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光の種

作者: 久遠 睦

第一部 灰色の迷宮


第一章 出せなかったエントリーシート


三月の終わりの空気は、まだ冬の気配を色濃く残していた。高田馬場のワンルームマンションで、結奈ゆなは液晶画面の白い光を浴びていた。画面には、大手総合商社のエントリーシート(ES)が開かれている。「リーダーシップを発揮した経験を教えてください」「あなたの最大の強みは何ですか」。ありふれた問いが、乗り越えられない壁のように聳え立っていた。点滅するカーソルが、結奈の心臓の鼓動と重なる。もう何時間、この画面と向き合っているだろうか。

大学三年生の三月、就職活動は本格化する 。政府主導のスケジュールでは、三月一日に採用情報が公開され、本選考のエントリーが開始されるのだ 。周りの友人たちは、とっくに何十社ものESを提出し、ウェブテスト対策に勤しみ、面接練習に明け暮れていた。六月には多くの学生が内々定を得るという現実が、結奈の肩に重くのしかかる 。

文学部で日本近代文学を専攻した四年間は、結奈にとって誇りだった。言葉の裏にある機微を読み解き、行間に潜む作者の魂に触れる時間は、何物にも代えがたい喜びだった。しかし、就職活動という市場において、その経験は「実務に直結しない教養」というレッテルを貼られているように感じた 。面接官が文学部の学生に抱きがちな「ビジネス感覚がなさそう」「数字に弱そう」というイメージを、どうすれば払拭できるのか 。考えれば考えるほど、指が動かなくなった。

クローゼットの扉を開けると、一着だけ吊るされた黒いリクルートスーツが目に映る。まるで喪服のようだ、と結奈は思った。個性を殺し、誰もが同じ格好で同じような言葉を語る。その均質化されたプロセスが、創造性とは対極にある個性の抑圧を強いているように思えてならなかった。このスーツを着て、心のこもらない言葉を並べることが、社会人になるということなのだろうか。

昨年の冬に参加したインターンシップの記憶が蘇る。十二月から二月にかけて開催される冬期インターンシップは、本選考への足がかりとして重要だった 。結奈が参加したのは、ある広告代理店のグループディスカッションだった。提示されたビジネスケーススタディに対し、他の学生たちが淀みなく専門用語を交えて意見を戦わせる中、結奈は一言も発せなかった。彼女の頭に浮かぶのは、もっと多角的で、複雑で、すぐには答えの出ない問いばかりだった。効率と成果が求められる場で、彼女の思考はノイズでしかなかった 。

「文学部だから就職できない、なんてことはない」。大学のキャリアセンターの職員はそう言った。実際、文学部の就職率は他学部と大差ないというデータもある 。しかし、問題は数字ではない。自分という人間を、この四角い入力フォームの中にどう押し込めばいいのかが、どうしても分からなかった。それは能力の問題というより、魂の在り方の問題だった。カーソルがまた一つ点滅する。結奈は静かにノートパソコンを閉じた。提出期限は、もう過ぎていた。


第二章 埃の中の色彩


週末、結奈は実家に戻っていた。就活の喧騒から逃れるように、中央線の電車に揺られた。母親に頼まれたのは、もう何年も使っていない自分の部屋の片付けだった。懐かしい匂いのする部屋で、ベッドの下から埃をかぶったポートフォリオケースを見つけ出す。

開いた瞬間、古い紙と油絵具の匂いが鼻をついた。高校時代のスケッチブックだった。ページをめくるたびに、鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。通学路の風景、友人の横顔、心象風景を描いた抽象的なドローイング。そこには、何にも縛られず、ただ描きたいという衝動だけで動いていた自分がいた。ケースの底には、固くなった油絵具のチューブと、毛先がばらばらになった筆が数本入っていた。亜麻仁油の独特な香りが、創作に没頭していた時の、あの満ち足りた感覚を鮮明に呼び覚ます。それは、ESの無機質な問いと向き合っていた時間とは、まったく質の違うものだった。

一冊のスケッチブックの最後に、一枚だけ丁寧に描かれた絵があった。鬱蒼とした森の中に、一本の細い道が続き、その先に強い光が差し込んでいる構図だ。高校の美術展で小さな賞をもらったその絵のタイトルを、結奈ははっきりと覚えていた。「道」。あの頃は、自分の未来が光に満ちていると信じて疑わなかった。長い間眠っていた情熱という名の「種」が、心の奥で微かに疼くのを感じた 。

この発見は、就職活動で求められる「自己分析」とはまったく異なる、本質的な自己との再会だった 。企業に自分を売り込むための長所や短所を探すのではなく、自分が何に心を動かされ、何に喜びを感じるのかという、根源的なアイデンティティを思い出す作業。それは、埃を払い、失われた色彩を取り戻すような行為だった。

「絵、まだ描いてるの?」 夕食の時、母親が何気なく尋ねた。 「ううん、全然」 結奈は短く答えた。しかし、その夜、彼女は自分の部屋で、久しぶりに鉛筆を握り、スケッチブックの余白に光の射す森の絵をもう一度描いてみた。線は拙く、陰影はぎこちなかったが、何かが満たされていく感覚があった。


第三章 もうひとつの探し方


東京の部屋に戻った結奈は、再びノートパソコンを開いた。しかし、彼女がアクセスしたのは、就職情報サイトではなかった。検索窓に打ち込んだのは「アート」「企画」「会社」というキーワードだった。

大手美術館のウェブサイトは、どれも格式高く、学術的な雰囲気が漂っていた。学芸員になるには、専門の資格や大学院での研究が必要で、今から目指すにはあまりにも道が遠い 。諦めかけたその時、検索結果の片隅に、小さな会社の名前を見つけた。「ギャラリー・エクラ」。

そのウェブサイトは、他のどの企業とも違っていた。ミニマルなデザインで、掲載されているのは無名のアーティストに関する深い洞察に満ちたエッセイや、展覧会のコンセプトを綴った文章ばかりだった。それは単なる画廊ではなく、アーティストを発掘し、展覧会を企画・プロデュースし、時にはアーティストの活動そのものを支援する、総合的なアートプロデュース会社らしかった 。事業内容は、展覧会の企画立案から、図録の制作、美術品の販売まで多岐にわたっていた 。

結奈の心を捉えたのは、「採用情報」のページだった。そこには、履歴書の送付先も、エントリーフォームもなかった。ただ、こう書かれていただけだ。 「あなたの人生を変えたアート作品について、エッセイをお送りください」

それは、結奈がこれまで受けてきた就職活動の常識を覆すものだった。規格化された問いではなく、個人の感性と経験そのものを問うている。結奈は、高校時代に描いた「道」の絵を思い出した。そして、その絵を描くきっかけになった、ある一枚の風景画について書き始めた。言葉が、自然と溢れ出てくる。それは、ESに書こうとしていた借り物の言葉ではなく、紛れもなく自分自身の言葉だった。

彼女の検索方法は、いつの間にか変わっていた。大手就職サイトで何十社にもエントリーするような、網羅的で効率的なアプローチではない。自分の心が共鳴する場所を、直感と感性を頼りに探し出す、深く個人的な探求だった。ギャラリー・エクラの型破りな応募方法は、まさにそのような資質を持つ人間を見つけ出すための、巧みなフィルターとして機能しているのかもしれない。結奈は、書き上げたエッセイを、震える指で送信した。


第二部 街角の出会い


第四章 面接


数日後、結奈は銀座の小さなビルにあるギャラリー・エクラのオフィスを訪れていた。面接官は、落ち着いた物腰の初老の男性ディレクターだった。机の上には、結奈が送ったエッセイが置かれている。

「拝見しました。非常に興味深い視点ですね」

ディレクターの質問は、結奈が予想していたものとは全く違っていた。「自己PRをしてください」でも「ガクチカは?」でもない。 「商業主義が席巻するこの世界で、なぜアートは必要だと思いますか?」 「もし予算が無制限にあるとしたら、どんなテーマの展覧会を企画しますか?」 「最後にアート作品を見て、涙を流したのはいつですか?」

用意してきた答えは、何一つ役に立たなかった。最初は戸惑い、言葉に詰まった。しかし、ディレクターの真摯な眼差しに見つめられているうちに、結奈は腹を括った。文学部で培った思考力と、埃の中から見つけ出したアートへの情熱。それらを総動員して、自分の言葉で語り始めた。物語ることの重要性、感情を揺さぶる美の力、人間が本質的にそれを必要としていること。話しているうちに、自分が解放されていくのを感じた。

面接を終えた時、結奈は手応えを感じられなかった。うまく話せただろうか。ビジネスの視点が欠けていたのではないか。しかし同時に、奇妙なほどの爽快感があった。初めて、就職活動の場で「本当の自分」でいることを許された気がした。この会社は、候補者のスキルではなく、その人間の持つ世界観そのものを見ようとしている。それは、一般的な企業が求める「ビジネス資本」ではなく、深い教養や感性といった「文化資本」を評価する、独自の採用哲学に基づいているようだった。

「最終面接に進んでいただきます。日程は後日ご連絡します」

ディレクターの言葉に、結奈は深く頭を下げた。ビルの外に出ると、銀座の午後の光が眩しかった。


第五章 雨とキャンバスの夜


最終面接の前夜、東京は冷たい雨に濡れていた。期待と不安が入り混じった気持ちを抱え、結奈はあてもなく夜の街を彷徨っていた。足は自然と、昼間とは違う顔を見せる銀座の裏通りへと向かっていた。高級ブティックや画廊が並ぶ華やかな表通りから一本入ると、そこは静寂に包まれていた 。

閉まったシャッターが並ぶ通りの一角、小さな店の軒下で、結奈は足を止めた。一人の女性が、地面に広げた布の上に、何枚かの小さな絵を並べて売っていた。降りかかる雨から作品を守るように、粗末なビニールシートが張られている。年の頃は四十代か五十代。着古した作業着のようなシンプルな服を着て、静かに道行く人々を眺めている。ほとんどの人は、彼女に目もくれずに通り過ぎていく。

しかし、結奈はその絵に釘付けになった。激しい筆致で描かれた、抽象的な色彩の塊。それは、悲しみや怒り、そしてその奥にある微かな希望のようなものを感じさせた。理屈ではなく、魂を直接揺さぶられるような感覚。結奈は吸い寄せられるように、その場にしゃがみこんだ。

「……すごい、ですね」 声をかけると、女性はゆっくりと結奈に視線を向けた。深く、すべてを見透かすような瞳だった。 「わかる?」 短い言葉だったが、その声には不思議な温かみがあった。

彼女は「レン」とだけ名乗った。二人は、キャリアや就職活動の話は一切しなかった。ただ、アートについて語り合った。なぜ人は描かずにはいられないのか。誰にも理解されなくても、表現し続けることの意味。そして、本当に美しいものを作り上げた時の、静かな喜びについて。レンの言葉は、簡潔でありながら核心を突いていた。結奈は、これまで誰にも感じたことのない、魂のレベルでの師事と共感を覚えていた。

この出会いは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。レンはまるで、ギャラリーの壁という権威を剥ぎ取られた状態で、自分の作品の価値を真に理解できる人間を探しているようだった。彼女は客を探しているのではなく、同志を探しているのだ。結奈は、雨の冷たさも忘れ、ただレンの言葉と、彼女の描いた絵が放つ熱に引き込まれていた。


第六章 光の中の女性


翌日、結奈は再びギャラリー・エクラのオフィスにいた。最終面接の会場は、柔らかな自然光が満ちる、静謐な空間だった。奥の部屋に通されると、窓を背にして一人の女性が立っていた。逆光で顔ははっきりと見えなかったが、その佇まいには圧倒的な存在感があった。

女性がゆっくりと振り返る。結奈は息を呑んだ。 昨夜、雨の銀座の路上で出会った、レンその人だった。

「昨日は、ありがとう」 レンは静かに微笑んだ。ディレクターが、結奈に紹介する。 「こちらが、当社の代表であり、画家のアサクラ・レンです」

アサクラ・レン。その名前には聞き覚えがあった。十年以上前に彗星のように現れ、国内外で絶大な評価を得ながら、ある時期を境に忽然と表舞台から姿を消した、伝説的な画家。その彼女が、このギャラリーの創設者だったのだ 。

レンは、ゆっくりと語り始めた。 「私たちの採用選考は、たった一つのことを見つけるためにデザインされています。それは、値札ではなくアートそのものを、ブランドではなくアーティストそのものを見ることができる人です」 彼女の視線が、まっすぐに結奈を射抜く。 「昨夜、あなたは雨の中で絵を売る貧しい女を見たわけじゃない。絵の具の中にある光を見た。それは、どんなビジネススキルよりも稀有な才能よ」

アサクラ・レンは、自ら路上に立つことで、最終試験を行っていたのだ。それは、好奇心、共感、そして磨かれていない才能を見抜く「眼」を試す、オフィスでは決してできない面接だった。結奈は、知らず知らずのうちに、その最も重要な試験に合格していた。

「あなたを採用します。結奈さん」

レンの言葉が、光に満ちた部屋に静かに響いた。それは、結奈の人生が、灰色から色彩へと変わる瞬間だった。


第三部 キャンバスを育む


第七章 アートの文法


ギャラリー・エクラでの日々は、目まぐるしい学習の連続だった。結奈の仕事は、アートプロデューサーの見習いとして、展覧会に関わるあらゆる業務をこなすことだった 。

ある時は、海外から輸送される繊細な彫刻作品のために、国際輸送業者と神経をすり減らしながら調整を行った 。またある時は、展覧会の予算管理を任され、限られた資金の中で最大限の効果を生み出すためのコスト計算に頭を悩ませた 。気難しいアーティストと現実的な会場オーナーとの間で、板挟みになりながらも、双方の意見を調整し、プロジェクトを円滑に進めることも重要な仕事だった 。

彼女が最も力を入れたのは、展覧会のプレスリリースや解説文の執筆だった。ここで、文学部で培った能力が思わぬ形で開花した。言葉を尽くして作品の魂を捉え、アーティストの意図を汲み取り、それを鑑賞者に伝える文章を書く。それは、詩を読み解く行為にも似ていた 。彼女の書く文章は、単なる説明ではなく、それ自体が鑑賞体験の一部となるような深みを持っていた。

アサクラ・レンは、結奈の直属の上司であり、最高の師だった。彼女は、ビジネスのノウハウだけでなく、アート界の「文法」を叩き込んだ。アーティストとの対話の仕方、コレクターの心を読む方法、批評家を唸らせる言葉の選び方。それらは、マニュアル化できない、経験と感性に基づいた生きた知恵だった。

結奈は、自分の「役に立たない」と思っていた学問が、実はこの世界で最も人間的な、そして最も重要な部分を担うための完璧な訓練であったことに気づき始めていた。アートという、感情や思想といった目に見えない価値を扱う世界では、論理的な思考力と同じくらい、行間を読む共感力や、物事の本質を的確な言葉で表現する能力が不可欠だったのだ。


第八章 デジタルな火花


入社して数年が経ち、結奈はアートプロデューサーとして独り立ちし始めていた。ある雨の夜、次の企画のリサーチのために、海外のアートフォーラムやSNSを漫然と眺めていた時のことだ。

彼女は、東欧の小国から発信されている、ほとんどフォローもされていない匿名のアーティストアカウントに偶然たどり着いた 。そこに投稿されていたのは、数十枚の絵画の写真だった。古典的な油彩の技術を使いながら、描かれているのは現代社会の孤独やデジタル時代の疎外感といった、生々しく、暗く、そして息を呑むほど独創的なテーマだった。

その絵を見た瞬間、結奈の全身に電気が走った。それは、数年前に雨の銀座でレンの絵を見た時とまったく同じ衝撃だった。無名だが、本物だ。ここには、まだ誰にも発見されていない、途方もない才能が眠っている 。

この発見は、幸運だけがもたらしたものではなかった。伝統的なキュレーターが足を運ぶような画廊やアトリエではなく、膨大な情報が溢れるデジタルの海の中から、真の才能という信号を拾い上げる。それは、アートへの深い理解と、現代のデジタルツールを使いこなす能力の両方を兼ね備えた、新しい世代のキュレーターだからこそ可能な「発掘」だった。結奈は、この無名の画家の名前「ラース」を、心に刻み込んだ。


第九章 壮大な計画


結奈は、ラースという画家について徹底的に調べ始めた。オンラインの翻訳ツールを駆使して、現地の言葉で書かれた数少ないレビュー記事を読み解き、彼の作品世界の背景を探った。数週間後、彼女はアサクラ・レンの前に、分厚い企画書を携えて立っていた。

「ラースの個展を、日本で開かせてください」

情熱と、緻密なリサーチに裏打ちされたプレゼンテーションだった。しかし、レンの表情は厳しかった。ラースは、ヨーロッパの片隅で活動する、まったく無名の新人。彼を日本に招聘し、個展を開くには、輸送費、保険、契約交渉など、膨大な手間と費用がかかる 。小さなギャラリー・エクラにとって、そのリスクは計り知れない。

「なぜ、彼なの?」「この投資に見合うだけの価値が、本当にあると証明できる?」

レンは、結奈の覚悟を試すように、次々と厳しい質問を浴びせた。しかし、結奈は一歩も引かなかった。初めての面接の時のように、自分の感性と分析を信じ、誠実な言葉で彼の作品の重要性を訴えた。

長い沈黙の後、レンはふっと表情を和らげ、微笑んだ。 「わかったわ。やりなさい。このプロジェクトは、すべてあなたに任せます」

それは、レンが結奈にかける最大の信頼の証だった。弟子が、師の哲学を継承し、自らの「眼」で新たな才能を発掘する。その瞬間を、レンはずっと待っていたのかもしれない。結奈は、見習いから、真のアートプロデューサーへと羽ばたく時を迎えたのだ。

プロジェクトは困難を極めた。ラース本人にコンタクトを取ると、彼は当初、国際的な詐欺を疑い、ひどく警戒した。言葉の壁を乗り越え、何度も対話を重ねて信頼関係を築き、ようやく契約にこぎつけた。巨大なキャンバスを傷一つなく空輸するための手配、展覧会全体の空間デザイン、広報戦略の立案。すべてが、結奈の双肩にかかっていた。


第十章 ヴェールを脱ぐ


展覧会のタイトルは「光の種」と名付けられた。ラースの描く深い闇の中に、常に感じられた希望の萌芽を表現したかったからだ。

オープニングの日、会場を訪れたのは、少数の批評家と美術学生がほとんどだった。ラースの作品は、あまりにも挑戦的で、すぐには買い手がつかなかった。結奈の心に、焦りと不安が暗い影を落とす。

しかし、展覧会が始まって数日後、事態は劇的に変わる。ヨーロッパから、一本のニュースが飛び込んできたのだ。ラースが、若手アーティストの登竜門として知られる国際的な美術賞「ルクセンブルク・アートプライズ」を授与されたというのだ 。

アート界は騒然となった。誰も知らなかった無名の画家が、突如として世界の注目を浴びたのだ。そして、彼の作品をまとめて見ることができるのは、世界で唯一、東京の小さなギャラリー・エクラだけだった。

翌日から、ギャラリーには人々が殺到した。国内外のコレクター、美術館のキュレーター、テレビカメラ。電話は鳴り止まず、作品には次々と買い手がついた。展覧会は、批評的にも商業的にも、空前の大成功を収めた。

喧騒に満ちたギャラリーの片隅で、結奈とレンは静かに立っていた。二人は言葉を交わさず、ただ、深く満ち足りた表情で視線を交わした。結奈の「眼」が正しかったことが、世界によって証明された瞬間だった。しかし、その成功は、賞という外部からの評価によってもたらされたものではない。価値は、最初からラースの作品の中に存在していた。結奈は、ただ誰よりも早く、それを見つけ出したに過ぎない。世界が、ようやくその真実に追いついてきたのだ。


エピローグ これからの道


第十一章 演壇からの眺め


あれから、十年が経った。結奈は、ギャラリー・エクラのディレクターとして、数々のプロジェクトを成功に導いていた。その日、彼女は母校の大学に招かれ、就職活動を控えた学生たちのためのセミナーで演壇に立っていた。

目の前に広がるのは、かつての自分と同じ、黒いリクルートスーツに身を包んだ学生たちの海だった。彼らの瞳に宿る、野心と不安が入り混じった光を見て、結奈は用意してきた原稿を静かに脇に置いた。そして、自らの言葉で語り始めた。

灰色の迷宮を彷徨った就職活動の日々。埃まみれのスケッチブックとの再会。雨の銀座での、運命的な出会い。彼女は、自分の物語を、ありのままに語った 。

「皆さんが探している本当の道は、世界が何を求めているかを見つめることでは見つかりません。自分がずっと何を愛してきたかを思い出すことで、見つかるものです」

結奈の声が、静まり返った講堂に響く。

「一番大切なものは、もう皆さんの心の中にあります。それは、まるで一つの『種』のように。ほんの少しの『光』が当たるのを、ずっと待っているんです」

語り終えた結奈の視線が、最前列に座る一人の女子学生と交わった。彼女は、メモを取る手を止め、ただじっと結奈を見つめていた。その瞳の奥に、何かに気づいたような、認識の光がまたたくのが見えた。

結奈は、静かに微笑んだ。かつてレンが自分にしてくれたように、今度は自分が、次の世代へとバトンを渡す番なのだ。光の種は、こうして受け継がれていく。結奈の心には、これから続いていくであろう、新たな物語への確かな予感が満ちていた。


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