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研究棟の廊下を急ぎながら、胸の奥がざわついているのを自覚していた。
(……信じたくないけど)
スマホに届いた瑠璃からの短いメッセージ。
《少し、研究室に来てほしい》
普段なら簡潔であってもどこか軽さがあるのに、今回は違った。
文面が乾いているのに、逆に湿った緊張が滲んでいた。
ドアの前に立つ。
瑠璃は、中にいた。
「……来て、くれたんですね」
声は平常を装っていた。
だが、瞳の奥に恐怖の影が見えた。
「どうしたんだよ。メッセージ、何か……ただ事じゃない感じだったけど」
「ええ。……まあ、そうですね。ちょっと、トラブルが起きちゃって…」
瑠璃は机の端に手を置いたまま、姿勢を崩さない。
一見冷静。
けれどその手の指先だけ、ほんの僅かに震えている。
「トラブル? 何があった?」
「——人が、入ってきたんです。さっき、研究室に」
心臓が嫌な音を立てた。
「は? 鍵かけてなかったのか?」
「いえ、鍵をかけたのは……覚えてます。なのに、気づいたら…後ろにいたんですよ」
瑠璃の声は淡々としている。
しかし“気づいたら後ろにいた”のあとだけ、わずかに息が詰まった。
「そいつ、誰だったんだ?」
「私に見覚えはないです。でも……教授でも、学生でもない。黒いコートで、妙に落ち着いた話し方をしている人でした」
瑠璃は淡く首を振る。
「こちらの質問には答えてくれないのに、私の事を知ってたんですよ。多分……響先輩のことも」
「俺の?」
「ええ。『彼にもよろしく』って言われました」
ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。
「矢崎、警察に——」
「呼びます。……ただ、今ここでひとりでいたくないんです。」
淡々と言いながら、微かに唇を噛んだ。
「私……ああいうタイプが一番苦手なんですよ。理屈じゃなくて、ね」
瑠璃が弱音めいた言葉を吐くのは珍しかった。
本当に怖いのだとわかる。
「じゃあ、俺が呼ぶ」
「……お願いします。今は先輩の方が、落ち着いて話してくれると思うので」
淡々と言う。
でもその声音の奥に、張り詰めた糸のような震えが隠れていた。
響はスマホを取り出しながら、研究室のドアへ視線を向けた。
(数時間前まで、ここにいたんだよな。“誰か”が)
喉が乾く。
「すぐ呼ぶ。ひとりで喋らなくていいからな」
「助かります。……本当に」
瑠璃はわざとらしくない、自然な強がりの笑顔を作った。
しかしその頬は、わずかに青かった。
響は拳を握りしめた。
(……もう、逃げられない)
南雲夫婦。
謎の男。
そして、このネックレス。
全てが繋がり始めている。




