。
砕けた船の残骸をビート板代わりに、背に乗せたアイリーンに方角を確かめてもらいながらジオはひたすらバタ足に励み、ついにエルファームまで自力で泳ぎ切ってしまったのだった。
もはや人間業じゃないかもしれない……。
波止場の石畳にアイリーンの体を押し上げながらジオは気遣う言葉をかけた。
「大丈夫かい、アイちゃん?」
「はい、私はジオさんの背中に乗せてもらっていただけですから」
「だけど水に濡れて体も冷えちゃってるだろ?」
「はぁ、でも……」
(ジオさんの背中、とても温かかったから……て、あぁ、私ったらなにを……)
顔を真っ赤にしていつも通り失神しかかっているアイリーンをはらはらと見守るジオに「おい、そこの君」と声がかけられた。
「なんだ馬鹿野郎」とばかりに睨みを利かせるジオ。石畳の上にどっかりとあぐらをかいて釣りをしている男が目に付いた。
青年と壮年の中間くらいの年齢か、肌は浅黒く、東方訛りの濃い口調。身につけた胴着のような服はボロボロでいかにもうさんくさいやつだった。
「君は、この湖をずっと泳いできたのか?」
「ああ、それがなにか悪いのか!?」
アイリーンがいるからか、単にいい加減疲れて不機嫌なのか、警戒心たっぷりのジオに、男は別にそのことを気にした風もなく、
「いや、悪くない。君、いいな、才能あるよ」
「は?」
「君みたいなのを探してたんだ。君、俺の弟子にならないか?」
「ルルちゃん!」
ルルが渡り板を渡り終えた時、呼び声に反応して振り返ると、胸の中に少女の体が飛び込んできた。
「ルルちゃん」
上目遣いの瞳は潤み、切なげにのぞきこんでくる。自分の名を呼ぶ甘い吐息が頬を撫ぜ過ぎてゆく。くすぐったい。ルルはいきなりの出来事にどう対応をすればいいのか戸惑い、硬直してしまっていて、
「……あたし、ルルちゃんじゃなきゃやだよ。お願いだから……お願いだから、一緒に来て……」
仮面を外したままの、素顔のシュリーはいつまでもルルに哀願していた。
ルルはどこか遠くのほうで「あーっ! こんのドロボウネコーッ!?」という叫びを聞きながら、自分が今、決断を迫られているということを改めて強く感じていた。
ツララは帰宅後、荷物を自分の部屋に置いて、広間に戻って硬いソファに腰を埋め「うー」とうめき「ご飯つくんないとなー」と気だるく思い「もう少ししたらでいいや」とつぶやいて、目を閉じてリラックスして、あくびをしかけて、そして気付いた。
「あ。父さん置いてきちゃった!」
エルファームはその後の三日間、平和だった。
ちなみに。
この年の花の祝日。
今までの業績を讃えられ、今年ルルの母親に『花園の乙女』の称号が与えられたとかいないとか。
乙女に年齢は関係ないらしいということだ。
この節で第四部終了です。