第17話 ふつうの街。
ふつう。
糸の上。落ちずに、ふつう。
乾いた風が、頬をこすっていく。
砂と小石の道は硬く、靴底が鳴る。さっきまでの湿り気が、嘘みたいだった。
遠くに見えていた灯りは、近づくほど増えた。
火と煙の匂い。煮炊きの匂い。獣の匂い。
篝は、息を吸っても胸が痛まないことに気づいて、少しだけ深く吸い直した。
それだけで、肩の力が落ちる。
――外の中で、いちばん安全。
そう思いかけて、目の奥がひやりとした。
逆さの塔の形が、まだ残っている。見ようとしなくても、浮かぶ気配がする。
篝は、視線を地面へ落とした。
足元の砂利。靴の先。息の白さ。いま見えるものに、意識を寄せる。
前を歩くミカの背中は、迷いなく灯りへ向かっていた。
ランタンの光が揺れて、石垣の輪郭をなぞる。
門があった。
背の高い木の扉。横には火を掲げた兵が立ち、門の内側では誰かが声を上げている。
閉まりかけ、という空気がある。
急かす足音。鎖が擦れる音。扉が軋む気配。
ミカが一歩前へ出た。
篝は、言われる前に灯りの輪の内側へ滑り込む。ミカのすぐ後ろ。
その動きが、自分でも自然すぎて、少し怖い。
門番がこちらを見た。
最初はミカの顔。次に篝の装備。革の上着。短く整えた髪。
そして、リトに触れた瞬間――顔が止まる。
門番の瞳が見開かれる。
槍の柄が、上がりかけて、途中で引っ込む。
門番は半歩さがって、息を呑んだ。
その目が、リトの背へ落ちる。
包帯の輪郭に触れた瞬間、肩がびくりと跳ねた。
「……っ」
声になりきらない音が漏れた。
一歩、後ずさる。恐慌に近い。顔色が、火に照らされて青白く見える。
篝の胃が、きゅっと縮む。
リトは動かない。
ただそこに立っている。
ミカが、門番へ向けて短く言った。
「泊まるだけです。今夜だけ。朝には出ます」
丁寧なのに、言い切りだった。
門番の呼吸が一拍乱れ、槍の先が揺れた。
ミカは慌てない。
手を伸ばし、布袋の口を少しだけゆるめた。中で金属が触れ合い、乾いた音が鳴る。
門番の視線が、その音へ落ちる。
――すぐ、リトへ戻った。槍先がわずかにこちらへ寄り、篝の喉が勝手に固まる。門番の靴が砂を擦って、ひとつ分だけ距離が開く。握る指が白い。
「……丁寧だが、そっちの大男。門番としては通したくない部類なんだが。」
門番は、引きつった口元のまま身を引いた。
ミカではなく、リトから距離を取るみたいに。
ミカは返事をしない。
布袋の中へ指を入れて、金貨を一枚だけつまみ出した。火の色が、端で一瞬だけ光る。
門番の喉が鳴る。
目だけはリトに貼りついたまま、空いた手が、探るように前へ出た。
ミカはその掌に、金貨をそっと置いた。
門番の指が閉じる。
奪うみたいに引っ込めて、懐へ滑り込ませる。動きが、やけに速い。
「……おいおい、随分と気前がいいな。わかった、通してやる。」
言いながら、門番は身をずらした。道を作るというより、避けるみたいに。
ふぅと一息ついた後に、独り言のように呟く。
「……頼むから中で問題を起こすなよ、こっちの責任になる」
門番の声は掠れていた。
「分かっています」
ミカが頷く。
その一言で、門番はようやく手を下げた。
門の内側へ通される。
扉がきい、と鳴り、篝のすぐ横で木が擦れた。閉まる音は、背中のほうで重く響く。
中は、外より少しだけ明るい。
道の両脇に家が並び、窓の隙間から火の色が漏れている。まだ起きている人の声がする。
篝の耳が、音を拾う。
笑い声。皿の当たる音。誰かの咳。
街、だ。声がする。湯気が立ってる。……それだけで、胸が少しだけほどけた。
ミカが振り返らずに言う。
「まずは宿を探しましょうか」
「……はい」
篝は返事をして、歩幅を合わせた。
遅れない。前に出ない。外では、それがいちばんの“安全”だった。
宿は、通りの少し奥にあった。
扉の隙間から、明るい火と湯気が漏れている。
中へ入ると、いきなり熱が来た。
煮込みの匂い。焼いたパンの匂い。汗と木と酒の匂い。
広間に長い卓。壁際に荷物。奥に厩へ続く扉があり、獣の匂いが混ざっている。
宿の主人らしい男が出てくる。
目がまずミカに止まり、次に篝。最後に、リトを見て――顔が固まった。
さっきの門番と同じ反応だった。
篝の背中に、冷たいものが走る。
ここでも止められるのか、と思った瞬間。
「部屋を二つ。今夜だけ」
ミカが先に言った。
言葉が短い。迷いがない。
主人の視線が揺れる。
喉が一度だけ動いて、息が詰まる。
それでも、ミカが差し出した布袋の音で、目が現実に戻る。
主人は息を吐いて、頷いた。
「……奥。前金。」
「その子、顔色が悪い。広間で倒れたら迷惑だ。連れてけ。」
篝には、返す言葉が出なかった。
リトは、興味がなさそうに何も言わない。
視線も動かさない。
主人が鍵みたいなものを二つ渡し、奥を指した。
ミカが受け取り、篝に目配せする。
廊下は暗めで、床板が鳴った。
奥に、扉が二つ並ぶ。ひとつはミカと篝。もうひとつはリト。
リトは短く頷くだけで、自分の部屋へ入った。
背負った包帯斧が、扉の向こうへ消える。
ミカが、こちらの扉を開ける。
狭い。寝具が二つ。壁は木で、火の匂いが染みている。
「先に食べて、落ち着きましょう。……呼吸、苦しくないですか」
ミカが言う。
篝は、答える前に一度だけ息を吸った。
「……はい」
本当は、分からない。
でも“分からない”を言う余裕もない。
広間に戻ると、椀が出た。
湯気が立つ。篝の指先が、その熱に救われる。
口に入れると、塩気が舌に来た。
油が喉を滑る。体が、ようやく「生きてるほう」を選び直す。
その瞬間だけ、逆さの塔が遠のく。
……来そうになる。
目を閉じたら、形が浮かぶ気配がした。
篝は、椀の縁を見た。
湯気の向こう。自分の手。いまここにあるものだけを数えるみたいに。
食べ終えるころ、広間の声は少しずつ落ちていった。
火が低くなり、皿の音が減る。
部屋に戻る。扉が閉まる音がして、外の気配が一枚薄くなる。
寝具に横になると、藁の匂いがした。硬い。館の寝台と違う硬さだ。
隣でミカの呼吸が落ちていく。
廊下の向こうから、一度だけ、床板が鳴った。リトの足音かもしれない。
篝は、その音を聞いて、ほんの少しだけ安心した。
変な安心だ、と自分で思う。
それでも、肩は少しだけ下がった。
朝は、音で来た。
広間の声。荷車のきしみ。厩の獣の鳴き声。火を起こす匂い。
窓の隙間から、薄い光が差している。
外が、夜じゃない――というより、夜が薄くなっている感じがした。
篝は起き上がり、服の縫い目を確かめる。
ミカはもう立っていて、髪をまとめていた。
表情が外の顔に戻っている。
「行きましょう。朝のうちに、用事を済ませましょう」
「……はい」
ミカは頷くと、先に廊下へ出た。
篝も続く。床板が小さく鳴って、昨夜の熱と匂いが背中に薄く残る。
広間の端、主人が立っていた。
ミカは鍵を二つ、掌に載せて差し出す。
「……お世話になりました。鍵、こちらです」
主人の目が鍵に落ち――すぐ、入口のほうへ跳ねた。
戸口に、リトが立っている。外の薄い光が背をかすめ、包帯巻きの斧が鈍く白んだ。
主人は一拍遅れて鍵を掴み、喉を鳴らした。
「……さっさと行け」
「分かっています」
ミカはそれだけ返して、篝のほうへ肩が触れそうな位置まで寄った。
守るみたいな近さ。篝は息を吸って、背筋を伸ばす。
扉を抜けると、朝の匂いがぶつかった。
焼けたパンの甘さ。濡れた布の酸っぱさ。汗。煙。
頬を撫でる風が乾いていて、胸の奥が少しだけ緩む。
リトは先に外に出ていた。
包帯の斧は背中。昨日と同じ位置。ほどけていない。
店が開き始めた通りで、ミカが足を止めた。
乾いた葉の匂いが漏れる店。瓶と布袋がきっちり並んでいる。
ミカが買い物リストを出し、店主と短く言葉を交わす。
やり取りは早い。迷いがない。
布袋がいくつか渡され、紙包みが重なる。
篝はそれを受け取り、胸に抱えた。
支払いの場面で、篝の指がポケットへ向かった。
白金貨の硬さに触れた瞬間、ミカの手が篝の手首を軽く押さえた。
強くない。
でも、止まる。
篝はすぐ手を引っ込めた。
ミカは何も言わず、別の袋を取り出して支払う。
金属の音が、小さく鳴る。
店主はそれを受け取り、何事もなかったように頷いた。
(……出しちゃだめなんだ)
説明はない。
でも、止められたという事実だけが胸に残る。
荷物を抱えたまま店を出ると、通りの音が一段大きく聞こえた。
人がいる。暮らしがある。
その中で、リトの背の包帯斧だけが、静かに浮く。
視線が一度刺さり、すぐ逸れる。誰も声にはしない。
篝はそれを見て、また背筋を伸ばした。
外では、自分たちは目立つ。たぶん。
門へ向かう。
出ていく人の列があり、門番が淡々と目を通している。
昨日の“恐慌に近い顔”の男も、そこにいた。
篝を見る。ミカを見る。リトの背を見る。
眉が僅かに動く。けれど昨日ほどではない。
恐怖が消えたようには見えない。昨日より“慣れた顔”を作っているように見えた。
門を抜ける。
町の声が、背中に薄くなる。
砂利の音が戻ってくる。
乾いた風が、頬を撫でる。
篝は荷物を抱え直し、ミカの背中を見た。
聞きたいことはある。
でもいまは、歩幅を合わせるほうが先だ。
腕に食い込む紙包みの角を確かめて、篝は黙って、街道へ戻った。




