第2話 大事だったもの
下手な蓋。まだ燃えている。
ふと、冬の夕方の空気を思い出した。
白い息と、信号の赤い光と、足もとを横切る小さな影。
信号待ちのあいだ、風が吹いて、短い髪の内側から、ほんの少しだけ色の抜けた細い毛束がのぞいた。
先生には見つからないはずの、ぎりぎりの場所に入れた、小さなメッシュ。
「……最近、よく見ていて、気になっている子なら……います」
自分でも、人じゃなくて動物のことを思い浮かべているのが、少し変な答え方だと思いながら、篝は口を開いた。
「あの、通学路の途中に、黒い子猫がいて。
誰かが飼っているわけじゃないみたいなんですけど、近所の女の子がよく撫でていて」
毛並みの手触りがはっきり蘇りかけて、篝は呼吸の速さを意識して整えた。
向かいの存在は、淡々とした声のまま続ける。
「その子のこと、よかったらもう少し教えてもらってもいいですか」
篝は小さくうなずいた。
「公園の、角の電柱のところに、よくいるんです。
最初は、ただの黒い影がいるな、くらいで。
でも、何回か見てるうちに、だいたいの時間と場所が分かってきて」
公園。電柱。曲がり角。
頭の中の地図の、その一点だけが急にくっきりする。
「その、近所の小さい女の子が、たまに学校の帰りにいて。
ランドセルのまま座りこんで、ずっと撫でてて。
ネコのほうも、そこにいるときはあんまり逃げなくて」
女の子の顔は、正直ほとんど覚えていない。
ただ、ちいさな手と、黒い毛の組み合わせだけは、妙にはっきり残っている。
「名前とかは知らないんですけど……。
心の中では、ずっと『黒いネコ』って呼んでました」
わざわざ名前をつけるほど距離を詰めるのは、どこかこそばゆかった。
それでも、あの垣根にいてほしいと思うくらいには、気になっていた。
「いつもは、公園の垣根のあたりでうろうろしてるんです。
歩道のほうで、人が通っても、ちょっと離れてじっと見てるだけで」
「でも、その日だけ……」
言いかけたところで、喉が少しだけ重くなる。
「その日だけ、車道に出てて」
篝の足がアスファルトの上を歩いていたときの感覚が、鮮明に戻ってくる。
「ライトが見えて。音も聞こえてて。
それでも、ネコは、車道の真ん中あたりで、貼りついたみたいに動かなくて」
たぶん轢かれる、って、一目でわかった。
気づいたときには、もう走り出していた。
縁石ブロックを乗り越える。
白い線も視界には入っていたはずだが、「重要じゃない」と脳が即座に切り捨てた。
冷たい空気を切りぬけた感覚だけが、やけに鮮明に残っている――
足もとにあった小さな重さだけが、一段とはっきりしている。
思っていた通りの、ふわふわだった。
そこまで思い出したところで、篝は一度まぶたを強く閉じた。
さっきまで整えていた呼吸が、少しだけ乱れる。
「……あのあと、黒いネコが、どうなったのかって」
自分の声が、思っていたよりも速く出た。
「ここで、分かりますか」
向かいの存在は、短く間を置いた。
「……一番、そこが気になりますよね」
「ごめんなさい。今ここからは、『生きている/生きていない』を、
はっきりと言い切ることができないんです」
ネコの生死を伝えられないと、きっぱりと言われた。
――やっぱり、私が飛び出しても、結果は変わらなかったということなのだろう。
「……どうして言い切ることができないんですか」
声がかすれる。
その薄い輪郭の内側から、何かがあふれ出してしまいそうだ。
胸の奥で、この息苦しさに似た状態をどこかで経験したことがある気がした。
それがいつだったのか思い出す前に、言葉が続く。
「……その子が今どうなってしまったのか、それだけをどうか……」
向かいの存在は、少しだけ目を伏せた。
「“ここから先のこと”って、いろいろな要素が絡んでいて……
今この場所で、はっきり『こうです』って言い切れる形には、まだなっていないんです」
ただ、「はっきりさせること」を避けられたという事実だけは分かった。
白い部屋の空気が、じわじわと重くなる。
「……あの黒いネコだけは、って思ってたんです」
篝は、自分でも驚くくらい落ち着いた声で言った。
「ちゃんと守れれば、あとはどうでもいい、って」
向かいの存在は、しばらく篝を見つめていた。
机の縁を握りしめている指先と、わずかに早まった呼吸を確認するように、視線が一度だけ往復する。
「……呼吸が速くなってきていますね。ちょっとだけ、こちらから手を入れます。失礼します」
そう告げた次の瞬間、白い部屋の光が、ほんのわずかに落ちた。
代わりに、胸のあたりを撫でるような、ぬるい風の感覚が通り抜ける。
実際に風が吹いたわけではない。
耳の奥で脈打っていた自分の心音が、一段遠のいた。
指先にこびりついていたしびれも、すこしだけほどけていく。
「この部屋だと、気持ちに負担がかかりすぎているときに、
感情の振れを少しだけ抑える仕組みを使うことができます。
“無理に落ち着いてください”っていう話じゃなくて、
このあとお話を続けられるくらいまで、ちょっとブレーキをかける……そのくらいだと思ってください」
説明だけ聞けば、勝手に心をいじられているようにも思える。
けれど、胸の奥にたまっていた刺々しさが、ほんの少しだけ水で薄められたような感覚があった。
「……ありがとうございます」
完全に落ち着いたわけではない。
それでも、さっきの衝動めいた感情は、どこかへ押し戻された。
向かいの存在は、篝の視線がもう一度こちらへ戻ってきたのを確かめてから、静かに続けた。
「『守りたい』って思える相手がいること自体、とても大事なことです。
あの場面みたいな状況で、実際に足を踏み出せる人は、そう多くありません」
「そのうえで──」
向かいの存在は、言葉を区切り、篝のほうをまっすぐ見た。
「周防さんの、あの場面での『あの子を守ろうとした』という動き方と、よく噛み合う“役目”が、いくつかあります」
役目、という単語に、さっきとは違う種類のざわつきが走る。
「……あの交差点のことが、何か関係あるということですか」
自分で問いながら、胸の奥がきゅっと縮む。
「はい。あの場面で周防さんが何を守ろうとしたのか、その点については、こちらとしても軽くは見ていません」
黒いネコの、柔らかい重さだけが、はっきりと浮かび上がる。
「……どういう、役目ですか」
問いかけた自分の声が、少しだけ上ずっていた。
交差点の景色と、白い部屋の光が、ごちゃごちゃに重なっていく。




