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夜。
キッチンの電気だけが点いている。
「……すみません、先輩」
瑠璃はマグカップを両手で包みながら言った。
「泊まることになるなんて」
「いいよ。放っておける状況じゃないし」
瑠璃は小さく頷く。
「……大丈夫です」
「怖くない、とは言いませんけど」
淡々とした声。
感情を削ぎ落としたような話し方。
「研究室で、ああいうことは……初めてです」
少し間を置いて、ぽつりと続ける。
「でも、泣いたり取り乱したりするほどじゃ……」
響はそれ以上、何も言わなかった。
無理に踏み込めば、崩れると分かっていたからだ。
「風呂、先に入っていいぞ」
「……ありがとうございます」
瑠璃が立ち上がる。
すれ違いざま、ほんの一瞬だけ、袖を掴まれた。
「……先輩」
「ん?」
「……覗かないで下さいよ。一応」
「馬鹿言ってないで、早く入れ」
「ふふ…冗談ですよ」
それだけ言って、瑠璃は離れた。
………
朝の台所は、まだ完全に目が覚めきっていなかった。
湯気の立つマグカップを前に、響はスマホを弄りながらパンをかじっている。
向かいの椅子では、瑠璃が静かにコーヒーを飲んでいた。響が貸したTシャツとスウェットパンツ姿。
昨日の緊張を引きずっているはずなのに、表情は不思議なほど平坦だ。
「……先輩」
「ん?」
「昨日のこと、やっぱり……大学には、私からも連絡入れておきます」
声は淡々としている。
だが、カップを持つ指先が、ほんの少しだけ強張っていた。
「無理しなくていい。警察もすぐ動くだろ」
「……はい」
そこで、スマホが震えた。
知らない番号。
「……警察か?」
響がそう呟きながら通話に出てスピーカーモードにした。
「はい、嘉神です」
『突然失礼します。警視庁の者です。昨日、大学構内の不審侵入について通報があった件なのですが』
声は落ち着いている。
事務的だが、どこか探るような間があった。
「はい。研究室に侵入された件ですね」
『ええ。詳しい状況を改めて伺いたいと思いまして。
この後、昨日担当した遠藤と鹿島が、大学の研究室へ伺ってもよろしいでしょうか』
瑠璃が、わずかに顔を上げた。
響は一瞬だけ考え、答える。
「分かりました。矢崎……本人も同席します」
『ありがとうございます。では、午後一時頃に』
通話が切れる。
しばし、朝の生活音だけが戻った。
「……午後一時、ですか」
瑠璃がぽつりと言った。
「気になるか?」
「いえ。ただ……思ったより、大事になったなと」
その言い方は冷静だ。
けれど、“安心”よりも“警戒”が滲んでいる。
響はコーヒーを一口飲み、言った。
「まだ偶然の線だろ。侵入が一回、証拠も薄い」
「……ですね」
そう答えながら、瑠璃は視線を落とす。
——でも、あの男は偶然じゃない。
口には出さない。
出せば、線を引き返せなくなる気がした。
「先輩」
「ん?」
「今日も……一緒に、着いてきてもらってもいいですか?」
ほんの一瞬だけ、声が揺れた。
「ああ。もちろん」
その返事に、瑠璃は小さく頷いた。
簡単な朝食を終えた頃、インターホンが鳴った。
響は時計を見る。まだ朝の八時半だ。
画面に映った顔を見て、響は舌打ちしそうになる。
南雲啓一と吉乃。
「……朝から来るのか」
瑠璃は何も言わず、ただ一歩、響の後ろに下がった。
インターホン越しに、啓一の声。
『おはようございます、嘉神さん。
昨日は突然で、すみませんでした』
続いて、吉乃。
『お話しできなかったのが、どうにも心残りで』
その声は相変わらず柔らかい。
だが、響には分かる。
これは確認だ。探りだ。
「今日は用件は?」
『ほんのご挨拶です。
……それと、昨夜は少し騒がしかったようですね』
空気が、張りつめた。
(……なぜ知っている?)
響の背筋に冷たいものが走る。
――警察の動きも、研究室の件も、
どこかで「見られている」。
そして、この夫婦はそれを“知っている”のだ。
響はインターホンを切らず、静かに答えた。
「すぐに出る用事があるので。用があるなら、改めて連絡してください」
一拍。
『……ところで、昨夜のことはもう解決されたんですか?』
吉乃の声が、わずかに踏み込んでくる。
「何のことでしょうか」
響は感情を消して答えた。
『……いえ、何でもありません。では、また』
素直すぎるほど、あっさり引いた。
画面から二人が消える。
瑠璃が、ぽつりと言った。
「……先輩」
「ん?」
「今のは完全に探って来てましたよね…」
響は、ネックレスの感触を胸元で確かめながら答えた。
「ああ。
でも――こっちも、黙ってやられる気はない」




