第二章 3.観測の断層
零課オフィス ― “再現される声”
夜。零課。
慧がデータを整理している。
桜は隣の仮眠室で眠っている。
モニターが突然ノイズを吐く。
聞き覚えのある“男の声”が再生される。
「……まだ終わってないだろう?」
慧の手が止まる。
慧
「……藤村遼。
お前は……完全に消したはずだ。」
ノイズの中から、微かに笑う声。
「だから言ったろう。“忘れられない”って。」
同時に、仮眠室で桜がうなされる。
桜
「……やめて………入ってこないで……!」
慧が駆け寄る。
桜のこめかみに、微かに黒い“記憶構文痕”が浮かんでいた。
侵食の始まり ― “他人の記憶が混ざる”
翌朝。
桜は覚醒するが、どこか様子がおかしい。
会話の途中で、時折“慧を別の名前で呼ぶ”。
桜
「……遼、今の解析結果、見せて。」
慧
「今、なんて言った?」
桜
「……え? けい、だよね……?」
慧が静かに端末を操作する。
モニターに桜の記憶パターンが映し出される。
そこには、藤村の脳波パターンと一致する波形。
慧
「……完全に“記憶融合”が始まってる。
お前の中で、藤村遼が“自分の存在”を再構築してる。」
桜
「どうして私の中に? 私、あの事件の時は……」
慧
「“観測者”だった。
お前が藤村を視認した瞬間、彼の“構文情報”が脳に残留したんだろう。
消滅の瞬間の“存在記録”――それが、今再生されたんだ。」
桜
「つまり、あの人は……私を使って、生きようとしてる。」
残響との会話 ― “消えたくない理由”
零課の観測装置。
慧が桜の意識にリンクして、藤村の意識構文を“可視化”する。
暗闇の中、藤村遼が立っていた。
慧
「藤村遼。
お前はなぜ戻った? “消えること”を拒む理由はなんだ。」
藤村
「拒んでる? 違う。俺は“生きたい”んだよ。
誰かの記憶にでもいい、構文の欠片でもいい。
ここに“俺がいた”って証明できるなら、それでいい。」
桜
「……でも、それじゃ他の人の記憶を壊す。
私の中にいるあなたは、“私”を消そうとしてる。」
藤村
「君の“記憶”の一部になれば、君は俺を忘れられない。
それは、俺にとって永遠だ。」
慧が一歩前に出る。
慧
「つまり“共存”じゃなく、“寄生”だな。
存在を証明したいだけの亡霊が、人間を上書きしようとしてる。」
藤村
「違う。お前たちが“忘れる”から、俺はこうなったんだ!」
断層の発生 ― “観測が壊れる”
桜の身体が震え出す。
現実と記憶が混ざり合い、周囲の空間がノイズに包まれる。
慧(端末を操作しながら)
「記憶構文の境界が崩壊してる! 藤村が観測層を奪ってる!」
桜の瞳が一瞬、藤村のものになる。
藤村(桜の口を通して)
「慧……お前も“俺を覚えてる”だろ?
消せなかったくせに……観測者のくせに。」
慧の目が一瞬だけ揺らぐ。
確かに――慧も、完全には藤村を忘れられていなかった。
慧
「……そうだ。
でも、“思い出すこと”と“存在を許すこと”は違う。」
慧がホログラム端末を展開する。
慧
「構文遮断式を発動――
“観測断層・固定”。
お前の存在を、“誰の記憶にも書き込めない領域”に隔離する。」
光の陣が広がり、桜を包み込む。
しかし藤村の声はまだ響く。
藤村
「そんなところに閉じ込められたら……俺は“本当に”死ぬ。お前は俺を本当に殺す…つもりか」
慧が歯を食いしばる。
慧
「それが“生”を選ばなかったお前の代償だ!」
桜の身体が一瞬白く光り、
光の中で藤村の姿が崩れていく。
「――俺は……まだ……ここに……!」
ノイズが消えた。
静寂の朝 ― “忘れられぬ重み”
翌朝。
桜が目を覚ます。慧がそばで端末を閉じている。
桜(かすれ声で)
「……終わったの?」
慧
「ああ。藤村遼の構文は、断層の中に封じた。」
桜
「でも、完全に消えてはいないんでしょ?」
慧は少し沈黙してから答える。
慧
「……そうだ。
“誰にも思い出されない場所”で、今も存在している。」
窓から朝の光が差し込む。
桜
「忘れられないものって、きっと悪いことばかりじゃないよね。」
慧
「忘れられないものがあるから、人は“今”を確かめられる。
……だが、掴みすぎると、そこに飲まれる。」
桜が小さく笑い、目を閉じる。
二人の背後で、微かにノイズが鳴る。
ほんの一瞬、端末に“藤村遼”の名前が点滅する。