第28話 順番だけ
中庭の石畳は、今日も冷たい。
篝は息を吸って、吐いて、剣を振った。肩の内側が熱くなる。手のひらは汗で滑りそうで、布を巻いた柄が少しだけ湿っている。
石畳の一角に、大きな窪みがある。踏み外すほどじゃないのに、視界の端にいるだけで足首が落ち着かない。篝はそこを避けて、いつもの石畳の継ぎ目の上で振る。
リトは言葉を出さない。篝の手首が折れそうになった瞬間だけ、顎がわずかに動く。視線が手首に「そこ」と言う。篝は一回、振り直した。
石段にだらけた魔女が、片目だけこちらを上げた。見てないようで、見ている。
ミカは水と布を運んできた。濡れていない、乾いた布だ。篝の手元に置かれて、指が勝手に伸びる。
午前が終わる頃、喉がからからだった。息を落として、剣を止める。
ミカが布を差し出す。
篝は受け取って、刃を拭く。ひと撫で、ふた撫で。水には近づけない、が体に残っている。乾いた擦れが、爪の間に残る。
ミカが紐も渡した。
篝は目立つところだけまとめて、外套の内側に隠れる位置に落ち着かせた。
それで、午前は終わった。
食堂には湯気と陶器の音があった。スープの匂い。人間の生活の温度。
なのに、ミカの手だけが早い。
小さい袋。通行証。白金貨。布。紐。外套。
篝の「手が届くところ」に、順番に置いていく。
リトは何も言わない。食べている。見ている。
魔女は手を止めて、篝のほうを見た。笑いそうで笑わない顔だ。
午後。
玄関へ向かう廊下で、魔女が篝の前に回り込んだ。襟元をつまんで、皺を伸ばすみたいに整える。
「もう、飛べる」
篝は息を吸いかけて、止まった。
飛べる――その言い方だけが、喉の奥にひっかかる。聞き返す前に、舌が動かない。
それだけ言って、手を引っ込めた。
次の瞬間、そこにいたはずの影が、消えていた。
触れられたところが少し熱い。襟の縁が、いつもよりきちんとしているのが分かる。
ミカが先に歩き出す。篝はついていく。
扉の向こうへ出た。背中に風が当たり、外套の裾が揺れた。
足元が、地面じゃないみたいな瞬間がある。踏んだはずなのに返ってくる硬さが遅れる。靴底がうまく掴めない。息を吸うと喉が乾いて、唾が消える。
ミカが足を止めた。
振り返らないまま、篝の袖を軽くつまむ。引かない。ただ、合図だけ。
次の一歩で、床が抜けたみたいに胃が浮いた。
音が薄くなる。風の匂いが、布の内側で一度ちぎれる。
――篝は踏み直した。
石の硬さが、今度は遅れず返ってきた。
喉に刺さる乾きも、少しだけ「外」の乾きに変わる。
歩幅を乱したとき、ミカの手が袖を取った。強く引かない。ただ、戻す。篝の足が次の一歩を見つけるまで、支える。
「……大丈夫?」
ミカの声が、ほんの少し揺れた。
「うん……」
篝は答えた。答えたのに、喉が落ち着かない。
前に壁が見えてきた。
高い。石の色が揃っていて、継ぎ目が細い。門も見える。門の上に鐘楼みたいな影がある。
――もう、関所だ。
なのに、ミカが止まった。門が見えているのに、ここで止まるのが変だった。
ミカが篝の前に回る。外套の前を軽く押さえ、内ポケットを探る指。
ぱち、と布が開く音がした。
通行証の紙が滑り込む。角が布に引っかかって、奥へ押される。ミカの指先が一度だけ強くなって、そこで止まった。
篝は反射で、その位置を掌で押さえた。角がちくりと当たる。入ってる。確かに。
ミカが小さい袋を篝の手に押し込む。紐の結び目が固い。掌の皮膚に当たって痛い。
ミカは一度だけ息を吸って、言い切る。
「門は、鐘が鳴る前に通る。通行証は内ポケット。いま入れた」
「宿は鐘楼亭。言える? 着いたら荷を置く。水を飲む。呼吸を戻す」
「……鐘楼亭」
声がやっと出た。けれど、まだ自分の足が自分のものじゃない感じがする。
ミカが頷く。
篝の頭に手を置いた。撫でるんじゃない。位置を直すみたいな短い接触だ。髪が少しだけ動いて、戻る。
ミカは足元へしゃがんだ。石を二つ、布を一枚。小さい平面ができる。指先が布の端を押さえる。
目を閉じて、短く息を落とした。
額のあたりが少し温かくなる。薄い膜が一枚、皮膚の下に貼られるみたいだった。
「……大丈夫。いまは、言った順番だけでいい」
丁寧な声だった。丁寧すぎて、胸の奥が詰まる。
――音が、一枚だけ薄くなる。
ミカの輪郭が、光じゃなく空気の歪みで揺れた。立っているのに、足元がほどけるみたいな揺れ。
紙をめくるみたいな、乾いた小さな音。
足元の布と石の小さい平面だけが残って、ミカの気配だけが抜けた。
……え。
声にする前に、息が喉の奥で止まった。
置いてかれた、と頭が言った。
違う、とも思う。――でも、体が先に怖がる。
唾が出ない。舌が上あごに貼り付いて、喉がきゅっと細くなる。
内ポケットを押さえた掌が離れない。角が刺さって痛いのに、押さえないと抜け落ちそうだった。
もう片方の手では、小袋の紐が指に食い込む。痛みで、いま立っている場所だけは分かる。
――門。鐘が鳴る前。
思い出したとたん、門のほうから音が来た。
鐘。
低い。腹に落ちる。空気が揺れて、人の動きが一斉に速くなる。
篝は列へ入った。考えるより先に足が出る。息が浅い。靴底がようやく地面を掴む。
関所の横に机があった。帳面、インク、乾いた印の道具。
人が次々に通行証を出し、返され、通っていく。
篝の番が来た。
内ポケットに指を入れて、紙の角を掴む。引き抜くとき、布に擦れて小さく鳴った。妙に大きく聞こえる。
机の向こうの係が受け取る。目が一度、篝の顔から腰のあたりへ落ちた。外套の内側。剣の気配。
でも、顔は変わらない。
「……あれ」
事務の声に、ひとつ温度が混ざる。
「今日は、お一人なんですか」
篝はきょろきょろしてしまった。後ろにも、門の外にも、ミカはいない。
「そうです。たぶん……」
係は通行証に印を入れて返してきた。乾いた音がした。余韻が短く残る。
「……もう夜が近いです」
係が言う。心配が先に出る言い方だった。
「宿、取ってますか」
「……まだ」
係は早く頷いた。結論が決まっている頷き。
「鐘楼亭に行きましょう。ここから、まっすぐ」
「広場は横切らないで、脇道で」
――広場の音だけ、遠くから刺さる気がして、篝は肩をすくめた。
「……案内します。余計な手続き、踏まないで済むように」
脇道。広場は避ける。理由は言わない。言わないのに、背中が固くなる。
「ありがとうございます……」
礼だけが出た。
係は帳面を閉じ、机の端に印の道具を揃えた。仕事の終わりの音がする。
「マレイです」
篝は息を吸い直して、頷いた。
「……篝です。……周防」
喉が乾いて、声が薄くなった。
小さく名乗って、歩き出す。篝はついていく。門の内側へ入ると、石の匂いが変わる。人の匂いが増える。でも、増えすぎない。整っていて、息が詰まる。
道の途中で、店の戸が一つ閉まった。次も。木の音。金具の音。
遠くで誰かが声を張って、すぐ消える。
まだ追われている感じが消えない。
看板が見えた。鐘楼亭。
小さな鐘の飾りが揺れている。鳴らないのに、鳴る気配だけがする。
マレイが入口で声をかけた。宿主が出てくる。客を見る顔になる。
「部屋、ひとつ。今夜だけ」
宿主の目が、マレイの前に出た手に落ちた。
一度だけ篝を見て、すぐ帳面へ落ちる。
硬貨の音は、しなかった。
帳面にペンが走って、鍵が渡された。
篝は受け取って、掌の中の硬さを確かめた。
宿主が、親切な声で言う。
「夜は出ないでくださいね」
親切なのに、声だけがきゅっと硬い。
篝は頷いた。頷きしか出ない。
部屋へ通され、戸が閉まる。木がきっちり合う音。隙間がない感じ。
篝はベッドの端に座って、小袋を膝に置いた。内ポケットをもう一度、掌で押さえる。通行証の角が、まだそこにある。
水を飲むべきなのに、喉が動かない。
――いまは、言った順番だけでいい
ミカの声が、遅れて追いついてきた。




