第7話 お世話係と、走る騎士
「こっち、ミカ、騎士いる。」
黒い布が揺れて、魔女がそう言ったあと、部屋の外の気配が、すっと変わった。
少しして、扉の向こうで、とん、とん、と、さっきとは違う足音が近づいてくる。
迷いのない、まっすぐな歩き方。
きい、と古い蝶番が鳴き、扉が開いた。
今度は、最初から光が一緒に入ってきた。
手持ちのランタンの黄色い輪が、暗い部屋の中にまるい穴を開ける。
その真ん中に、ひとりの人影が立っていた。
黒いワンピースと、白い前掛け。
胸元から裾にかけて、縦の線が一本も乱れていない。
耳が出るくらい短く切った髪を、きっちり撫でつけてまとめていて、
額と頬の輪郭がそのまま見える。、額と頬の輪郭がそのまま見える。
まつげが長くて、目の形は人形みたいに整っているのに、表情は仕事中の無表情といった感じだ。
篝は、男か女か、一瞬迷う。
けれど、服装から、「たぶん女の人だ」と判断する。
「……失礼いたします」
澄んだ水を鳴らしたみたいな、くぐもりの少ない声だった。
その人は、まず魔女のほうに向かって頭を下げた。
「お呼びでしょうか、魔女様」
「うん。騎士、拾った。走る」
魔女は、さっきと同じ調子で、当たり前のように言う。
「騎士は走る。」
「そうですね。騎士はよく走ります」
メイド服の人は、穏やかな声でうなずいた。
「私がお教えしたことですね」
「うん。楽しい。任せた」
魔女は、それだけ言うと、黒い布をひらりと揺らして扉のほうへ向き直った。
「壊さない。あとで“お呪い”するから」
唐突にそんなことを言い残して、部屋を出ていく。
森の匂いが、ふっと遠ざかった。
残されたのは、ランタンの光と、きっちりしたメイド服の人だけだった。
「……え?」
篝は、さっきの会話をうまく飲み込めないまま、声を漏らす。
メイド服の人は、篝のほうへ向き直ると、改めて丁寧に頭を下げた。
「初めまして。この館のお世話係をしております、ミカと申します」
ランタンの光が、彼女の横顔の線をくっきり照らす。
整った横顔なのに、やっぱり表情が読み取れない。
「立てますか」
「……あ、はい。たぶん」
答えようとした瞬間、足に力がうまく入らなくて、篝は少しよろめいた。
すぐに、制服越しに、細い手が肘のあたりを支える感触が乗る。
強くはないのに、押さえられている位置がぴたりと正確で、変な安心感があった。
ミカは、立ち上がった篝を、ランタンの光の中で一度だけじっと見つめた。
その視線に、何か引っかかるようなものを感じる。
「……何か、変ですか」
思わず聞いてしまうと、ミカは瞬きを一度だけしてから、首をかしげた。
「いえ。ただ、一点だけ確認をしておきたくて」
声は落ち着いている。
次の問いは、篝にはだいぶ唐突に聞こえた。
「魔女様のことは、どのように見えていらっしゃいましたか?」
「……え?」
魔女、という単語に、さっきの黒い布の人影が浮かぶ。
篝は言葉を選びかけて、うまくまとめられないまま、正直に口にした。
「こわい……こわいは、こわいんですけど。
でも、その、全部が嫌って感じでもなくて……」
自分でも何を言っているのか分からなくなって、変なところで区切れてしまう。
「ええと、学校で、みんなが怖いって言ってた絵本があって。
その森の奥にいる人に、ちょっとだけ似てるなって、思いました」
――学校、って言って通じるのかな。
言ってから、そんなことを少しだけ考える。
ミカは、しばらく黙って篝の顔を見ていた。
ランタンの光が、その瞳の中で静かに揺れる。
「……なるほど。森の中にいる人に、近い印象なのですね」
小さく復唱してから、ミカは視線をわずかに落とした。
「お話の細かいところまでは分かりませんが、なんとなく、雰囲気は想像できました」
それがどういう意味なのかを考える前に、彼女は淡々と続ける。
「……やはり魔女様は、そういう方をお好みになることが多いようです」
「お好み」という言い方に、篝はうまく返事ができない。
どこかの見えない棚に、自分がぽん、と置かれたみたいな感覚だけが残る。
ミカは、それ以上は掘り下げず、仕事の口調に戻した。
「では――次にすることに移りましょう」
「……次?」
篝が聞き返すと、ミカは、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「走っていただきます」
「……はい?」
あまりにも自然に言われて、篝は思考が止まる。
「走る、ですか」
「はい。この部屋の外の廊下で、少しだけ」
ミカは、ごく事務的な調子のまま、説明を続けた。
「先ほど、立ち上がられたときに少しふらついておられましたので。
今、どの程度お体を動かしてよいか、確認させていただきます」
それは、それなりに筋が通っているように思えた。
篝がまだ戸惑っていると、ミカは一拍置いてから、もうひとつ理由を足した。
「それに」
ランタンの光の中で、彼女はまっすぐ篝を見る。
「こちらの世界で“騎士”という役目を持つ方は、とてもよく走ります。
私が知っている騎士の方が、いつもそうしておられました」
さっきの魔女との会話が、そこでひとつにつながる。
――さっき言っていた「教えた」は、このことなんだ。
篝がそう思うのとほとんど同時に、ミカは少しだけ自分で納得したようにうなずいた。
篝は、喉の奥で小さく息を飲む。
「……走れなかったら、どうなるんですか」
自分の口から出た質問に、自分でびくっとする。
ミカは、ほんのわずかに首をかしげた。
「その場合は、“騎士”としては不適切と判断されますので」
そこで一度だけ言葉を切り、淡々と続ける。
「別の扱いを、魔女様が改めてお決めになるはずです」
それだけだった。
「別の扱い」という、余計な想像がいくらでもできる言い方だけが残る。
「……分かりました。やってみます」
言ってから、自分でも「変な返事だな」と思う。




