第56節 ムサシタイタニック号最後の航海
ぎぃ……ぎぃ……ぎぃ……。
これは船のたてる音。
ジオたちの乗る小型帆船が波に揺られるごとにきしむ音だ。
聞く者をすべからく不安にさせる素晴らしい響きである。
「それにしてもボロい船だなぁ。ここまでひどいのは見たことないぜ……うぉっ、床が抜けた!」
「ジオさん……私、なんだか怖いです……」
「ツララさん、本当にこの船で行くんですか?」
「もっちろん。もう出航の準備だって整っているし。なんでそんなこと聞くかな〜?」
いかりを巻き上げながらツララはさも心外そうな顔をした。
「え……だって……」
「だってめっちゃくちゃボロいし! 今にも沈没しそうですよ、この船!」
ルルに代わって大きな声を上げたのは遅刻してきたくせして偉そうにしているコリーだ。歯に衣着せぬ物言いをするやつである。
「む〜、この風格がどうしてわかんないかな〜? この存在感。この古臭さ。アンティークだよ、アンティーク。素晴らしいじゃない」
バキィッ、と音をたててツララの手をかけたヘリの部分が取れた。
「……」
「……」
「アンティークなんて実用品じゃな〜い!」
「こ、この船は実用的なアンティークだよ〜!」
取れた部分を慌てて元の部位にはめ込むツララを冷静に観察しつつシュリーが言った。
「明らかに耐久性に問題がありますね。出航は延期して補修、もしくは他の船に変えることをお勧めします」
「え〜い、これで行くったら行くの! 私は別にチャーターする船間違えたから強弁してるわけじゃないんだよ。この船が今回の航海にぴったりだと思ってるからなの。そう、そうなのよ! ぴったりだと思ってるのよ!」
「……ツララさん、なんだか思い込もうとしてません?」
「ええい、とにかく出航! いかりぃ……は上げたから、帆を張れーっ!」
「イエッサー!!」
「ちょ、ちょっと、ジオさん!?」
「風向き良し。天気良好。本日は航海日和なり。全速前進! ムサシタイタニック号出航!」
「いやーっ!」
かくして彼らのひと夏のボヤージュが始まった。
その行く手になにが待ち受けているのか、誰一人として知る者はいなかった。
船底に人知れず張り付いている変な男を含めて。
「ジオさん、ジオさん。見てください。水が、青く輝いています。きれいですね」
「そうだな。アイちゃん、湖は初めてかい?」
出航からしばらくたつと、すっかりオンボロ船にも慣れたか、みんな思い思いにクルージングを楽しみ始めた。
船縁に身を乗り出してはしゃぐアイリーンを見て微笑むジオ。
「はい、私が育ったところは山ばかりでしたので。川なら、知っていますけど……。ジオさん、湖の水ってしょっぱいんですよね?」
「はっはっは、馬鹿だなぁ、アイちゃん、ミソスープじゃあるまいし。いいかい、湖水は海水と違って甘いミルク味なんだよ」
「適当なこと言わない!」
スパコーンとツララのツッコミが決まった。
「え……じゃあ、キャラメル味?」
「違〜う。水はそんな味しないでしょうが。ふざけないの!」
「……甘くないです〜……」
「アイちゃんも本気にしてなめないのっ!」
と、ツララが苦笑して叫んだ時、
「……あ、あれれ……?」
メキャッ、と音がして船縁が崩れ、アイリーンの体が水面に投げ出された。
「アイちゃん!」
〇・三秒。
ジオは誰よりも彼よりも早く飛び出していた。アイリーンの落下軌道を一瞬で判断し床を蹴る。しかし、その延長線上にアイリーンはいなかった。
「……え?」
とっさにアイリーンの服のすそをつかんだツララの横をスライドし、二人の驚きの表情にそれぞれ目を合わせ、コマ送りのようなスローモーションで、ジオは水面へと落ちていった。