第50節 今は、手をつないで
柔らかな女の子の身体が、寄りかかるように自分の胸に顔を埋めている。
(今なら誰も見てねえ、チャンスだ、やっちまえよ、押し倒しちまえよ、ほらほら、ぐずぐずしてねえでさっさとしろよ!)
古の大悪魔メイチャンの囁きは、しかし倫理委員会の内政特権……いや、神の裁きの前に消滅し、ジオの耳に届くことなんか全然なかった。
ジオはどうしていいかわからず、アイリーンを支えたまま硬直していたが、やがてアイリーンが目を醒ますと、彼女はジオの顔をぼんやりと見つめ、慌てて飛び退いた。
「……ご、ごめんなさい。ジオさん。あの、その、えと、みなさんのおかげでした……?」
「い、いや、どういたしまして……い、いや、いたしてなんかないけど」
慌てふためいて噛み合わない会話。二人の間に沈黙の帳が落ちた。
(なにか話さなければ……!)
混乱した頭で必死に考えるものの、こうした時に限ってさっき芳しかった女の子の匂いが頭から離れないもので。
まごつく間にアイリーンが先に口を開いた。落ち着かない表情をしていた。
「あの、ジオさんてご兄弟の方とかいますか?」
「ああ、いるぜ。アレックスって兄貴が。それがどうかしたの?」
「いえ、別に……」
アイリーンは下の方に視線をはわせた。釈然としないものを感じて、ジオが口を開きかけたその時にアイリーンは鋭く言った。
「家族か愛する者かどちらか一方だけを選べ!」
「え?」
「……なんて言われたらジオさんはどうしますか?」
落ち着いているように見えた。いつもの彼女にしてはとても強い語調に思えた。
けれど、どこか追い詰められて恐怖に震える小鳥のような印象があった。守りたいと思わせる不安に揺れる瞳。このまま消え去ってしまいそうなはかなげな彼女。ジオはゆっくりと口を開いた。
「オレは……」
「ああ〜ん。そこはダメよぉ、お姉様ってば〜♪ ああん♪」
ベッドの上でコリーが嬉しそうに身悶えした。そういえば、ここはコリーの寮室だった。
ジオもアイリーンも、思わず吹き出してしまい、収拾がつかないほどで、それでも尚コリーは起きないで寝言を言いながら、くねくね動くものだから二人は笑い続けた。
目の端に涙をにじませながら、アイリーンが言った。
「帰りましょっか」
「そうしよっか」
コリーの部屋を後にする。つないだ手からはぬくもりが伝わっていた。
夏の夜。うすら明るい闇の中を藍色の衣が翻る。
フィービー・ノーレントと呼ばれる女は学士院に踵を返し、唇の端を上げた。
「終わりよければ全て良し、なんてね」
手持ちの鈴の音は清澄に鳴り響いて、やがて夜の闇に溶け入る……そのとき、
「先日、ヘルハウンドを逃がしたのは、あなたですね」
青空より蒼い髪の青年がすっと路地から現れた。
「……あら、女王の……。なんで私だって? いいがかりはよしてよね」
「僕より先にあの密貿易のアジトに忍び込んで誰にも見つからずにヘルハウンドを逃がすなんて神業をできるのは、この国ではあなたしかいないでしょうし。しかもそれによって無用に騒ぎが大きくなっただけ、という結果を見ても、あなたしか犯人はいない」
たぐいまれな能力を持った愉快犯と彼は言う。
「えらい言われようね」
と女はくすりと笑う。
「……勘弁してください。おかげでとても大変だったんですよ」
「悪いわね、でも、必要なことだったのよ」
「ひまつぶしに?」
青年の嫌味には答えずに、
「平和な毎日なんてものは、針先にのっている皿みたいに不安定なものだわ。いつ、普通じゃない世界の普通に呑まれるかわかったものじゃない。もし、呑まれるときが来て、そのとき、どれだけの人間がその非常時に対応できるかしら? もし、再び悪魔の時代が来たとしたら、今度は、聖戦士は現れるのかしら?」
フィービーが言っているのは約三〇〇年前の昔の話。
ルシファーと呼ばれる古代種族が封印から解かれ、神々から下賜された聖戦器に選ばれた十二人の戦士によって滅ぼされるまで、世界各地でルシファーという悪魔たちの一方的な殺戮の行なわれた、暗黒の時代。
しかし、それも、今は神話の時代になりつつある。
「なにが言いたいんです? ルシファーが復活するとでも? それを意図的にできる人なんて、それこそあなたくらいの力の持ち主しかありえない」
青年の厳しい詰問に、フィービーはふうとため息をはき、
「万が一の話をしただけよ。するわけないじゃない。それに、復活なんてしなくても悪魔の爪跡はいたるところに残っているわ」
フィービーは、観念したように手をひらひらさせる。
「……本当はね、退屈だっただけ。面倒ごとはドタバタしていたほうが面白いでしょう?」
「本当に、勘弁してくださいよ」
「大丈夫、大丈夫。あたしがなにしようが、この国は悪い方向にはいかないよ。あ、そうそう、これ、女王に手紙。渡しておいて。彼女が知りたがっていた幻の島のことと、あと、宰相派の残党について書いてあるから」
一方的に用件を言いつけて、女導師は青年からさっさか遠ざかる。恨めしそうな目から逃げるように。
表層に現れないだけで、平和な国にも問題は山積みである。
(あなたたちのことは好きだけど、私はこれ以上手を貸さない。年寄りがでしゃばっていいことないし。それに、かわいい子には旅させろ、なんてね)
青年から見えないように、フィービーは舌を出していたずらっぽく笑うのだった。
この節で第三部終了です。