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悪喰〜消された文書と相続事件〜  作者: 古林 秋一


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8/13

8

 ——これで終わり。

 響先輩の件は、もうこれ以上は関わらない。


 そう決めたはずだった。


 研究室の端末を落とし、矢崎瑠璃は鞄を肩に掛ける。

 周囲を見回す―誰もいない。当然だ。

 机の上には返しそびれたコピー用紙。

 折りたたみ、あとで捨てようと引き出しにしまった。


 そのときだった。


 ——かちり。


 ドアの方から、小さな音がした。


 反射的に顔を上げる。

 鍵は、かけた。

 入室後、確かに。


(……空調?)


 自分に言い聞かせるように視線を戻した瞬間、

 研究室の照明が一段、落ちた。


 完全な停電ではない。

 だが、明らかに暗い。


 静かすぎる。


 ——いや。


 静か「だった」のだ。


 背後で、衣擦れの音がした。


 瑠璃は息を呑んだ。

 振り返るより早く、足音があった。

 ゆっくり、遠慮のない歩幅。


 誰かがいる。

 研究室の中に。


「……誰ですか」


 声が、思った以上に掠れた。


 返事はない。


 代わりに、書架の影から人影が現れた。

 白衣ではない。

 学生でも、教職員でもない。

 瑠璃の記憶にはない顔の中年の男。

 まるで夜を煮詰めたような黒いコートが、余計に瑠璃の恐怖を掻き立てた。


「……失礼」


 低い声。

 丁寧で、心に入り込んで来る。


「女性ひとりの時に鍵を掛けないなんて、不用心ですよ」


「……鍵は掛けたはずなんですけどね。」

瑠璃は精一杯強がって返すが、相手は笑わなかった。

 そして、一歩だけ距離を詰めてきた。


「そうでしょうね。

 ですが、開いていたんですよ」


 断定だった。


 瑠璃は後退する。

 机に腿が当たった。


「もしかして、」


「ええ、お聞きしていますよ」


 男は、初めて視線を動かした。

 引き出しの位置。

 瑠璃が紙をしまった場所。


「ですので、書類の事は、もう結構です」


 ——“調べなくていい”じゃない。

 “終わっている”。


 その言い方が、

 異様に引っかかった。


「ただ……」


 一歩、また一歩。


「あなたが、どこまで気づいたかだけ、

 確認できれば、と思いましてね」


 心臓が大きく跳ねた。


(……この人、最初から知ってる)


 瑠璃は咄嗟に、研究室の非常ボタンへ視線を走らせた。


 男の口元が、わずかに歪む。


「無理ですよ。

 それ、今押しても無駄ですよ」


 理由も、説明もない。


 ただ、“どうぞ試してご覧なさい”という態度だけ。


 沈黙が落ちた。


 やがて、男はゆっくりと後退した。


「怖がらせてしまったみたいですが。今日は、ご挨拶にと思っただけです。ええ、本当に」


 ドアの前で立ち止まり、振り返る。


「——忘れてください。

 あなたは、もう十分“賢い”」

「彼にも、よろしくお伝えください」

 (……もしかして響先輩のこと……?)

 次の瞬間、

 男は何事もなかったように廊下へ消えた。


 ドアが閉まる音だけが残る。


 しばらくして、

 瑠璃は膝から力が抜け、その場に座り込んだ。


 鍵は——

 しっかりとかかっていた。


(……じゃあ、どうやって)


 考えたくなかった。


 これは偶然じゃない。

 でも、事件として扱うには何かが欠けている。


 ——証拠も、理由も、説明も。


 ただ一つ確かなのは。


(……もう、戻れない)

 安全だと思っていた日常。

 線は、向こうから踏み越えられた。

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