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悪喰〜消された文書と相続事件〜  作者: 古林 秋一


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12

夜景を見下ろす窓辺で、男は静かにコーヒーを置いた。


 砂糖もミルクも入れていない。

 苦味だけが、口の中に残る。


「……少し、騒がしくなってきましたね」


背後で、部下らしき男の声が応じる。


「警察が動き始めました」


「ええ。ただし、まだ“表”だけです」


 男は微笑んだ。


「矢崎瑠璃。彼女は賢い。だからこそ、線を引こうとした」

「そして嘉神響。無自覚だが、中心に立っている」


 名前を口にする声音は、評価そのものだった。


「例の指輪は?」


「問題ありません。反応は想定内です」


 男は窓に映る自分の影を見つめる。


「——むしろ、良い兆候ですね」


あの学生の万引き衝動。

誰かの"悪意"が消えた。

それは、彼にとって単なる"結果"だった。


「南雲夫妻は?」


「まだ使えます。土地欲しさに動いてくれる。

彼らには、指輪の真の価値など理解できませんからね」


男は満足そうに頷いた。


「表に立たせるには、ちょうどいい」


 男は指先で、机の上の書類を一枚ずらした。


 そこにあるのは、古い土地の図面と、名前の消された登記。


「警察が近づけば、彼らは焦る」

「焦れば、必ず“選択”せざるをえない」


 選択をした者から、順に落ちていく。

それが、この仕組みだ。

「……彼らは、気づくと思いますか」


「いいえ」


 即答だった。


「気づかせる気はありませんからね」


男はコートを手に取る。


「報告はもう結構です」


部下が静かに退室する。


独りになった男は、窓の外を見つめた。


「線は、もうこちらから越えた」

「次は――彼らが、真相に気づく番だ」


静かに、夜が動き出していた。



――同じ夜

南雲啓一は、車のエンジンを切らずにハンドルを握ったまま、嘉神家の窓を見上げていた。


 灯りは、まだ消えていない。

「……泊めてるわね」


助手席で、吉乃が静かに言う。

感情を抑えた声だが、そこに滲む苛立ちは隠せていなかった。


「窓の明かりが二つ。女の影も見えた」


「ああ」


 啓一は短く答える。


 想定内だ。

 研究室の件があれば、そうなる。

 むしろ——そう仕向けられている。


「警察も、動いたみたいよ」


「だろうな」


 昨夜から、空気が変わっている。

 近所の視線。大学周辺の様子。

 “見られている”感覚は、確かにある。


 だが——。


「まだ、境界線まで来てない」


 啓一はそう言って、フロントガラス越しに夜を睨んだ。


「向こうは様子見だ。表向きは偶発的侵入。

 本気なら、もう少し踏み込んでる」


「……あなた、落ち着いてるわね」


 吉乃が横目で見る。


「怖くないの?」


 啓一は、ふっと笑った。


「怖いさ。だから、慎重に動く」


 ——あの男の顔が、脳裏をよぎる。


 研究室に入った“黒いコートの男”。


 自分たちより、はるかに深い場所を知っている目。

 そして、こちらを“使う前提”で話してきた声音。


「俺たちは、主役じゃない」


 啓一は低く言った。


「舞台を整える役だ。

 目立って、疑われて、必要なら切られる」


 それでも。


「……それでも、引くわけにはいかない」


 吉乃が、静かに息を吸う。


「土地さえ手に入れば、後は売り払うだけ。

それなのに、あの男は指輪まで要求してくるのね」


吉乃の声に、わずかな不満が滲む。


「仕方ないだろ。あれがないと、話が進まない」


「……指輪なんて、何に使うのかしら」


「知らん。俺たちには関係ない」


啓一は冷たく言い切った。


「土地を手に入れる。それだけだ」



 啓一はハンドルから手を離し、指を組んだ。


「嘉神響は、まだ何も分かってない。

 矢崎瑠璃も、怖がって線を引こうとしてる」


「だからこそ、厄介」


「だからこそ、手放せない」


 言い切った瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。


 ——“価値”。


 その言葉を、あの男も使っていた。


「……ねえ、啓一」


 吉乃が、珍しく声を落とす。


「私たち、どこまで知ってるのかしら」


 啓一は、答えなかった。


 知っていることと、知らされていないこと。

 その境界が、最近ひどく曖昧だ。


「警察が本気になれば、私たちが最初に疑われる」


「分かってる」


「それでも?」


「それでも、だ」


 啓一はドアミラーに映る自分の目を見た。

 そこにあるのは、覚悟か、それとも諦めか。


「もう、線は踏み越えている」


 誰かが言っていた言葉を、心の中でなぞる。


「……戻れないわね」


「最初から、戻る道なんてなかったさ」


 啓一はアクセルを踏み、車を走らせた。


 嘉神家の灯りが、ゆっくりと遠ざかる。


 その奥で動いている“本当の視線”に、

 南雲夫妻は、まだ気づいていなかった。


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