第5話 魔女の騎士と、壊れる箱
箱を潰す。走った子、走るかな。
問いを向けられた瞬間、胸の奥にあったぼんやりした線が、はっきり輪郭を持ちはじめた。
森の奥の小さな家。
誰にも見えないところで泣いていた人。
車道の真ん中で固まっていた黒いネコ。
全部をひとつに結ぶ言葉は、もう決まっている。
「……あの絵本の、森の奥の人のそばに立つ位置に近いなら」
自分で言いながら、少しだけ指先に力が入る。
「私は、その人の――騎士みたいな立場だって、思っていたいです」
向かいの存在のまなざしが、静かに深くなる。
篝は、逃げ道を塞ぐように、はっきりと続けた。
「……自分の中での呼び方は、もう決めました」
白い天井の光が、すこしだけ滲んで見える。
「その人のそばに立つ自分のことを」
いちど区切ってから、言葉にする。
「“魔女の騎士”って、呼ぼうと思ってます」
その瞬間、白い部屋の空気が、ごく薄くきしんだ。
音が変わったわけでも、光が揺れたわけでもない。
けれど、どこか遠くの層で、細い膜が鳴ったような気配があった。
向かいの存在の瞳が、ごくわずかに見開かれる。
すぐに表情は整えられるが、その一瞬だけ、目の奥に遅れた光が走る。
「……今、周防さんが口にされたその呼び名は」
慎重に言葉を選ぶ気配が、はっきりと伝わってくる。
「こちら側でも、ひとつの立場を強く指し示す名前として扱われやすい言葉です」
向かいの存在は、その単語を繰り返さない。
さっきから一貫して、「森の奥の方」や「その人」といった言い換えだけを使っている。
篝は、そのことに気づきながらも、自分の言葉を引き下げるつもりはなかった。
「でも、さっき言ってましたよね」
なるべく淡々とした声で続ける。
「私の中でどう呼ぶかについては、そっちから一方的に決めないって」
向かいの存在は、短く目を伏せた。
「……はい。周防さんご自身の内側での呼び名についてまで、
こちらから直接禁止を申し上げる立場にはありません」
そこまで言ってから、ひと呼吸置いて付け加える。
「ただ、その呼び名が周防さんの中で根を張ると、
周囲からの見え方や、世界との噛み合い方が変わってしまうことがあります」
「重さ、ですか」
「はい。周防さんが守ろうとしているものとその呼び名が重なると、
『そういう立場の人』として見られやすくなるのです。
それは、ときどき周防さんご自身を縛る形にもなり得ます」
それは、警告に近い言い方だった。
――誤解されて、怖がられて、それでも守ろうとする人。
絵本のページの中で、村人たちが向けていた視線。
森の奥の家に投げられていた噂話。
篝は、ほんの少しだけ目を細める。
「……もともと、その人のそばに立ちたいと思ってたので」
向かいの存在は、しばらく篝を見つめていた。
白い部屋の空気が、ほんのわずかに重くなる。
「記録上の正式な呼称としては、別の名前を割り当てる必要がありますが──」
コン、と。
乾いた音が、白い部屋のどこでもないところで鳴った。
扉も窓もない。
それでも、「外側」からノックされたとしか思えない響き方だった。
向かいの存在は、ほとんど間を置かずに視線を宙へ走らせる。
「……外部層からの物理的干渉を検知しました」
その言葉の直後だった。
キン、と金属を叩き割るような鋭い音が、四方から同時に落ちる。
白い部屋の四隅が、内側へ沈み込む。足もとがぐらりと傾き、篝は反射的に机の縁をつかんだ。
次の瞬間、床一面に格子状の細い光が走る。
揺れ自体は残っているのに、部屋ごと見えない枠の内側に押さえ込まれたように動きが鈍った。
「転倒や圧壊による直接的な影響は、この層で抑制します」
向かいの存在の声が、短くかすめる。
それ以上の余裕はない、ということでもあった。
キン、と今度は真上から音が落ちる。
白い天井の中央に、細いひびが走った。
そこから、さらさらと白い砂のようなものが降り始める。
「離れないでいてくださいね」
向かいの存在が、いったん篝のほうを見やる。
床の揺れを枠の内側に押さえ込んでいるのが、この場だけの一時的な防護なのだと、感覚だけが先に理解する。
その言葉のあと、向かいの存在は、宙の一点をじっと見つめた。
耳には届かない何かを聞いているように、目の焦点がわずかに外れる。
短い沈黙のあいだ、口元だけがかすかに動いた。
「……はい。対象個体の生存維持を条件に、この層での窓口権限を縮小──退避指示、確認しました」
机の上で組んでいた指先に、ほんのわずかに力がこもる。
篝のほうへ向き直るときには、表情だけは、いつも通りていねいに整えられていた。
「窓口としてお話しできるのは、ここまでです」
短く区切ってから、ほんの一拍だけ間を置く。
ただの区切りの言葉のはずなのに、「ここから先は、もう守れません」と言われたように聞こえた。
「……個人的な願いを、一点だけお伝えしてもよろしいでしょうか」
その言い方だけは、さっきまでとは違う、わずかに温度を含んでいるように感じられた。
「周防さんが、あの交差点で足を踏み出されたことと、
今ここでご自身で選ばれたその呼び名のことを、どうか軽く扱わないでいてください」
それは評価でも命令でもなく、ただの「お願い」だった。
篝は、ほんの一瞬だけ息を吸い込んでから、短くうなずく。
「……はい」
向かいの存在は、ほっとしたように目を細める。
「ありがとうございます」
篝にはこの礼が、はっきりと自分に向けられているように感じられた。
キン、と。
鋭い音が重なり、天井のひびが一気に広がる。
白い砂が舞い、視界を白く曇らせていく。
ノイズが走り、像がざらつく。
向かいの存在の輪郭が、砂絵が崩れるように静かにほどけた。
白い机と、篝の椅子だけが、その場に取り残される。
すぐあとから、その輪郭にまで薄い揺らぎが伝わりはじめていた。
「……」
返事を求める相手もいないまま、息だけが喉の奥で引っかかる。
シュッと風切り音のような鋭い音が背後から走り抜ける。
振り向くと、ついさっきまでただの白い壁だった場所に、
一本の細い黒い亀裂が走っていた。
均一だった白の面から、そこだけが切り取られたみたいに暗い。
亀裂は呼吸のように震え、じわじわと長さを伸ばしていく。
とん、と。
今度の音は、ノックというより、壁紙の裏側から指先で軽く叩いたような響きだった。
亀裂の向こうから、声がする。
「よく、走った子」
子どものような高い声。
同時に、ずっと年上の誰かが低く笑っているような響きも、かすかに重なる。
篝の耳には、ほとんど前者しか届かない。
それでも、背筋を這い上がる冷たい感覚だけは、はっきりと残った。
「あそこで足を出してくれて、ありがとう。
……いい呪い」
意味は分からない。
けれど、その言葉が自分に向けられている確信だけが、妙に重い。
黒い亀裂が、すこし横に広がる。
その向こうに、木立の影のような暗がりがちらりと見えた。
「さっきの、なかなかに良い──『魔女の騎士』」
さっき自分が口にしたばかりの呼び名が、何のためらいもなく使われる。
ずっと前から見られていたのだと、遅れて理解した瞬間、
怖さと、奇妙な高揚が同時に胸の奥でぶつかり合った。
亀裂のあいだから、細い手がひとつ伸びてくる。
白い部屋の光を受けながらも、どこか影をまとったような指先。
「この箱は、もうすぐ潰れる。
お話の続きは、こっち」
指先が、招くように軽く動く。
「黒いネコも、魔女も。」
その単語が、亀裂の向こう側で静かに反響する。
窓口は、最後までそれを口にしなかった。
この「何か」は、当然のように呼んでいる。
――ここから先も、私はその呼び名を使うつもりでいる。
そう思ったときには、もう体が前に出ていた。
黒いネコも、魔女も、守りたいと思った線の先にある。
怖さも、高揚も、まとめて飲み込んでしまったほうが早い。
篝は椅子から立ち上がり、亀裂へ歩み寄ると、
迷いなく差し出された手に指先を伸ばした。
触れた瞬間、熱いとも冷たいとも言えない感触が、掌から肘へ一気に駆け上がる。
白い部屋の境界線が、紙箱の折り線みたいに外側へ折れた。
床が裏返り、天井がどこかへ滑り落ちていく。
白い机も椅子も、輪郭ごと薄い紙片になって、視界の隅からはじき飛ばされる。
真っ白だった内側が、ぱきん、と音を立てて割れた。
そこに残ったのは、
さっきまで自分を囲んでいた「白い箱」の痕跡が一つもない、まったく別の暗がりだけだった。
次に目を開けたとき、
あのまっさらな白い天井も、白い机も、教室に似たレイアウトも──もうどこにもなかった。




