第32話 線と、合図
煮込みの湯気が、いまだけ、白く見えた。
篝は匙をもう一度だけ動かして、残った根菜を口に入れた。熱い。噛むと、甘さが遅れて戻る。
「……ごちそうさまでした」
向かいの男は、軽く顎を上げただけだった。
奥の卓の笑いはまだ続いている。続いているのに、さっきの尖りだけが床に残っている気がした。
篝は見なかった。
見て、何か言い返したら――それだけで、自分が「話題」になる。
椅子を引く。木が鳴る。
外套の内ポケットに指が寄りかけて、いったん止める。
確かめたい。けど、その動きがいちばん目立つ。――だから止めたのに、指先だけが戻ろうとする。
扉を押すと、酒場の匂いが一枚はがれて、木と紙とインクの匂いが戻った。
ギルドの中の音だ。ペン先。紙をめくる音。床の軋み。
受付の机が見える。
その隣に、セルジュがいた。いつもの場所。
腰の留め具が、灯りを一瞬だけ拾って消えた。
セルジュは篝を見つけると、先に表情をゆるめた。
声も、そのままゆるい。
「お腹は膨れましたか?」
篝は一拍だけ遅れて、うなずいた。
「膨れた」という言い方が、変にあたたかい。
「……はい。食べました」
「それなら、よかった」
それだけ言って、セルジュは机から半歩だけ離れた。
「じゃあ行こう」の半歩。待ってる半歩。
「約束してたやつ。訓練場で、少しだけ動きを見せてください」
少しだけ。
その単語が、助かる。助かるのに、胸の奥が落ち着かない。
篝の指先が勝手に内ポケットへ入った。
銅札の縁。冷たい。硬い。
もう片方の指が、小袋の重みも確かめる。重い。――落としてない。
セルジュはそれを見て、笑わなかった。
笑わないのが、親切だった。
「急がなくていいですよ。ゆっくりで構いません」
セルジュが先に歩き出す。
篝もついていく。受付の前を横切ると、視線が二、三本だけ刺さって、すぐ外れる。
無視の形。たまに、避ける形。
近づかないように、距離だけ測る形。
廊下の奥へ曲がると、音が少し薄くなる。
砂の匂いが混ざる。木の擦れる匂い。縄。
「ここです」
小さな訓練場だった。
線が引かれている。杭が立っている。踏まれて平らになった土。
セルジュが振り向く。
「まず、立ち方。次に武器。――その順で見ますね」
篝はうなずいた。
分かった、とは言えない。けど、うなずくしかない。
「……お願いします」
「はい。じゃあ、いきます」
セルジュの声は軽い。
軽いのに、逃げ道が減る音がした。
セルジュは棚から木剣を二本、抜いた。
一本を差し出す。
「これ。今日はこれで」
篝が受け取る。木が掌に収まる。軽い。
軽いのに、掌の内側が勝手に熱くなる。
セルジュは言葉を先に置いた。ゆるい声のまま、釘だけ打つ。
「……あの、先に言っておきますね。立ち合い『みたいなこと』はします。でも、当てません」
篝の指が一瞬だけ止まった。
立ち合い。
言葉が先に来て、意味が遅れて追いつく。
「当てない、って……」
「触れない距離で、合わせるだけ」
セルジュは笑ってみせた。
「ぼくが軽く動くので、それを合図にします。篝さんは――好きに動いてください」
好きに、動く。
それなら、分かる。分かる範囲に落ちる。
「……はい」
「慌てなくて大丈夫。いまの呼吸のままで」
セルジュは線の内側へ入る。
構えは軽い。肩も肘も、固めない。
「試す」人の姿勢だ。
「じゃ、いきます」
「ぼくが動いたら――合図。いいですね」
篝はうなずいた。
うなずいたのに、胸の奥が落ち着かない。
セルジュの木剣が、ほんの少しだけ前へ出た。
合図。――合図のはず。
篝の身体は、それを「来た」と受け取った。
考えるより早く、腕が上がる。
振る前に、止める位置。
そこへ木剣が吸い寄せられるみたいに上がって、空気が薄く鳴いた。
木の音じゃない。
風が擦れた音。
鼻の奥が一瞬だけ冷える。
「――っ」
セルジュの声が、途中で欠けた。
欠けた瞬間、セルジュの木剣が勝手に上がる。
当てない距離のはずなのに、「受け」に行く。
距離が、消えた。
ぱん、と乾いた音が遅れて来た。
木と木の音じゃない。空気を叩いた音だ。
足元の砂が、線の上だけふっと舞う。
セルジュの手首が小さく跳ねた。
腰の留め具が、初めて鳴った。
たった一音。失敗の音。
セルジュは一歩、下がった。
線の外へ。
下がったことに自分で気付いたみたいに、肩が一瞬固まる。
篝は止めた。
止める位置で、止まった。
木剣の先は土に触れていない。触れていないのに、土の匂いだけが濃い。
腕が痺れている。
木剣なのに。
痺れのせいで、自分が何をしたのか分からない。
「……ごめんなさい」
理由は分からない。けど、謝るしかない。
セルジュは息を吐いた。
ゆっくり。ほんとに、ゆっくり。
それから、笑おうとして――やめた。
「ううん。謝らなくていいです」
声は優しい。
優しいのに、さっきより一段だけ低い。
セルジュは篝を見る前に、腕と足と剣の角度を見た。
「相手」じゃなくて、「動き」だけを見る。
「……今のは、ちょっと、困りましたね」
篝は瞬きした。
やめる。
やめる理由が、どこにも見当たらない。
「篝さんが悪いんじゃないです。むしろ……」
セルジュは言ってから、自分の言い方を少しだけ直す。
「うん。ちゃんとしてる。だから余計に、なんといえばいいか」
手袋の上で、指先が一度だけ曲がった。
握り直す癖。怖いときの癖。
「どこで、その振り方を覚えました?」
篝は口を開けた。
――場所。
言おうとした瞬間、舌の先で言葉がほどけて、どこにも形にならない。
喉が、きゅっと細くなる。
息だけが先に出て、音にならなかった。
「……わから、ない」
自分の声が、思ったより小さい。
わからない、じゃない。知ってるはずなのに、そこへ繋がらない。
篝は目を伏せたまま、無理に別の取っ手を探す。
「……名前だけ。リト、って」
セルジュは、その名前を繰り返さなかった。
知らない、も言わない。言わないまま、ひとつだけうなずく。
「そうですか。……言いづらいなら、構いませんよ」
軽い声だった。
軽いのに、注意の形に変わる。
「……篝さんの実力は、はっきり分かりました」
セルジュは距離をもう半歩だけ広げた。線の外。
それが「退く」じゃなく、「守る」の位置取りに見える。
篝はうなずいた。
分かった、とは言えない。
けど、うなずくしかない。
遠くで、ギルドの建物の音が一度だけ止まった。
止まって、すぐ戻る。
戻ったふりをする音。




