第34話 返礼と、夕鐘
ギルド受付の帳面の端に、影が残っている。
ペン先の音が一定で、一定だから、呼吸が合ってしまいそうになる。
篝は内ポケットの重みを確かめて、机の前に立った。
銅札じゃない。昨日の宿の代金。硬貨の縁が、薄い布越しに指へ当たる。
奥の机で、紙が一枚だけめくれた。
めくれたのに、誰も顔を上げない。
篝は息をひとつ置いた。置かないと、言葉が軽くなる気がした。
「……これ」
机の上へ、包みをそっと置く。
指先が離れた瞬間、机の板が少しだけ冷たく見えた。
マレイのペンが止まる。
指で包みの角を揃えてから、篝を見る。
「……宿の代金ですね」
篝はうなずいた。
説明を足したくなる。足すほど、変になる気がした。
「……立て替えてもらってたから」
「うん。……気にしなくていいのに」
言いながら、マレイは包みを引き寄せた。
受け取る動きが静かで、逆に逃げ場がなくなる。
「……でも、受け取ります。ありがとう」
篝は一瞬だけ口を開けて、閉じた。
礼を言う順番が、分からなくなる。
「……うん」
それだけ言って、篝は半歩だけ残った。
喉の奥に、昼の歌の音が引っかかっている。
「……オルトヘイム」
口に出した瞬間、マレイの指が止まった。
顔は上げない。上げないまま、声だけが落ちてくる。
「その名前は、軽く口にしないでください」
篝は息を飲んだ。
理由を聞く言葉が、舌の先でほどけない。
「……分かりました」
マレイはそれ以上は言わず、ペン先を戻した。
篝は視線を上げないまま、受付の前を離れた。
視線が二、三本、肩に刺さって、刺さったまま外れる。
敵じゃない。けど、味方でもない。そういう外れ方。
廊下を抜けて、戸を押した。
戸が重く鳴って、外気が頬に当たる。
外の光が変わっていた。
ひさしの影が長い。石の隙間の冷えが、さっきより強い。
歩き出すと、足音が自分の後ろへ残っていく。
残るのに、追いかけてこない。追いかけてこないのが、助かる。
遠くで、鐘が鳴った。
夕方の鐘。
音が一つ鳴るたびに、町が「今日はここまで」と言っているみたいだ。
門の鐘、とは少し違う。――でも、息の仕方が変わる。
篝は足を止めなかった。
止めると、考えが追いつく。追いついた考えが、余計な言葉を口の先に持ってくる。
聖堂で聴いた歌。
喉の奥で揺れた音。
オルトヘイム。
名前は軽くない。
軽くないのに、輪郭が掴めない。
掴めないまま、音だけが胸の内側に残っている。
言われた理由は、まだ見えない。
見えないのに、町が避けているのは分かる。避けている、という動きだけは。
篝は、もう一度鐘を聴いた。
余韻が空に残って、残ったまま薄くなる。
宿屋の戸を押すと、匂いが変わる。
木。煮込み。パン。
暖かさが先に来て、冷えが遅れて手のひらから抜けた。
「おかえり」
声があった。
返事を作る前に、腹が鳴りそうで、鳴らない。
「……ただいま」
椅子に座ると、背中がほどけた。
ほどけた隙間に、昼の線の白さが入り込む。入り込んで、消えない。
夕食が出た。
湯気が、ちゃんと湯気の形をしている。
匙を入れると、根菜が崩れて甘い匂いが立った。
篝は一口食べる。
熱い。熱いのに、痛くない。
噛むと、甘さが遅れて戻る。その遅れが、胸に触れた。
「おいしい」
言ってから、自分の声が少しだけ軽いことに気づく。
軽いのに、嫌じゃない。
食べ終えると、急に静かになった。
静かになると、昼の動きが戻ってくる。
かかと。背中。肩の開き。
前の動作。
見えた、という言葉は使えない。
その中に入っているものが、多すぎるから。
篝は水を飲んだ。
喉を落ちていくのが分かる。分かることが、少し怖い。
怖いのに、今日の怖さとは違う。
布団に入ると、身体が急に重くなる。
重いのに、腕の内側だけがまだ熱い。
熱いところに、線の白さが重なる。白いまま、細い。
鐘の余韻は、もう聞こえない。
聞こえないのに、耳の奥に輪郭だけ残っている。
オルトヘイム。
思い出したところで、何も進まない。
進まないのに、日は落ちる。
篝は目を閉じた。
分からない、という言葉じゃなくて……
分からないまま、眠りに落ちた。
閉じたまま、耳の奥に鐘の余韻だけが残っていた。




