第二章 2.
遠野の変化 ― “記憶の感染”
翌日、零課ラボ。慧が解析した音声ファイルの波形が、桜の端末にも同期していた。
桜
「……おい、これ、私のスマホ勝手に再生してるぞ。」
慧
「やっぱりか。残響が“人の記憶パターン”に移動してる。」
桜のスマホから、あの“声”が漏れる。
「――遠野、ありがとう。忘れて。」
桜
「……なんで私の名前じゃなく、遠野って呼ぶ?」
慧
「“記憶の感染”だ。
お前の脳内で“遠野”という記号を介して、構文が再生されてる。
つまり――幽霊は“他人の記憶”にも寄生できる。」
桜が無意識に腕を擦る。
肌に微かに、温もりのような“記憶”が残っている。
遠野の家 ― “思い出の再現”
慧と桜は再び遠野のマンションへ。
家中の写真が“微妙に変化”していた。
恋人が写っているはずの写真の中に、慧の後ろ姿が映っている。
桜
「……おい慧、これ……」
慧
「俺が“観測者”になってる。
遠野がもう“恋人の顔”を思い出せないんだ。」
遠野
「顔が……ぼやけるんです。
でも、あなたたちを見てると、思い出せる気がする……」
慧が小声で呟く。
慧
「彼女の“記憶”が、幽霊に書き換えられてる。」
幽霊は、思い出されたいのではない。
しかし、“思い出されることでしか存在できない”。
慧の目が冷たく光る。
慧
「皮肉だな。“忘れられたい”くせに、“思い出される構文”で存在してる。」
慧の実験 ― “忘却構文の試作”
零課。慧は巨大な言語式をホワイトボードに描いている。
それは“記憶の鎖”を切断するための構文。
慧
「“観測を停止する”ためには、
“思い出す行為”を反転させればいい。
記憶=観測×感情。なら、感情をゼロにすれば……」
桜が入ってくる。
手にしているのは、コーヒーと彼の古いノート。
桜
「……お前、感情をゼロにするって言ったな。」
慧
「そうすれば、幽霊は消える。」
桜
「バカ言うな。感情を切ったら、遠野さんが壊れる。
“思い出す痛み”が人を守ってるんだよ。」
慧
「でも、忘れられない限り、幽霊も壊れない。」
二人、沈黙。
その間にも、部屋のスピーカーから“声”が漏れ始める。
「……桜さん。あなたにも、忘れてほしい。」
桜が顔を上げる。
桜
「……なんで、私の名前を知ってるの。」
慧
「残響が、お前の記憶を読み取ってる。」
夜 ― “感染の拡大”
零課内の照明が不安定に点滅する。
モニターには、過去に関わった事件の映像が断片的に再生される。
どれも慧と桜の記憶。
しかし――全ての映像の片隅に、“幽霊の影”が映り込んでいる。
桜
「これ……全部、あの幽霊に“記憶されてる”?」
慧
「いや……違う。
俺たちが幽霊を記憶してる限り、奴は増殖する。」
慧の表情が険しくなる。
慧
「忘却構文を使うしかない。
“幽霊の名前”を消す。」
桜
「だめだ。
名前を消したら、本当に誰にも“思い出されなく”なる。」
慧
「それが、彼の望みだ。」
別れの儀式 ― “記憶の終焉”
遠野の部屋。
窓から夜風が入り、写真が舞う。
遠野の目から、涙が落ちる。
遠野
「彼の名前……消えるんですか。」
慧
「ええ。あなたが彼を“思い出せなく”なる。
でもそれが、彼の救いだ。」
慧が構文を唱える。
空気が光の粒に変わり、写真が一枚ずつ“白紙”になる。
そして、声が優しく響く。
「……ありがとう。ようやく、静かになれる。」
その瞬間、部屋の空気が温かくなる。
遠野は、微笑みながら涙を流す。
遠野
「……どうして、涙が出るんだろう。
誰を、忘れたんだろう。」
慧は静かに答える。
慧
「それが“完全な忘却”だ。」
ラスト ― “観測者たち”
零課の帰り道。
桜が夜空を見上げる。
桜
「なぁ慧。
もし、私が死んでも……お前、忘れる?」
慧は少しだけ笑って、前を向く。
慧
「忘れようとして、きっと思い出す。
それでいい。」
桜が小さく笑う。
桜
「……じゃあ、成仏できねぇな。」
二人の背後で、風が吹く。
誰かの声が、一瞬だけ重なる。
「それでも、ありがとう。」