第36話 石灰と、受理
訓練場の扉は、押すと重い音がした。
音の割に、外気は静かで、冷たい。
中は白い。
石灰の線が、昨日よりはっきり残っている。踏めば消える白さなのに、消えないふりをしている。
先に入った人がいる。
鎧の金具が鳴らない。立つ位置だけで分かる。セルジュだ。
「……来ました」
「はい。急がなくていいですよ」
セルジュは笑わない。
でも、声が硬くならない。昨日と同じ温度で、そこだけが助かる。
篝は木剣を握った。
握った瞬間、掌の内側が少し熱くなる。熱は戻る。でも、落ち着かない。熱と一緒に、昨日の順番まで戻ってくる。
かかと。背中。肩の開き。
ひとつ動く前に、“戻り”が先に胸の奥で鳴る。
「素振りを一回。見せてください」
「……はい」
振る。
止める。
止めた先で――見る。
セルジュの顔じゃない。手と足だけ。
昨日の言葉が、そこに残っている。
セルジュが木剣を持ち上げた。
振らない。入りの角度だけ置く。
――来る。
篝の身体がそう言う。
言った瞬間、篝の足首が動きかけた。踏み出していないのに、次の位置を先に探すみたいに。
セルジュが上に入る“前”に、篝の腕が勝手に上を受ける形を置いた。
止めたはずなのに、腕が戻り、腰だけが横へ逃げる。
次。
その次。
剣を下ろすより先に、足が“その次”へ行きたがる。
行きたがるのに、重心はぶれない。ぶれないまま、勝手に繋がる。
篝は息を飲んだ。
飲んだ息が、喉の奥で止まる。声にならない。
「……篝さん」
セルジュの声が入った。短い。
短いのに、場が戻る。
セルジュがもう一度、入りかける。
今度は横。腰が先に回る。肘が開きかける。
篝の腕が、勝手に横へ出た。
出た瞬間、足が――その次の“戻り”へ寄る。戻りへ寄りながら、剣先が上を警戒する形になる。
上。
横の次は、上。
それが“分かってしまう”のが怖い。
怖いのに、止められない。
「……止めます」
セルジュは大きな声を出さない。
でも、その一言が合図になる。木剣の先が下がる。篝の腕も、遅れて下がる。
下げた瞬間、遅れて気づく。
自分の足が、いま、どこに置かれているか。
石灰の線のすぐ内側。
踏んでいないつもりだったのに、靴底の粉が少しだけ白い。
「大丈夫。大丈夫です」
セルジュは言い直すみたいに繰り返した。
大丈夫の言い方が、“褒め”じゃない。そこだけが本当っぽい。
篝は、うなずいた。
うなずくしかなかった。うなずく動作だけが、自分のものに残っている。
「……さっきの、いまの。……次の次が、出てます」
自分で言って、変だと思った。
言葉が先に“形”になってしまう。意味は後から追いかけるだけ。
セルジュは一拍おいた。
その一拍が、息を戻してくれる。
「見えてる、って言うより……身体が、先に動いてる」
セルジュは篝の足元を見る。
見て、言い切らない。言い切らないまま、決める。
「今日は、ここまでにしましょう」
「……え」
「危ないから、じゃないです」
セルジュは先に否定した。短く。
「危ない“前”が、増えてる」
篝は言い返せなかった。
増えてる。増えてるのが分かる。分かるのに、止められない。
扉の方で、気配が増えた。
足音はしない。金具も鳴らない。なのに、影だけが濃くなる。
セルジュが、篝より先にそちらを見た。
見てから、すぐ視線を戻す。篝に向けて戻す。戻し方が、“守る”じゃない。
「……来ました」
「来た、って……」
影の中から、人が一歩だけ入った。
笑顔だった。笑顔のまま、距離を詰めない。
「ユストです。灯切から――“受理”に来ました」
“受理”。
その単語だけが、石みたいに落ちた。軽く言ったのに、軽くならない。
篝は木剣の柄を見た。
見たまま、顔を上げる。逃げたくない。逃げると、もっと変なところへ行きそうだ。
「篝さんで、合ってますか」
「……はい」
「いまの動き。ご自分で止められますか」
止められますか。
責められてはいない。
でも、答えだけが残る。
篝は一度だけ息を吐いた。
吐いた息が、冷たいまま戻ってくる。
「……止めた、つもりでした。でも」
“でも”の後が、言葉にならない。
言葉にした瞬間、もっと確定してしまう気がした。
ユストは、笑顔のままうなずいた。
うなずき方が軽い。軽いのに、手続きだけが重い。
「確認します。いまは――木剣は下ろしていてください」
篝は木剣を下ろした。
下ろした瞬間、足首がまた“その次”へ寄りかける。寄りかけて、止まる。
止まったのは、自分の意思じゃない。
セルジュが、篝の少し横に立った。近づきすぎない距離で。
「ついてます」
セルジュは小さく言った。
「だから、いまは、下ろして」
篝は、うなずいた。
うなずいたまま、掌の熱だけを見つめた。
この熱を、消したくない。
でも、このままだと――自分のものじゃなくなる。




