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——これで終わり。
響先輩の件は、もうこれ以上は関わらない。
そう決めたはずだった。
研究室の端末を落とし、矢崎瑠璃は鞄を肩に掛ける。
周囲を見回す―誰もいない。当然だ。
机の上には返しそびれたコピー用紙。
折りたたみ、あとで捨てようと引き出しにしまった。
そのときだった。
——かちり。
ドアの方から、小さな音がした。
反射的に顔を上げる。
鍵は、かけた。
入室後、確かに。
(……空調?)
自分に言い聞かせるように視線を戻した瞬間、
研究室の照明が一段、落ちた。
完全な停電ではない。
だが、明らかに暗い。
静かすぎる。
——いや。
静か「だった」のだ。
背後で、衣擦れの音がした。
瑠璃は息を呑んだ。
振り返るより早く、足音があった。
ゆっくり、遠慮のない歩幅。
誰かがいる。
研究室の中に。
「……誰ですか」
声が、思った以上に掠れた。
返事はない。
代わりに、書架の影から人影が現れた。
白衣ではない。
学生でも、教職員でもない。
瑠璃の記憶にはない顔の中年の男。
まるで夜を煮詰めたような黒いコートが、余計に瑠璃の恐怖を掻き立てた。
「……失礼」
低い声。
丁寧で、心に入り込んで来る。
「女性ひとりの時に鍵を掛けないなんて、不用心ですよ」
「……鍵は掛けたはずなんですけどね。」
瑠璃は精一杯強がって返すが、相手は笑わなかった。
そして、一歩だけ距離を詰めてきた。
「そうでしょうね。
ですが、開いていたんですよ」
断定だった。
瑠璃は後退する。
机に腿が当たった。
「もしかして、」
「ええ、お聞きしていますよ」
男は、初めて視線を動かした。
引き出しの位置。
瑠璃が紙をしまった場所。
「ですので、書類の事は、もう結構です」
——“調べなくていい”じゃない。
“終わっている”。
その言い方が、
異様に引っかかった。
「ただ……」
一歩、また一歩。
「あなたが、どこまで気づいたかだけ、
確認できれば、と思いましてね」
心臓が大きく跳ねた。
(……この人、最初から知ってる)
瑠璃は咄嗟に、研究室の非常ボタンへ視線を走らせた。
男の口元が、わずかに歪む。
「無理ですよ。
それ、今押しても無駄ですよ」
理由も、説明もない。
ただ、“どうぞ試してご覧なさい”という態度だけ。
沈黙が落ちた。
やがて、男はゆっくりと後退した。
「怖がらせてしまったみたいですが。今日は、ご挨拶にと思っただけです。ええ、本当に」
ドアの前で立ち止まり、振り返る。
「——忘れてください。
あなたは、もう十分“賢い”」
「彼にも、よろしくお伝えください」
(……もしかして響先輩のこと……?)
次の瞬間、
男は何事もなかったように廊下へ消えた。
ドアが閉まる音だけが残る。
しばらくして、
瑠璃は膝から力が抜け、その場に座り込んだ。
鍵は——
しっかりとかかっていた。
(……じゃあ、どうやって)
考えたくなかった。
これは偶然じゃない。
でも、事件として扱うには何かが欠けている。
——証拠も、理由も、説明も。
ただ一つ確かなのは。
(……もう、戻れない)
安全だと思っていた日常。
線は、向こうから踏み越えられた。




