第27話 カップの温度
あったかいの、こっち。
食堂まで戻って扉を閉めると、ついてきた外の匂いが薄くなった。
代わりに、木と布と、石の冷たさが戻ってくる。
ミカは外套を脱がせない。
まず篝の背中を、椅子へ誘導する。押すんじゃなく、椅子の位置を先に決めて、そこへ「戻して」くる手つき。
「座って。息、いちど」
優しい声だった。
さっきまでの短い刃みたいな言い切りじゃない。
篝は椅子の背に指をかけた。指先が、まだどこか落ち着かない。
外套の内ポケットを探しにいきそうになって、肘を自分の脇に押しつけた。
ミカが卓の上へ革袋を置く。
音は小さい。わざと小さくしている。
内ポケットから抜いた通行証入れも、布の上へ。
口は閉じてある。外から見えない。――見えないのに、篝の目だけがそこへ戻る。
「もう、大丈夫です」
ミカは篝の視線を追わない。
代わりに、卓の端に手を添えて、布を一回だけ整える。
その所作が、館の中の速さだった。
世界が、勝手にほどけていかない速さ。
扉がもう一つ開いて、リトが入ってきた。
外套ではなく、訓練用の上着のまま。袖口に乾いた粉が少し付いている。
リトの視線が、卓の上の通行証入れに落ちて、すぐミカへ戻る。
「買えたか」
「買えました。二人分。」
ミカの答えは短い。
でも、刺さらない短さだった。ちゃんと家の中に収まる声。
リトはそれ以上、聞かない。
頷いて、椅子を引いた。座らない。立ったまま、背もたれに手を置くだけ。
「よし。——休め」
篝はその「休め」に、肩が落ちた。
勝手に力が入っていた。入っていたことに、いま気づく。
ミカが革袋の口を確かめる。
中身を見せない。重さだけ、掌で受け直す。
それから、ミカは自分の外套の内側へ手を入れて、包みをひとつ取り出した。
紙で巻かれた小さな瓶。白い粉が透けるような、透けないような。
瓶を置いた瞬間、篝の喉がきゅっとなる。
あの机。あの手。あの「さらり」。
ミカは、瓶を卓の上で転がさない。
転がりそうな向きを避けて、布の折り目に沿わせて置く。
それだけで、音は出なかった。
篝は自分の指が、また内ポケットへ向かうのを感じた。
通行証入れは、もう卓の上にあるのに。
止めようとして、止められない、ほどじゃない。
でも、指が「そこだ」と言ってくる。
ミカが篝の手首に触れた。
掴まない。外套の袖口をそっと直すだけ。指が行けない位置に、布を寄せるだけ。
「……それ、なに」
篝の声は小さかった。
聞くつもりがあるのに、喉がまだ細い。
ミカは瓶を見たまま、答える。
「乾かす粉です。紙にも使いますし、布にも使います」
それだけ言って、瓶を紙のまま棚へ持っていく。
食堂の隅の、小さい戸棚。いつも石鹸や布や、紐がしまわれている場所。
戸棚の扉を開ける音が、静かに鳴る。
中は暗い。瓶は奥へ。見えない場所へ。
扉を閉めると、粉の気配も消えた。
消えたのに、篝の耳の奥だけが、まだ乾いたまま。
「街では、よく使うんですか」
篝は自分でも、変な聞き方だと思った。
ミカは、棚の前で振り向いた。
いつもの顔だった。目がまっすぐで、焦らせない。
「よく、というより……早いです。乾かすのが」
ミカはそれで終わりにして、卓へ戻る。
篝の前に、空のカップを置いた。手がかりになる重さ。
「温かいの、入れます。今日はここまで」
篝は頷いた。
頷けたことが、さっきよりずっと楽だった。
リトが一歩引いて、扉のほうへ向かう。
「明日からは、出すのはおまえだ」
それだけ言って、出ていった。
言い捨てじゃない。淡々とした予定の置き方。
ミカが湯を注ぐ。
湯気が上がって、鼻の奥がほどける。
篝はカップに指を添えた。
内ポケットじゃなく、ここに指が置ける。
玄関ホールの影にいる椅子のことが、ふっと頭に浮かぶ。
背もたれだけの椅子。いつも通り、そこにいるだけ。
(……ただいま)
心の中で言って、篝は湯気を吸った。
外の「さらり」は、まだ消えてない。
でも、いまはカップの温度のほうが近かった。




