第49節 二人の指きり
空間の狭間にはなにもなかった。夜でもないのに真っ暗な空間が、わずかに藍色を帯びてどこまでも続いている。呼吸はできるのだから空気はあるということだろうか。始終、水中を漂うようなふわふわした解放感がするが浮遊感は乏しく、段々と上下感覚や遠近感が消失していく。周囲から自分を拘束するものが離れていく。
これが自由? これが解放?
もし、そうだとしたら自由解放論者はひたすら無意味だ。全てからの解放はつまり世界からの追放ではないか。大地の束縛なくして人は生きられぬのだ。
ルルはふとすればどこかに飛んで行ってしまいそうになる身体を、ロープを伝ってなんとか進めた。
足の下の方は今出て来た迷宮の裂け目が見える。ロープは頭の上の方、やたら眩しい裂け目まで続いている。
「このロープを放しちゃダメだよ? 空間の狭間で迷子になったらどうなるかわからないってこと知っているよね?」
なんて事言いながらシュリーは苦もなくひょいひょいとロープを伝って進んで行ってしまう。動きが全然危なっかしくない。ジオも溢れる体力でぐんぐん進んでいく。
「それにしても、ジオさんは最初ロープ持ってなかったですよね? 一度脱出する時はどうやってここを移動したんですか?」
慣れない感覚に戸惑いながらも、多少余裕の出て来たルルの素朴な質問にジオは何気なく答えた。
「ああ、泳いだ。バタ足で」
ルルにはジオがとてつもない人物に思えて仕方がなかった。こんな紋章術師志望の学生なんてこれまでにいただろうか!? まぁ、異空間の表層だから泳ぎきるなんて暴挙がなったんだろうけど、それでも十分とんでもない。
ジオ、やっぱり紋章術師より向いている職業があるんじゃなかろうか。
やっとの思いで学士院に戻ってくると、もうすでに犯人のフィービーの姿はなく、置き手紙があっただけだった。
『色々迷惑かけてごめんなさいね〜。この不始末、一度は証拠さえ全くなければ……なんて危ないこと考えたけど、さすがに人道的にまずい気がするから雲隠れすることにしたの。無事全員戻ってこられたみたいだしここはひとつ笑って許して? ネ☆ じゃあね。マイスウィートスチューデンツ。くれぐれも私のこと探さないでね♪』
一発殴ってやりたい気がしないでもなかったが、もうほとんど怒る気力もないくらい疲れていたので、追わないことにした。それよりも早く家に帰って休みたかった。
ジオが扉を開けて入って来た時のアイリーンの表情といったら全く想像以上のものだった。
ジオがルルを探しに三度空間の狭間に飛び込む時、アイリーンも本当は一緒に行きたかったのだが、シュリーがルルを迎えに行きたがったためにやむなくコリーの看病に回る事にした。コリーが幸せそうな、無気味な寝言をする度に「えへへへ〜、お姉様〜、ルルちゃ〜ん♪」アイリーンはため息ばかりついていたのだった。
だからジオの姿を見るなりアイリーンは彼の元へ駆け寄ったのだが、抱きつこうとしている自分に気がついて恥ずかしさのあまり、瞬時に失神したのだった。
「あら、お邪魔だったかしらん」
心なしか顔の赤いジオとその腕の中で安らかに微笑んで失神しているアイリーンを順に見遣ったシュリーが二人を茶化した。言いどもるジオにシュリーはウインク一つ。ルルと共に出ていった。
「ジオさんたち見ていると、ルルまで恥ずかしくなっちゃうね」
もうすっかり暗くなった窓の外。学士院内の廊下には魔法のランプがぽつぽつと灯っていた。まだ残っている導師がいるんだろうか。
「あまりの可愛さに思わず理性を失い。我慢できなくなって、獣のような行動に走らないといいけどー」
ルルの横を並んで歩くシュリーが心配しているやらどうやら、脳天気そうに言った。
「なんの事?」
ルルが不思議がると、シュリーは「ルルちゃんもなぁ〜」と大仰に肩をすくめた。
「? それどういう意味なの?」
「秘密♪ それにしても、今日は約束が守れてよかった」
「約束?」
「あ、ひっどいなぁ〜。もしかして忘れてるー? 今日は一緒に帰ろうって約束してたじゃん〜」
「あ、ごめんなさい。ルル、忘れてた」
今日は色々なことがあり過ぎたからルルが忘れてしまったのも無理はない。
そういえば、あの魔法の箱はどこいったのだろう?
「ま、いいけどね。ルルちゃん無事だったし。でも、もう黙ってどっか行っちゃうのヤダよ?」
「うん、わかった」
うなずくルルの雰囲気が昨日までとほんのちょっとだけ違うような、シュリーはそんな感慨を受けながら、
「じゃあ、指切りしよう。指切りげんまん、嘘ついたら……♪」
「針千本飲〜ます。指きった♪」
「……え、今なんて言ったの?」
シュリーが目を丸くした。
「針千本飲ます、だけど、どうしたの?」
「あたしのとこだと、ガキ千人子〜守り、って言うんだけど……」
ぷ。
ルルは吹き出してしまった。なぜか、なんとなく。
針千本飲むのも、子供千人子守りするのも、それはもう大変に違いない。
よく考えればそんなに笑うことではないのに、廊下にずっと楽しそうな二人の笑い声が響いていた。