第19話 だれにも、むけず。
のこる。やめない。
てをあわせる。
館がそこにあるだけで、足の裏が戻ってきた。
ミカは振り返らずに廊下へ向かう。
篝もついていく。遅れない距離だけを守る。
歩き出した瞬間、腕の内側がじん、と遅れて痛んだ。
紙包みの角が食い込んでいた場所だ、とやっと分かる。
それとは別に、腰のあたりが小さく気になった。
服の内側で、硬い丸が当たる。冷たい。
――白い金貨。
あれで、何か買えるのかな。
どうして、出しちゃいけなかったんだろ。
考えようとしただけで、喉の奥が詰まる。
外の空気が、まだ体のどこかに残っている。
(外では、何が“当たり前”なんだろ)
階段を上がる。
足は戻っているのに、体は戻りきっていない。
自分の部屋の扉を押して、閉める。
小さな音がして、そこでやっと息が出た。
靴を脱いで、ベッドの端に腰を落とす。
落としただけなのに、背中がほどけて、視界がにじむ。
ポケットに手を突っ込んだ。
丸い硬さを掌に移す。ひやりとした重み。
握る。
指の間から逃げない。
(聞かなきゃ。外のこと)
(……でも、今は無理だ)
硬さだけ確かめるみたいに、胸の前で握ったまま横になる。
まぶたが落ちる。
篝は、息をひとつだけ数えて――そこで、途切れた。
◇
次に目を開けたとき、体はちゃんと重かった。
重い、という当たり前が嬉しい。
それから何日か、篝は中庭で素振りをして、走った。
息が上がって、汗が冷えて、また振る。足の裏が石を踏む。
回数のことは数えない。ただ、終わらせるまで止まらない。
外の道を思い出すと、喉の奥がきゅっとなる。
あの“薄くなる”感じ。耳じゃなく皮膚に触れてくる音。
それを思い出したくなくて、逆に思い出してしまう。
それなのに。
(……なんで、館の人たちは平気なんだろ)
外が“やばい”のは、篝の体のほうが覚えている。
なのにミカとリトは、歩幅を少し落としただけだった。
暮らすのに困らないくらいで。
最低限でいいから、知りたい。
そう思った日の午後、篝はミカを探しに廊下へ出た。
長い廊下は、相変わらず夜みたいだった。
窓の向こうに星がある。あるのに、距離感が掴めない。
壁の灯りは途切れずに点っていて、影だけが濃い。
角を曲がったところで、扉がひとつ見えた。
こんなところに、扉があっただろうか。
でも「ない」と言い切れるほど、廊下を覚えてもいない。
扉の隙間から、灯りが細く漏れていた。
篝は「ミカ」と呼びかけかけて、すぐ飲み込む。
声を出したくない場所が、館にはある。理由は分からないのに、体が先にブレーキを踏む。
迷う前に、指をかけた。
押す。
古い木が、かすかに鳴って、扉が開く。
部屋の空気が、ひやりと頬に触れた。
篝は一瞬だけ肩を固くして、それから足を踏み入れる。
小さな聖堂だった。
奥に、祭壇みたいな台がある。
その背後の壁に、何かを置くためのくぼみがあるのに――そこには、何もない。
空っぽの形だけが、きちんと残っている。
灯りは、床に置かれたランプひとつ。
光が低い位置から伸びて、祭壇の影が天井に揺れた。
そして、その手前にミカがいた。
膝をつき、背筋を立てて、両手を合わせている。
目を閉じているのに、姿勢が崩れない。呼吸だけが静かに上下して、袖口がわずかに動く。
篝は声を飲み込んだ。
邪魔していい雰囲気じゃない。そういう“空気”が、言葉より先に分かる。
扉のそばで立ち止まり、篝はそのまま待った。
ミカの指先が、ほんの少しだけ止まった。
合わせた手が緩む、というほどじゃない。ただ、息が一拍だけ浅くなる。
ミカのまぶたが、わずかに上がる。
視線がこちらへ来て――来たはずなのに、すぐ落ち着く。
何も言わない。
祈りは途切れない。
篝は踵に力を入れ直して、息を殺した。
足の裏が床に貼りついたみたいだった。
自分の足音が、ここではやけに大きかった気がして、喉の奥がまたきゅっとなる。
ミカの手は、最後まで静かだった。
やがて、ミカが長く息を吐いたのが聞こえた。肩の線が、ほんの少しだけゆるむ。
合わせていた手がほどける。
指先が膝の上へ降りて、ミカはゆっくり立ち上がった。
その動きの丁寧さが、逆に篝を緊張させた。
言葉を選ばないと、いけない。
篝は一歩だけ近づきかけて、止まる。
距離の取り方が分からないまま、口だけ先に開いた。
「……今の、祈り……ですか」
ミカは頷いた。
視線だけで「そうです」と返すみたいに。
篝の次が、勝手に出る。
「……祈る相手って、いるんですか」
ミカは、少しだけ首を傾けた。
考える間の長さじゃない。“確認”みたいな動き。
「……どなたにも、向けておりません」
篝の眉が寄った。
質問がずれたのが、自分でも分かる。
「……願いごとをする……祈りじゃ、ないんですか」
ミカは小さく首を振った。
「お願いではありません」
短い。
それだけで終わる言い方なのに、終わってくれない感じがする。
篝は息を吸って、言い直すみたいに、次を刻んだ。
「じゃあ……何をしてるの」
ミカの視線が、篝の口元じゃなく、胸のあたりに落ちた。
見透かされそうで、篝は指先を握り込んだ。
「所作です」
ミカはそれだけ言って、続ける。
「……在り方のために、です」
篝は返事ができなかった。
空っぽのくぼみが、背後で静かに口を開けている。
誰にも向けていないのに、祈り。――在り方。
篝は口を開きかけて、閉じた。
聞きに来たはずの「外」の順番が、ほどけてしまう。
代わりに、ミカの手の形と、背後の空白だけが目に残った。
篝は唇を閉じて、もう一度だけミカの手を見た。
指先は、さっきまでと同じ形をしているのに、もう合わせていなかった。




