第1節 暗闇からの始まり
風の冷えた、月のない夜。港湾区。
音もなく刃が踊る。紅い血が生命の輝きを示し、爆音が終結を奏でる。
鼻血を垂らしたひげの男の眼前に、青い影がたたずむ。状況からすれば、そこにいるのがあまりにも不自然な夏空の影。その人影は、転がっているひげ男たちを縛り上げると、爽やかな風をまとって、コンテナの奥へと足を踏み入れた。
そこにあったのは珍しさ、違法性共に比類ない品々。売りさばけば一財産軽く築けそうである。だが、青い影はそのどれにも手をつけることなく見て回り、光のいらぬ陰に鎮座した強固な檻を見つけた。鍵は開いていて、中には糞と毛以外何もない。
「……おや、これは大変だ」
青い影はぽりぽりと頭をかく。言葉の割に、大して動揺のない口調だ。影はもう一巡り積荷のチェックをしていたが、外が騒がしくなっているのを聞きつけて、ため息を一つ吐いた。
「これでは、またおかんむりですね。まいったなぁ」
やれやれと肩をすくめると、影はそのまま、すっと闇に溶けるように姿を消した。そこにいたという形跡はまったく残されておらず、後にはただ静寂が横たわるのみ。
「ハカセー、ハカセー」
人を呼ぶ声。ドタドタ足音がする代わりに、なんだかカラカラ乾いた音が響く。
ここはアゼン・ゴートバードという老魔術師の家。上空から俯瞰すれば、大陸に咲く大輪のバラのように見えるエルファームという国の、北区住宅街に位置する、レンガ造りのごく普通の家である。
だが、住人は普通とは言えまい。魔術師という肩書きからして。
この世界では魔術師は紋章術師と呼ばれ、一部の例外を除いて学士院という組織に所属している。どの国家にも依存せず中立を保ち、ひたすら学問の追究を行う学士院。ほとんどの紋章術師は学士院独自の自治領に住居を持っているのだが。
潤いの乏しい茶色い髪に白髪の目立ち始めた、紋章術師アゼンは一部の例外である。かつては学士院に所属していた時期もあったが、とっくの昔に除籍され、今ではこのエルファームで楽隠居。正式な紋章術師というのも珍しいが、彼のような経歴は更に珍しい。
しかし、このエルファームではそんなことは珍しくない。
どういうことかというと、珍しいということが珍しくないのだ。
エルファームは歴史的背景から、どんな種族にも門戸を開き、歴代の王たちはどんな特殊な境遇にある者にも居住権を与えてきた。追われる者、故郷を捨てた者、定住の地を持たぬ者、どんな事情がある者でも迎え入れる、懐の深い国。第二の故郷。
そうして、節操なく住民票を発行しているうちに、いつしかエルファームにはひと癖もふた癖もある住人たちが住み着くようになったのだった。