第47話 順番と、朝
朝だ、と分かったのは、光より先に器の音だった。
どこか下の階で、陶器が軽く触れ合う。
それが二度、三度と続いて、そこでようやく篝は目を開けた。
部屋は薄い。
夜の黒がそのまま残っているわけじゃないのに、明るいとも言えない。
窓の縁だけが、白くなりかけている。
布団の内側はまだぬるい。
ぬるいのに、身体の奥だけが冷えている。昨日の夜から、その冷えだけが抜けていない気がした。
眠ったのかどうかも、少し曖昧だった。
篝はしばらく、動かずにいた。
喉に手を当てる。細くなっている感じは、夜よりましだった。
でも、何も考えないで息が落ちてくるほどでもない。
起き上がる。
背中の力が、途中で一度だけ足りなくなる。
それでも起きられる。起きてしまえば、身体は次の形を取ろうとする。
床に置いた鞘が見えた。
昨夜のまま、少しだけ斜めになっている。
篝はそれを拾って、腰へ戻した。
重い。重いのに、重さの置き場が決まると少しだけ落ち着く。
階段を下りる。
一段目で膝の奥がまだ鈍い。
二段目で、宿の匂いが来る。焦げたパン。薄い湯気。濡れた木。
食堂にはもう何人かいた。
朝の席は昨夜より白い。灯りじゃなくて、窓の薄明かりで輪郭が見えるせいだ。
主人が、器を拭く手を止めて篝を見た。
昨日の夜と同じ顔だった。違うのは、そこに湯気があることだけだ。
「……温かいの、ありますか」
篝が言うと、主人は短く頷いた。
「あるよ」
それだけ。
昨夜のことは聞かない。
聞かないまま、鍋の蓋をずらして、器に注ぐ。
篝は昨日と同じ壁際の席を探しかけて、途中でやめた。
やめた理由は分からない。分からないまま、窓に近い席に座る。
器が来る。
白い湯気が、朝の薄い光に溶ける。
匂いは同じなのに、昨日とは少し違う。昨日は戻ってきた身体のための匂いだった。
今日は、ただ朝だからそこにある匂いだ。
篝はスプーンを持った。
一口だけ飲む。熱い。喉を通る。胃のあたりまで落ちる。
落ちるのに、それで何かが戻る感じはしなかった。
扉の方を、目が一度だけ見た。
ただの朝の扉だ。
人が入ってくるたびに、外の白さが少しだけ差す。
横から声が来そうで、来ない。
そのことに気づいて、篝は器へ視線を落とした。
湯気の向こうで、スープの表面が揺れている。
篝は最後の一口を飲んだ。
行く先を考える前に、足がギルドの方を選んでいた。
外へ出ると、街はもう動いていた。
昨夜は広かった石畳が、朝は狭く見える。
荷車が通る。靴音が重なる。窓が開く音。水を捨てる音。遠くで誰かが笑う。
笑い声は軽い。
軽いまま、すぐ別の音に混ざる。
篝はその中を歩いた。
足は出る。膝も曲がる。
身体の方が先に動いて、歩いていることに少し遅れて気づく。
昨夜、あれだけ何もかもが遅かった。
朝は、遅れているのが自分だけみたいだった。
ギルドの板の前には、もう何人か人がいた。
紙が一枚、端だけ浮いている。
浮いたまま、誰もすぐには直さない。直さないのに、それで困っている顔もない。
受付の奥で、リリアが笑っていた。
「はい、大丈夫です。順番にやります」
明るい声。早い。
その早さで、人が一人前へ進む。帳面がめくられる。別の紙が重なる。
手元が止まらない。止まらないのに、慌てている感じはしない。
篝は列の最後尾へ入った。
前の背中の高さを見る。革の擦れる音を聞く。
順番を待つ。それ自体はできる。
でも、紙が動くたびに喉が少しだけ細くなる。
ぱら。
ただの紙の音だ。
昨夜の本じゃない。受付の帳面だ。
それでも、耳の奥だけが先に反応する。
リリアが名札を指で軽く叩いた。
いつもの癖みたいに、それから顔を上げる。
「次の方、どうぞ」
声が飛んでくる。
前の人が進む。篝も一歩進む。
その一歩が、少しだけ遅れる。
リリアの目が篝を見つけた。
見つけた瞬間に、笑顔が変わるわけじゃない。変わらないまま、ほんの少しだけ速さが落ちる。
「おはようございます。……大丈夫です。順番にやりますから」
大丈夫です。
その一言が、妙に遠く聞こえた。
遠いのに、逃がしてくれない。
「……はい」
篝は頷いた。
頷くのが少し遅れた気がしたけれど、リリアはそれに触れない。
「今日は、先にこちらだけ。名前、ここにお願いします」
紙が差し出される。
ペンを取る。指先が少しだけ固い。
書ける。ちゃんと書ける。字も崩れない。
それなのに、自分の名前が紙の上へ置かれるのを、少しだけ遠くから見ている感じがした。
リリアは受け取った紙を、その場で別帳面へ写した。
速い。迷いがない。
紙の角を揃えて、次の一枚を引き出す。
「ありがとうございます。……こちら、回しますね」
回します。
その言葉で、また一度だけ喉が細くなる。
昨日の夜も、何かが回った。順番が、音の薄いところで決まっていった。
でも、ここで動いているのはただの朝の受付だ。
それなのに、篝の身体だけが、その区別をうまくつけられない。
入口のあたりに、目が行った。
金のきらつきがない。
それだけだった。
それだけなのに、そこが少し広く見えた。
リリアは書き終えた帳面を閉じずに、横へ滑らせた。
その先に、マレイがいた。
黒でも白でもない、静かな色の上着。
昨日の夜と同じ人なのに、朝の机の前にいるだけで、別の人みたいに見える。
マレイは紙を受け取った。
受け取って、篝の顔を見ずに一度だけ端を揃える。
「……篝さん」
声は低い。
昨夜と同じ高さなのに、今はちゃんと昼の中で聞こえる。
「今日は、外の仕事はありません」
篝は少しだけ息を置いた。
置いたあとで、自分が息を止めかけていたことに気づく。
「午前は中で、控えの写しを一枚だけ。……終わったら、次を回します」
簡単な仕事だ。
言っていることは、それだけだ。
でも、そこで「外の仕事はありません」と先に置かれると、何かを避けられた感じと、どこかへ閉じ込められた感じが、同時に来る。
「……はい」
返事は出た。
出たのに、胸の奥だけ少し遅れる。
マレイはそれ以上何も足さない。
昨夜にも触れない。
机の端から薄い紙の束を取り出して、篝の前へ置く。
「こちらへ」
短い。
その言い方で、もう次の場所が決まる。
篝は紙を見た。
文字が並んでいる。欄がある。写すだけの形だ。
写すだけ。
それくらいなら、できる気がした。
できる気がする、ということ自体が、少しだけ変だった。
横で、リリアが別の人に笑っていた。
「大丈夫です。順番にやります」
またその言葉だ。
同じ声。朝の声。
それが普通に繰り返されるたびに、世界は昨日の夜を置いて先へ進む。
篝は紙を持った。
指先は少し冷たい。
でも、紙はちゃんと持てる。落とさない。
入口の方は、まだ静かだった。
声が来そうで、来ない。
それでも、受付は止まらない。
篝はマレイに示された机の方へ歩き出した。
足は出る。順番も守れる。
ただ、それだけで大丈夫なのかだけが、まだ少し分からなかった。
後ろで、リリアの声がまた重なる。
「大丈夫です。順番にやります」




