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悪喰〜消された文書と相続事件〜  作者: 古林 秋一


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9

研究棟の廊下を急ぎながら、胸の奥がざわついているのを自覚していた。


(……信じたくないけど)


 スマホに届いた瑠璃からの短いメッセージ。


《少し、研究室に来てほしい》


 普段なら簡潔であってもどこか軽さがあるのに、今回は違った。

 文面が乾いているのに、逆に湿った緊張が滲んでいた。


 ドアの前に立つ。

 瑠璃は、中にいた。


「……来て、くれたんですね」


 声は平常を装っていた。

 だが、瞳の奥に恐怖の影が見えた。


「どうしたんだよ。メッセージ、何か……ただ事じゃない感じだったけど」


「ええ。……まあ、そうですね。ちょっと、トラブルが起きちゃって…」


 瑠璃は机の端に手を置いたまま、姿勢を崩さない。

 一見冷静。

 けれどその手の指先だけ、ほんの僅かに震えている。


「トラブル? 何があった?」


「——人が、入ってきたんです。さっき、研究室に」


 心臓が嫌な音を立てた。


「は? 鍵かけてなかったのか?」


「いえ、鍵をかけたのは……覚えてます。なのに、気づいたら…後ろにいたんですよ」


 瑠璃の声は淡々としている。

 しかし“気づいたら後ろにいた”のあとだけ、わずかに息が詰まった。


「そいつ、誰だったんだ?」


「私に見覚えはないです。でも……教授でも、学生でもない。黒いコートで、妙に落ち着いた話し方をしている人でした」


 瑠璃は淡く首を振る。


「こちらの質問には答えてくれないのに、私の事を知ってたんですよ。多分……響先輩のことも」


「俺の?」


「ええ。『彼にもよろしく』って言われました」


 ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。


「矢崎、警察に——」


「呼びます。……ただ、今ここでひとりでいたくないんです。」


 淡々と言いながら、微かに唇を噛んだ。


「私……ああいうタイプが一番苦手なんですよ。理屈じゃなくて、ね」


 瑠璃が弱音めいた言葉を吐くのは珍しかった。

 本当に怖いのだとわかる。


「じゃあ、俺が呼ぶ」


「……お願いします。今は先輩の方が、落ち着いて話してくれると思うので」


 淡々と言う。

 でもその声音の奥に、張り詰めた糸のような震えが隠れていた。


 響はスマホを取り出しながら、研究室のドアへ視線を向けた。


(数時間前まで、ここにいたんだよな。“誰か”が)


 喉が乾く。


「すぐ呼ぶ。ひとりで喋らなくていいからな」


「助かります。……本当に」


 瑠璃はわざとらしくない、自然な強がりの笑顔を作った。

 しかしその頬は、わずかに青かった。


響は拳を握りしめた。

(……もう、逃げられない)


南雲夫婦。

謎の男。

そして、このネックレス。


全てが繋がり始めている。


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