第16話 境界の外
外を選ぶ。目は閉じない。
玄関の扉が、ほんの少しだけ開いている。
隙間から流れ込んでくる外気は、冷たくて、湿っていて、土の匂いがした。
その匂いだけで、胸の内側がきゅっと縮む。
ミカが先に立つ。
リトは、その少し斜め前。包帯で巻かれた斧を抱えたまま、足音を立てない。
篝は一歩、踏み出しかけて――ふと、横を見た。
壁の片隅に、背もたれだけの椅子がある。
脚もないのに、そこに“立っている”。
いつも通りのはずなのに、今日は背の角度が、少しだけ違って見えた。
まるで、扉を抜ける自分たちに向かって、「いってらっしゃい」と言っているみたいに。
……可笑しい。
こんなおかしいものに、救われてる。
篝は喉の奥で、笑いになる手前の息をひとつこぼして、視線を戻した。
「行きます」
ミカの小さな声。
篝は、息を止めたまま頷き、扉を抜けた。
◇
外に出た瞬間、足裏の感覚が変わった。
館の中の床は、磨かれた石で、冷たさが均一だった。
けれど今は、薄い革底越しに、同じ石のはずなのに、ところどころ湿っていて、ざらつきがある。
冷たさが、斑にくっついてくる。
匂いも、生っぽい。
土と、湿った葉と、どこか鉄の気配。
篝は無意識に、肩をすくめた。
ミカが何も言わずに、篝の腕のあたりへ手を添えた。
押すでも引くでもない。けれど、それだけで「こっち」と分かる。
道の、内側。
石畳の目地が、少しだけ整っているほうへ寄せられる。
その前に、リトの背が来た。
篝の視界を、半分ふさぐ位置。
前に出るな、と言われなくても分かる配置だった。
篝は、そこに収まる。
館の門が近づく。
黒い輪郭が、星の明るさの中で、やけに重く見える。
ミカが一歩、速度を落とし、篝の目の前に立つ。
「……ここから先は、私のそばを離れないでください」
声は低く、短い。
篝は頷いた。喉が乾いて、返事が出ない。
門がきい、と開き、冷たい外気がひとつ濃くなる。
篝はそのまま、境目をくぐった。
その瞬間――冷気の質が変わった。
肌に触れているのに、触れていないみたいに薄い。
逆に、息を吸った内側だけが痛い。
篝は、思わず唇を噛んだ。
(……外って、こういう)
言葉にしようとした、その矢先だった。
道の先――いや、道の途中に。
そこに「あるはずのないもの」が、当然みたいに立っていた。
◇
――逆さの塔。
尖塔が下へ向かっている。
地面に刺さっているはずの重さが、空へ向かって伸びている。
重力の向きが、間違っている。
大きすぎて、遠近が壊れた。
近いのか遠いのか、判断しようとした瞬間に、目が滑る。
道の途中に“置かれている”だけなのに、道そのものの長さが狂う。
壁が、脈を打っている――気がした。
石のはずの面が、呼吸みたいにわずかに膨らんで、戻る。
窓のような裂け目がいくつも並び、その奥に、目がある。
数えたら、終わる。
篝の頭の中で、何かがぎし、と鳴った。
視界の端が暗くなる。耳の奥が、じりじり熱くなる。
“見てはいけない”。
喉が勝手に開いて、声が出そうになった。
出したら、壊れる。
自分が、自分のままではいられなくなる。
篝は奥歯を噛みしめた。歯の根が痛い。
そのとき、胸の奥が、ひゅっと引かれるように軽くなった。
軽くなった次の瞬間、温い膜が内側から押さえつけてくる。
肩と背骨が一本の棒でつながれたみたいに固まる。
息が吸えない。
でも、倒れない。
倒れないのが、怖い。
(……なんで、立ってる)
篝の視界の中で、ミカが一度だけ眉を寄せた。
ほんの一拍。迷いみたいな影が浮かんで――すぐ消える。
それが、なぜか篝には分かった。
――あ。
ミカは、いつも通っている。
いつも通っているから、今日も同じように進んでしまった。
そして今、遅れて気づいた。
「……このままだと――」
ミカはそこで言葉を切った。
その続きを、口にしない。
ミカが一歩戻って、篝の腕をつかんだ。
指が沈む。――「見るな」。
リトは、塔のほうを見ない。
見ていないのに、全部知っているみたいに、淡々と歩いている。
篝の足は、張り付いたみたいに動かなかった。
なのに、視線だけが塔のほうへ吸い寄せられていく。
重力が、裏返る。
足裏が浮く。
浮いていないのに、地面が遠い。
「……周防さん」
ミカの声が、近い。
篝は返事の代わりに、喉の奥で空気をひとつ鳴らした。
ミカは、それで十分だと言うみたいに、顔を上げた。
「急ぎます」
それだけ言って、篝の腕を引き、内側へ半歩だけ寄せる。
リトの背が、もう少し篝の前に入る。
塔が、視界から外れない。
外れないまま、角度だけがずれていく。
篝は目を閉じたかった。
けれど閉じたら、内側に「それ」が残る気がした。
だから、まばたきだけで耐えた。
一回、二回、三回。涙が滲む。
そのまま、ミカに腕を取られて、引かれるままに歩いた。
◇
道の脇に、石畳とは違う、丸い石が並んでいる場所があった。
円を描くように埋められていて、目地が不自然に揃っている。
篝はそこへ足を乗せた瞬間、背中のこわばりが、ほんの少しだけ変わった。
ミカが円の内側に立つ。
ランタンの光が、石に落ちて、輪郭だけを浮かせる。
ミカが息を吸って、何かを小さく唱えた。――これは、祈っている?
言葉は聞き取れない。
音としては小さいのに、耳ではなく皮膚に触れる感じがした。
円の中の空気が、すっと薄くなる。
薄くなるのに、圧が増える。
篝は、反射的に指を握り込んだ。
掌が、痛い。
リトが、篝の少し前で立ち止まる。
――遮ってくれている。
ミカが、顔を上げた。
視線をリトに移し、短く告げた。
「……行きます」
篝は頷くしかない。
「……いちばん安全な“外”を選びます」
選ぶ、という言葉が、妙に現実だった。
世界が、棚みたいに並んでいて、そこから取ってくるみたいな言い方。
でも、篝はそれを「変だ」と思う余裕がなかった。
逆さの塔の気配が、まだ目の奥に残っている。
ミカの唇が、もう一度だけ動いた。
円陣の中心が、暗く沈んだ。
沈んだはずなのに、そこだけ薄く明るい。
音が遠のく。
土の匂いが、一気に引く。
その代わり、乾いた風の匂いが、鼻の奥に入ってきた。
篝の足裏の冷たさが、すっとほどける。
重い膜が剥がれるみたいに、肩が落ちた。
息が吸える。
篝は、思わず大きく息を吸って、むせた。
むせた自分の声が、変に近く聞こえる。
目を開ける。
夜は、まだ夜だった。
けれど、夜の“質”が違う。
空は同じ暗さなのに、星が遠い。
代わりに、地面の匂いが、ちゃんと「道」になっている。
踏みしめると、砂と小石が、靴の裏で鳴った。
前方に、細い道が伸びている。
道の両側は草むらで、どこかで虫が鳴いている。
ミカが、篝の顔を一度だけ確かめるように見た。
「……大丈夫ですか」
篝は頷いた。
言葉にしたら、さっきの塔が戻ってきそうで、口を開けたくない。
リトは、すでに歩き出していた。
篝も、つられて歩き出す。
しばらく進んだところで、遠くに、灯りが見えた。
点が、いくつも並んでいる。
揺れているのに、消えない。
街の灯りだ、と篝は思った。
そう思えたことが、胸の奥を少しだけ軽くした。
ミカが、前を見たまま言う。
「……あそこが、館の外です」
篝は、もう一度だけ息を吸った。
湿った土の匂いではなく、乾いた道の匂い。
それが、今の自分にとっての外になる。
遠くの灯りを見つめながら、篝は、喉の奥で小さく息を止めた。




