第22話 反復
あるく。くりかえす。
なにに、なる。
それから一週間ほど、篝は順番を崩さずに過ごした。
走って、振って、外へ出て、戻る。
息が胸でばたつく感じも、腕が鉛みたいに戻ってくる感じも、消えはしない。消えないまま、戻り方だけが少しずつ早くなった。
走り込みを終えたとき、息はまだ胸の奥で暴れていた。
でも、昨日よりは戻るのが早い。
玄関ホールの床は、足裏に少しだけ吸い付く。
この感触が、いまは「普通」だ。
影の端に、背もたれだけの椅子があった。
そこにあるだけで、胸がゆるむ。
椅子は椅子のまま、何もしない。
(……セナ。またいるな)
声にはしない。
それでも「いってらっしゃい」と言われたみたいで、篝は息をひとつ深く入れ直した。
中庭に出る。
剣を握ると、手の内がすぐ熱を思い出す。
素振りは、数えると嫌になる。
だから、呼吸だけ数える。吐いて、吸って。振って、戻す。
刃先が空を切る音が、今日は少しだけ整って聞こえた。
最後の一本を振り終えて、肩を落とした。
落とした途端、腕の重さがまとめて戻ってきて、息が漏れた。
そこへ、ミカが来た。足音は静かで、近づくまで気づけない。
「走り込みと、素振りは終わりましたか」
篝は頷いた。
返事は喉に引っかかる。頷いたほうが早い。
「では……行きましょう。今日は短く」
篝は一度だけ、自分の手を見た。まだ握る形が残っている。
「剣は、置いてきてくださいね」
言い方は柔らかいのに、線ははっきりしていた。
篝は黙って、部屋へ戻る。
壁に立てかけた柄が、いつもより遠い。
握ってるときの重さも、空っぽの軽さも。どっちも最近、変に馴染んできていた。
玄関ホールに戻ると、天井の高さが視界を空けた。
黒い大理石の床が、足裏にまた少しだけ吸い付く。
ミカが正面の扉の前に立ち、振り返った。
「周防さん。準備はいいですか」
篝は頷いた。
答えるより先に、喉が乾く。
ミカの手元で金属が、かちり、と鳴る。
取っ手が回り、扉がわずかに開いて――
冷たく湿った空気が、細い線みたいに入り込む。土の匂い。
外の通路の先に、黒い門の輪郭がまっすぐ見えた。
「短く」
もう一度、ミカが言った。
篝は靴の先だけを見る。
黒い門をくぐった瞬間、足裏の吸い付きがぷつりと切れた。
境目をまたいだ、という感覚だけが残る。
音が減る。
減ったぶん、耳の奥が勝手に探し回る。
足元は石でも土でもない――そんな感触も、前ほど違和感がなくなりつつある。
(……なんで)
腹が立つより先に、変な笑いが喉の奥で引っかかった。
昨日より、足が出る。
目は上げない。
上げたら、そこにあると分かってしまう。
それでも数歩で、視界の端に輪郭が刺さった。
塔だ。
空へ突き立てたみたいな形。
胸の奥がひやりと冷える。喉が詰まって、息が細くなる。肩が勝手に上がる。
「見なくていいです」
ミカの声が前から落ちてくる。
「足元だけ。ゆっくり」
篝は息を吐く。吐かないと固まる。
もう一度吐いて、足を置く。置いて、次を探す。
塔は、見なくてもそこにある。
見えないのに、視線を引っ張る。
(止まらない)
そう思った瞬間、喉がきゅっと締まる。
“思う”より先に、体が止まりたがる。
篝は唇を噛んで、次の一歩を置いた。
昨日よりは、呼吸が残っている。残っているぶんだけ、怖さが形になる。
ミカが止まった。
「ここまでです」
篝も止まった。
声は出さない。
篝は小さく頭を動かした。
「背中を向けますよ」
ミカが言った。
その一言で、胃がきゅっと縮む。
背中を向けるのが、いちばん怖い。
見えていても怖い。見えなくなったらもっと怖い。
息を吐いてから、体の向きを変えた。
塔が視界から外れる――外れたのに、まだそこにある。
背中の皮膚がひりつく。
昨日よりは、ひりつきが薄い。薄いからこそ、ちゃんと歩けてしまうのが嫌だ。
「足元」
ミカが言う。
篝は頷いた。今度は頷けた。
戻りの一歩目は重い。
でも足を置く。置いて、次を置く。吐いて、吸って。
玄関ホールの灯りが見えたとき、篝はやっと息を吸い直せた。
館の石の硬さが戻る。それだけで泣きそうになるのが、腹立たしい。
黒い門を越えた途端、空気が“館のもの”に戻った。
足裏に、あの吸い付きが帰ってくる。
肩が、遅れて落ちる。
影の端に、背もたれだけの椅子がある。
さっきと同じ。ただそこにいるだけ。
(……ただいま)
声にはしない。
椅子は椅子のまま、何もしない。
ミカが扉を閉め、掛け金が落ちる。
その音で、篝はやっと「戻れた」と思った。勝ったとかじゃない。ただ、戻れた。
「だいぶ、慣れてきましたね」
ミカが言った。
「反復が大事です」
篝は「はい」と返した。
返事ができる場所に戻ってきて、肩の力が抜けていた。
ミカは一拍おいて、声を落とす。
「落ち着いて歩けるようになってきました。……ただ、慣れたからって、軽く見ていい場所ではありません」
篝は頷いた。
ミカは言い方を少しだけ柔らかくした。
「周防さん。明日から、訓練のあとに――外のお勉強をします」
篝は聞き返したかった。
でも、喉の奥がまだ固くて、言葉が出てこなかった。




