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異物の魔女騎士 ―転生面接で神に拒否され、原初の魔女に拾われた少女―  作者: 畑野きび
第六章:鐘と像

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第28話 順番だけ

 中庭の石畳は、今日も冷たい。


 篝は息を吸って、吐いて、剣を振った。肩の内側が熱くなる。手のひらは汗で滑りそうで、布を巻いた柄が少しだけ湿っている。


 石畳の一角に、大きな窪みがある。踏み外すほどじゃないのに、視界の端にいるだけで足首が落ち着かない。篝はそこを避けて、いつもの石畳の継ぎ目の上で振る。


 リトは言葉を出さない。篝の手首が折れそうになった瞬間だけ、顎がわずかに動く。視線が手首に「そこ」と言う。篝は一回、振り直した。


 石段にだらけた魔女が、片目だけこちらを上げた。見てないようで、見ている。


 ミカは水と布を運んできた。濡れていない、乾いた布だ。篝の手元に置かれて、指が勝手に伸びる。


 午前が終わる頃、喉がからからだった。息を落として、剣を止める。


 ミカが布を差し出す。


 篝は受け取って、刃を拭く。ひと撫で、ふた撫で。水には近づけない、が体に残っている。乾いた擦れが、爪の間に残る。


 ミカが紐も渡した。

 篝は目立つところだけまとめて、外套の内側に隠れる位置に落ち着かせた。


 それで、午前は終わった。


 食堂には湯気と陶器の音があった。スープの匂い。人間の生活の温度。


 なのに、ミカの手だけが早い。


 小さい袋。通行証。白金貨。布。紐。外套。

 篝の「手が届くところ」に、順番に置いていく。


 リトは何も言わない。食べている。見ている。


 魔女は手を止めて、篝のほうを見た。笑いそうで笑わない顔だ。


 午後。


 玄関へ向かう廊下で、魔女が篝の前に回り込んだ。襟元をつまんで、皺を伸ばすみたいに整える。


「もう、飛べる」


 篝は息を吸いかけて、止まった。

 飛べる――その言い方だけが、喉の奥にひっかかる。聞き返す前に、舌が動かない。


 それだけ言って、手を引っ込めた。

 次の瞬間、そこにいたはずの影が、消えていた。


 触れられたところが少し熱い。襟の縁が、いつもよりきちんとしているのが分かる。


 ミカが先に歩き出す。篝はついていく。

 

 扉の向こうへ出た。背中に風が当たり、外套の裾が揺れた。


 足元が、地面じゃないみたいな瞬間がある。踏んだはずなのに返ってくる硬さが遅れる。靴底がうまく掴めない。息を吸うと喉が乾いて、唾が消える。


 ミカが足を止めた。

 振り返らないまま、篝の袖を軽くつまむ。引かない。ただ、合図だけ。


 次の一歩で、床が抜けたみたいに胃が浮いた。

 音が薄くなる。風の匂いが、布の内側で一度ちぎれる。


――篝は踏み直した。

 石の硬さが、今度は遅れず返ってきた。

 喉に刺さる乾きも、少しだけ「外」の乾きに変わる。


 歩幅を乱したとき、ミカの手が袖を取った。強く引かない。ただ、戻す。篝の足が次の一歩を見つけるまで、支える。


「……大丈夫?」


 ミカの声が、ほんの少し揺れた。


「うん……」


 篝は答えた。答えたのに、喉が落ち着かない。


 前に壁が見えてきた。


 高い。石の色が揃っていて、継ぎ目が細い。門も見える。門の上に鐘楼みたいな影がある。


 ――もう、関所だ。


 なのに、ミカが止まった。門が見えているのに、ここで止まるのが変だった。


 ミカが篝の前に回る。外套の前を軽く押さえ、内ポケットを探る指。


 ぱち、と布が開く音がした。


 通行証の紙が滑り込む。角が布に引っかかって、奥へ押される。ミカの指先が一度だけ強くなって、そこで止まった。


 篝は反射で、その位置を掌で押さえた。角がちくりと当たる。入ってる。確かに。


 ミカが小さい袋を篝の手に押し込む。紐の結び目が固い。掌の皮膚に当たって痛い。


 ミカは一度だけ息を吸って、言い切る。


「門は、鐘が鳴る前に通る。通行証は内ポケット。いま入れた」

「宿は鐘楼亭。言える? 着いたら荷を置く。水を飲む。呼吸を戻す」


「……鐘楼亭」


 声がやっと出た。けれど、まだ自分の足が自分のものじゃない感じがする。


 ミカが頷く。

 篝の頭に手を置いた。撫でるんじゃない。位置を直すみたいな短い接触だ。髪が少しだけ動いて、戻る。


 ミカは足元へしゃがんだ。石を二つ、布を一枚。小さい平面ができる。指先が布の端を押さえる。


 目を閉じて、短く息を落とした。


 額のあたりが少し温かくなる。薄い膜が一枚、皮膚の下に貼られるみたいだった。


「……大丈夫。いまは、言った順番だけでいい」


 丁寧な声だった。丁寧すぎて、胸の奥が詰まる。


――音が、一枚だけ薄くなる。

 ミカの輪郭が、光じゃなく空気の歪みで揺れた。立っているのに、足元がほどけるみたいな揺れ。

 紙をめくるみたいな、乾いた小さな音。


 足元の布と石の小さい平面だけが残って、ミカの気配だけが抜けた。


 ……え。

 声にする前に、息が喉の奥で止まった。


 置いてかれた、と頭が言った。

 違う、とも思う。――でも、体が先に怖がる。

 唾が出ない。舌が上あごに貼り付いて、喉がきゅっと細くなる。


 内ポケットを押さえた掌が離れない。角が刺さって痛いのに、押さえないと抜け落ちそうだった。

 もう片方の手では、小袋の紐が指に食い込む。痛みで、いま立っている場所だけは分かる。


――門。鐘が鳴る前。


 思い出したとたん、門のほうから音が来た。


 鐘。

 低い。腹に落ちる。空気が揺れて、人の動きが一斉に速くなる。


 篝は列へ入った。考えるより先に足が出る。息が浅い。靴底がようやく地面を掴む。


 関所の横に机があった。帳面、インク、乾いた印の道具。

 人が次々に通行証を出し、返され、通っていく。


 篝の番が来た。


 内ポケットに指を入れて、紙の角を掴む。引き抜くとき、布に擦れて小さく鳴った。妙に大きく聞こえる。


 机の向こうの係が受け取る。目が一度、篝の顔から腰のあたりへ落ちた。外套の内側。剣の気配。

 でも、顔は変わらない。


「……あれ」


 事務の声に、ひとつ温度が混ざる。


「今日は、お一人なんですか」


 篝はきょろきょろしてしまった。後ろにも、門の外にも、ミカはいない。


「そうです。たぶん……」


 係は通行証に印を入れて返してきた。乾いた音がした。余韻が短く残る。


「……もう夜が近いです」


 係が言う。心配が先に出る言い方だった。


「宿、取ってますか」


「……まだ」


 係は早く頷いた。結論が決まっている頷き。


「鐘楼亭に行きましょう。ここから、まっすぐ」

「広場は横切らないで、脇道で」


――広場の音だけ、遠くから刺さる気がして、篝は肩をすくめた。


「……案内します。余計な手続き、踏まないで済むように」


 脇道。広場は避ける。理由は言わない。言わないのに、背中が固くなる。


「ありがとうございます……」


 礼だけが出た。


 係は帳面を閉じ、机の端に印の道具を揃えた。仕事の終わりの音がする。


「マレイです」

 篝は息を吸い直して、頷いた。

「……篝です。……周防」

 喉が乾いて、声が薄くなった。


 小さく名乗って、歩き出す。篝はついていく。門の内側へ入ると、石の匂いが変わる。人の匂いが増える。でも、増えすぎない。整っていて、息が詰まる。


 道の途中で、店の戸が一つ閉まった。次も。木の音。金具の音。

 遠くで誰かが声を張って、すぐ消える。


 まだ追われている感じが消えない。


 看板が見えた。鐘楼亭。

 小さな鐘の飾りが揺れている。鳴らないのに、鳴る気配だけがする。


 マレイが入口で声をかけた。宿主が出てくる。客を見る顔になる。


「部屋、ひとつ。今夜だけ」


 宿主の目が、マレイの前に出た手に落ちた。

 一度だけ篝を見て、すぐ帳面へ落ちる。

 硬貨の音は、しなかった。


 帳面にペンが走って、鍵が渡された。

 篝は受け取って、掌の中の硬さを確かめた。


 宿主が、親切な声で言う。


「夜は出ないでくださいね」


 親切なのに、声だけがきゅっと硬い。


 篝は頷いた。頷きしか出ない。


 部屋へ通され、戸が閉まる。木がきっちり合う音。隙間がない感じ。


 篝はベッドの端に座って、小袋を膝に置いた。内ポケットをもう一度、掌で押さえる。通行証の角が、まだそこにある。


 水を飲むべきなのに、喉が動かない。


 ――いまは、言った順番だけでいい


 ミカの声が、遅れて追いついてきた。

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