第32節 放課後の約束
「ねぇ、ルル君。ごめんね。あたしの為に」
「気にしないで良いってば。それよりシュリーさんに怪我がなくてよかったよ」
「ルル君が助けてくれたからだよ。本当に、ありがとう♪」
「……はいはいはい。治療中は静かにしようね」
二人の会話に、モニカ導師はげんなりとして割りこんだ。
ここは治療術室。シュリーには怪我はなかったものの、それを助けようとしたルルは膝をすりむいてしまったのだ。紋章学部の生徒である以上治癒の術も勉強していなくはないのだが、校則により原則として未熟な紋章術は使用を禁止されている。学生が使う紋章術は未熟だと考えられているため、学生はせいぜい明かりをつけることしか許されていない。ジオの風の紋章術は、校則違反だ。
ちなみにシュリーはまだ仮面を外したままである。
モニカ導師の術光に照らされた傷はみるみるうちに治っていく。
「……ルルちゃん。この子、こんな性格だったっけ?」と、ヒソヒソ。
「……仮面を脱ぐと性格変わるみたいなんです」と、ヒソヒソ。
ふぅん、と悪戯っぽくにやりと笑うと、モニカ導師は仮面を取り上げて、被せたり取ったりした。
「な、なにを……なさるんですか、導師……やめてくださぁい! ……訴えますよ?」
「あははは、面白ぉい! どこかの妹さんみたい! 声のトーンまで変わるのね」
「もう! 酷いですよ、モニカ導師ったら」
ぷんぷんと、空中に文字が浮かび上がるような勢いで可愛らしく怒ったシュリーは急にもじもじし始めると、
「あ、あのさ……ルル君。頼みがあるんだけと……」
「うん、なあに? 言ってみてよ」
「明後日のお休み、ルル君の家に行っていい? お礼もしたいし……」
「別にお礼なんて良いってば」
「ううん! あたしは、お礼がしたいの!」
ずずい、と乗り出してきたシュリーの目は『真剣』と書いてマジだった。
「そこまで言うんなら、良いよ。明後日のお休みだね」
「やったぁー!」
喜びいさんで跳ね回るシュリーを、そんなにお礼がしたいなんて珍しい子だなあとルルは微笑ましく思った。
そういえば、家に友だちを呼ぶなんて初めてだ。コリーとは何度か外で遊んだ事はあるけど、家に呼んだ事はないし、男の子の友だちもまたしかり。ジオさんとも、こないだ親しくなったばかりだし。
初めて友だちを家に呼ぶ、なんとなく男の子っぽい気がして、ルルは嬉しくなった。
モニカ導師はそんな彼らを「若いって良いわねぇ」と妙に年寄り臭く見つめていた。二六歳の春の事だった。
転入生のアイリーンたちは、住むところが見つかるまで、とりあえず寮に下宿する事になっていた。
コリーが寮の先輩として色々教えてくれるらしいから、ジオとはここでお別れだ。ジオもさっさと帰って勉強しないと遅刻のペナルティとして出された課題を終わらせられそうにもない。ドッパラピッパラ導師の問題は嫌らしい事で有名なのだ。
「それじゃ、もう帰る。さらば! アイリーン、コリー」
「さようなら〜」
「あ、はい……さようなら……あ、あのっ!」
「ん? なに?」
ジオが振り返る。
勇気を出しての精一杯の声。だけど、いざ振り返られると恥ずかしくなって、それからが続かない。
「あの……その……えと……」
(逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ)
どこかで聞いたことがあるような言葉を何度も自分に言い聞かす。
気を利かせたのかコリーはもういない。だけど、アイリーンは今にも失神しそうでジオはたまらなく心配だ。
「あの……その……あ、愛称で呼んで良いですよ……名前、長いし……」
言いたかったのは、もうちょっと別の事。だけど、アイリーンにとってはこれでも充分頑張った方だ。
戸惑っていたジオは元気一杯暑苦しい程の笑顔で、
「わかった! また、明日な! アイちゃん!」
アイリーンの胸の中に喜びの花が咲いた。そして……御期待通り、やっぱり失神した。
「だ、大丈夫かぁぁぁ!? よしっ、セーフ!」
なんとか支える事は間に合ったらしい。
「だ〜れだ♪」
「え……シュリーちゃんでしょ?」
「あったり〜♪」
ぽ〜っとしていて気付かなかった。もう、夕陽が沈み始める時刻。
『当たり』もなにも、この部屋を使うのは二人きりだ。本来三人部屋のところ、導師方に事情を話して二人で使わせてもらっている。
寮の部屋。五年前に内乱が起こった事は知っていたから、どんなところに入れられるのだろうかと一抹の不安を抱いていたりもしていたが、案外に綺麗で特に目立った汚れもない。
なんでも、王国建国期に造られた建物だそうだが、増築でもしているんだろうか? そういった建物には縁遠いアイリーンには皆目検討もつかなかった。
「で……帰ってくるなりいきなりだけど、どうだったのよ。二人っきりだったんでしょ?」
「シュリーちゃん。仮面どうしたの……?」
にやにや顔で詰め寄ってくる幼馴染みにアイリーンは冷や汗を浮かべた。
「仮面なんてどーでもいいのよ! それよりも、聞いているのはこっち! で、どうだったのよ?」
「別に、なにもなかったよ」
「なにもなかった? 本当に?」
「本当だよ」
アイリーンは自然に振る舞おうと努力した。この状態のシュリーはなにかと絡んでくるのだ。仮面かぶりの時は苦手だが、この状態の時も苦手だ。
……あれ?
まぁ、長い付き合いだから対処の仕方も覚えたし、大切な友だちである事に変わりはない。
「ふぅ〜ん」
シュリーは疑わしそうにアイリーンを見つめて、
「まぁ、そうじゃないかと思ったけどね〜。でも、もしかしたらキッスの一つや二つもうしているんじゃないかと思ったんだけど」
「キ、キッス!?」
そんな事をしたら、心臓が破裂してしまう。名前を呼んでもらっただけでも失神してしまうのに。
「わかってるって。わかってる。アイリーンがそんな事出来ないって事くらいは」
「……もう、からかわないでよ」
「……でも、本気なんでしょ?」
言われて、ドキンと心臓が高鳴る。体の底から熱くなるのを感じる。彼女の体は本当に正直だ。自分が彼をどう思っているのか、否応無しに教えてくれる。
耳まで真っ赤になるのを見て、シュリーが言った。
「昨日の朝会った人だよね。運命の恋人かぁ、いいねぇ♪」
シュリーはわかったように頷きながら、部族の語り婆から聞いた『大空を舞う運命の恋人』の話を思い出した。部族の若い娘が、運命に導かれるように恋人と出会い、一度離ればなれになって、結局結ばれるという歯の浮くようなラヴ・ストーリーだ。娯楽の少ない部族にいた頃はよく聞いたものである。
「……む〜、シュリーちゃんの方こそ、どうなのよ。治療術室までついていったみたいだけど?」
「え? あたし? あたしは、えっと……」
反撃されると、シュリーは途端にうろたえる。女ばかりの部族にいたから、結局は彼女も恋愛については素人なのだ。
まぁ、だけど、下手な感情が無い分、自分の気持ちに素直なわけで。
「……あたしはね、結構本気かも♪」
シュリーは頬を赤らめながら、照れたように言った。