第38話 紙と、足音
訓練場の扉を閉めたあとも、掌の熱が落ちない。
落ちないまま、指だけが先にほどけたがる。
歩く。
歩幅はいつも通りのはずなのに、足首だけが一歩先へ行きたがる。
行きたがって、止まる。止まったことに、遅れて気づく。
セルジュは隣を歩かない。
半歩うしろ。音が増えない距離。
笑い声が、前から来た。
軽い。軽いから、引っかかる。
廊下の先に、受付の灯りが見えた。
「お疲れさまでーす。返却、こっちで大丈夫ですよ」
ギルド受付の前に、リリアがいた。
机の上に紙が並んでいる。並び方が、揃いすぎている。
篝が木剣を差し出すより先に、リリアの指が一枚の紙の端を押さえた。
その指が触れるより先に、インク壺の蓋が少しだけ回りかけているように見えた。
誰の手も伸びていないのに。
――違う。見えるというより、順番が先に来る。
篝は木剣を机に置いた。
置いた瞬間、手が空く。空いたのに、落ち着かない。
セルジュの手袋の指先が、ほんの少しだけ曲がった。
曲がって、戻る。戻る速さが、いつも通り。
ユストは一歩うしろで笑っていた。
笑っているのに、距離が詰まらない。詰めないまま、同じ場所に“いる”。
「えっと……篝さん。返却の記入、お願いします。順番にやりますね」
リリアは明るいまま、紙を回す。
回す動きが早い。早いのに、慌てて見えない。慣れている速さ。
篝は口を開けて、すぐ閉じた。
言葉が喉の手前で引っかかる。引っかかったまま、次の言い方だけが浮く。
「……はい」
「はーい。篝さん。昨日の分、ちゃんと残ってます。えらい」
“えらい”が軽くて、助かった。
助かったのに、その軽さのあとに来る“硬い言葉”を、身体が勝手に待っている。
奥の方で、紙が一枚めくれた。
めくれた音だけが一定で、一定だから、呼吸が合ってしまいそうになる。
リリアが木剣を受け取り、棚の札を指で叩いた。
叩く手とは別に、視線だけが一瞬セルジュの胸元へ飛ぶ。飛んで、戻る。
セルジュの金具は鳴らない。
鳴らないのに、見られているのが分かる。分かるだけで、意味がつかめない。
「――あ、そうだ。篝さん。街の大聖堂、行ったことあります?」
突然言われて、篝は息を置いた。
置かないと、返事が軽くなる。
「……大聖堂」
「うん。明日、行ってみるといいですよ。きれいだし。オルトヘイムが祀られてます」
“オルトヘイム”。
意味は分からないのに、音だけは馴染んでいる。馴染んでるのが、少し怖い。
ユストが、うなずいた。
うなずくのが早い。早すぎて、篝の返事が追いつかない。
「いいですね。……きっと、勉強になります」
笑顔は変わらない。
変わらないまま、言葉だけが先に決まる。
セルジュが、ほんの少し首を傾けた。
視線はユストじゃなく、机の上。紙の角。
「大聖堂は、町の人が大事にしてます」
セルジュの声は柔らかい。
「……遊びで荒らす場所じゃないです」
釘の刺し方が、怒っていない。
怒っていないのに、逃げ道を、減らさないまま止める。。
ユストは笑ったまま、ゆっくりうなずいた。
ゆっくりにしたのが、逆に目立つ。
「もちろん。そういうつもりは、ありません」
リリアはそのやり取りを、深追いしない。
紙を一枚、篝の方へ滑らせる。途中で、指が一度だけ止まる。
「ここ、サインだけ。ゆっくりでいいですよ」
篝はペンを持った。
持った瞬間、手首が“次の形”へ寄る。寄って、止まる。
止まったのは、自分の意思じゃない気がした。
書く。
最後の線に届くころには、リリアの指が受け取る場所を作っている。受け取って、もう次の紙へ行く。
篝はペンを置いた。
置いた瞬間、また手が空く。空いた手が、どこに行けばいいか分からない。
「じゃ、明日ですね。大聖堂。おすすめです」
リリアが笑う。
笑いは短い。“ここまで”の笑い。
外に出ると、冷えが頬に当たった。
触れた瞬間、息が細くなる。細くなって、戻らない。
――
宿へ戻って、食べた。
湯気が立つ。根菜が崩れる。甘さが戻る。
戻る遅れが分かる。分かるのに、噛む順番だけが先に決まる。
布団に入る。
目を閉じようとして、大聖堂という言葉が一度だけ浮いた。
知らない場所。
知らないのに、そこへ行く自分の足音だけが、先に聞こえる気がした。




