第35話 帳面と、行方
ギルド受付の帳面の端に、影が残っている。
ペン先の音が一定で、一定だから、呼吸が合ってしまいそうになる。
篝は内ポケットから包みを出して、机に置いた。
マレイが受け取る。昨日と同じ。
「訓練場を、借りたいです」
言った瞬間、喉の奥が一回きゅっと縮んだ。
理由まで言いそうになる。言うと、余計なものが混ざる気がした。
マレイの手は止まらない。帳面をめくる指だけが、少し早い。
目は篝の顔じゃなく、腰と手元を一度見て、それから戻った。
「……時間は、空いてます。貸し出し、できます」
そこで、奥の机で紙が一枚だけめくれた。
めくれたのに、誰も顔を上げない。
篝は息を吐いた。
吐いた息が、机の木に吸われていく気がした。
「……ありがとう」
それだけ言って、篝が一歩下がりかけたとき――
「おい、受付!」
声が割って入った。
革鎧の擦れる音。焦げた匂いが一瞬だけ近づく。
冒険者の男がひとり、机に身を乗り出した。顔色が悪い。
その後ろに、もうひとり。腕を半分だけ上げたまま固まっている男がいる。
「仲間が……部屋にいねぇんだ。寝台が血だらけで――」
“血”のところで、周りの空気が一段だけ薄くなった。
音は消えてないのに、耳の奥が遠い。
マレイは顔を上げた。
困った顔だった。困ったまま、ペン先を紙の上に置く。置いたまま、インクを出さない。
「……その件は、受付では扱えません」
言い方が丁寧すぎて、逆に冷えた。
男が息を吸う音が、やけに大きい。
「は? なんでだよ。ギルドの仕事だろ――」
「ギルドの仕事ですけど……受付の仕事じゃないです」
マレイは帳面を閉じた。閉じてから、困った顔のまま続ける。
「そういうのは、『帳面の外』になります。申し訳ないです」
“帳面の外”。
その単語だけが、やけに硬く聞こえた。
男は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
飲み込めたのが、余計に怖い。
篝は見ないふりをした。
見たら、自分の番が来る気がした。
――背中の少し後ろ。気配が揃う。
近すぎない。離れすぎない。鎧の金具が、鳴りそうで鳴らない。
その気配が、一歩だけ前へ出た。
「……マレイさん」
声は荒くない。余計な圧がない。
ないのに、その声だけは、重い。
マレイの指が一瞬だけ止まった。
止まったのに、すぐ帳面を開かない。別の紙を引き出す。
「はい」
「外の扱いで、一件。内容は……」
セルジュの言葉が、そこで一拍切れた。
“言い切る”前の迷いが、手袋の指先にだけ出る。
「行方不明、でいいですか」
マレイは頷いた。小さく。
小さい頷きなのに、紙が動く速度だけが早くなる。
「……分かりました。回します」
男たちが机から離れる。離れる足音が、やけに重い。
篝は視線を上げないまま、その重さだけを聞いていた。
セルジュが篝へ向き直った。
今度は顔を見る。見るけど、堅い。
「……訓練場、借りたいって言ってましたよね」
篝はうなずいた。
うなずくしかなかった。
「今日は……難しいかもしれません」
セルジュの声が、いつもより低い。
低いのに、謝ってない。謝らない低さ。
「分かり、ました」
篝は息を吐いた。
吐いた息が、どこにも行かない気がした。
廊下を抜けて、戸を押した。
戸が重く鳴って、外気が頬に当たる。
外の光が、さっきより白い。
白いのに、冷えが強い。
篝は歩き出した。
足音が自分の後ろへ残っていく。残るのに、追いかけてこない。
――“帳面の外”。
その言葉だけが、耳の奥に残っている。
残ったまま、意味が見えない。
見えないのに、町は動いている。
動いているのに、どこかが止まっている気がした。




