第3章 見る代償、失われるもの
夜の魔法学園は、昼とはまるで別の顔を持っていた。
学園を照らす魔法灯は必要最低限に抑えられ、広大な訓練場には、人の気配も魔力のざわめきもない。
あるのは、風が草を撫でる音だけ。
カケルは、訓練場の端に一人立っていた。
昼間なら生徒で溢れる場所が、今は空虚で、どこか不安を掻き立てる。
「……やっぱり、昼間だけじゃ分からない」
小さく呟き、深く息を吸う。
肺いっぱいに冷たい夜気を取り込み、意識を内側へ沈めていく。
怖くないわけじゃない。
だが、見ないままでいる方が、もっと怖かった。
《エラー検知》――発動。
次の瞬間、世界が軋んだ。
視界が二重に重なり、地面、空気、魔力の流れが“構造”として浮かび上がる。
その上に、赤い警告文が無数に走った。
――【魔力循環 過密】
――【結界強度 低下】
――【座標誤差 微小】
(……多すぎる)
昼間とは、明らかに違う。
まるで、夜という時間帯そのものが、世界の継ぎ目を緩ませているかのようだ。
(夜は……修正が追いつかないのか)
そう考えた瞬間――
ズキン、とこめかみを鈍い痛みが貫いた。
「っ……!」
視界が揺れる。
赤い文字が滲み、輪郭を失い、意味を持たない記号へと崩れていく。
――【観測限界 接近】
(限界……?)
足に力が入らず、膝が崩れた。
咄嗟に地面に手をつくが、感触がどこか遠い。
呼吸が乱れ、胸が苦しい。
「なんだよ……これ……」
そのとき。
視界の端に、見覚えのない警告が浮かんだ。
――【代償処理 開始】
「……え?」
次の瞬間。
世界の音が、消えた。
風の音が聞こえない。
自分の息遣いも、衣擦れの音も、すべてが無音。
まるで、世界から切り離されたかのようだった。
「……?」
慌てて耳に手を当てる。
だが、何も変わらない。
(……聞こえない?)
立ち上がろうとするが、足元が定まらない。
視界もどこか色褪せ、現実感が薄れていく。
――怖い。
その背後から、低い声が響いた。
「やりすぎだ、カケル」
振り返ると、そこに立っていたのは黒いローブの男。
教師――カラスだった。
「せ、先生……?」
声を出したはずなのに、自分の声が聞こえない。
「俺……今……音が……」
カラスは、静かに言った。
「《エラー検知》は“見る力”だ。だがな、この世界で何かを過剰に見るということは――同時に、何かを手放すことを意味する」
胸の奥が、冷たくなる。
「失う……?」
「感覚だ」
淡々と、だが重く。
「聴覚、視覚、触覚……あるいは、記憶そのもの」
カラスの視線が、逃げ場を塞ぐ。
「世界は均衡を保とうとする。お前が裏側を覗けば、その分だけ――表側を削って帳尻を合わせる」
その瞬間、甲高い耳鳴りが走った。
「……っ!」
音が、ゆっくりと戻ってくる。
風の音。
自分の荒い呼吸。
心臓の鼓動。
だが、どれもどこか遠い。
薄い膜を一枚挟んだような、頼りなさ。
「今は軽度だ」
カラスが言う。
「だが、使い続ければ――いずれ、戻らなくなる」
カケルは、震える拳を握りしめた。
(力を使うほど……普通じゃなくなる)
喉がカラカラに渇く。
「……じゃあ、使うなってことですか」
そう問いかけると、カラスは一瞬だけ、ほんのわずかに笑った。
「いいや」
意外な答えだった。
「使え」
短く、断言する。
「ただし――覚悟を持ってだ」
それだけ言い残し、カラスは闇の中へと溶けるように消えていった。
●
寮に戻ったカケルは、ベッドに腰を下ろし、天井を見つめた。
耳に、まだ微かな違和感が残っている。
音は聞こえるのに、完全には“掴めない”。
《エラー検知》を使えば、世界の真実に近づける。
だがその代償は、自分自身だった。
「……それでも」
小さく、呟く。
「見ないふりなんて……できないだろ」
そのとき、ステータスウィンドウが静かに開いた。
――【警告】
――【観測者は、不可逆変化の可能性があります】
カケルは、ゆっくりと目を閉じた。
最弱の鳥は、知ってしまった。
空を飛ぶということは――
何かを捨てる覚悟を持つことなのだと。




