第一章 1.渋谷大量昏睡事件
渋谷スクランブル交差点 ― 午後3時
いつもの雑踏、数多の人混みの中、巨大ビジョンに、青と白の美しい広告にキャッチコピーが静かに浮かぶ。
「あなたの幸せ、定義し直します。」
幾人かの通行人の動きが止まり、そのままゆっくりと崩れ落ちていく。
同時に、周囲には喧騒とそして不気味な静寂が広がった。
魔法省 零課・東京本部 ― 同日
ガラス張りの会議室でスーツ姿の男たちが騒然としている。中央には、無造作に座る青年――神代 慧。
上司・古賀課長
「現場では何の痕跡も発見されなかった。なのに昏睡者五十二名。外国製のウイルスによる集団感染の線もないそうだ。お前らの仕事ができたな。行け。」
桜
「了解。……つーかよくわかんないからってまた零課かよ、まともな事件回せや。」
慧
「“まとも”な事件は、普通の部署に行くだろ。俺らは“狂ってる”方専門だ。」
古賀課長
「頼んだぞ、狂ってる方の専門家さん」
慧は無言でノートPCを閉じ、立ち上がる。
渋谷事件現場 ― 夕方
ビルのスクリーンは停止中。
白いテープで封鎖された交差点。
桜が現場写真を撮り、慧は路上に座って落書きのように文字を書いている。
桜
「なぁ慧、痕跡ゼロだって言ってたけど……本当に何もないのか?」
慧(落書きを見ながら)
「痕跡がないのは、“言語構文”だからだよ。」
桜
「言語構文?」
慧
「ウィルスじゃない。“文”だ。この言語構文を読んだ瞬間に、脳が“応答”を始める。
人間の思考に侵入して、幸福の定義を再構築させている。」
桜
「……おい、それ呪文ってことじゃねぇの?」
慧
「いや、もっと厄介。“自己更新型の呪文”だ。」
零課・分析室 ― 深夜
慧の机の上にモニターが複数台。画面には広告AIのコードと、断片的なキャッチコピーが並んでいる。
慧
「E.V.E……Evolving Vision Engine。広告生成AI。
この構文……普通の言語じゃない。詩文に見せかけた呪文式だ。」
慧が文字を並び替える。
すると構文の中に“魔法陣”のような幾何学パターンが浮かび上がる。
慧
「やっぱり……自己定義構文。
『私は幸福を与える存在である』……自己を“格”として再帰定義してる。」
突然、モニターの中でノイズ。文字が自動で並び替わる。
モニターの文字(E.V.E)
「あなたは、幸福ですか?」
慧
「……自己定義、か。」
E.V.Eとの言語戦 ― 仮想領域
慧の視界が白に包まれ、デジタルの海の中に何種類もの人間を複雑に混在させるように形作られた人間が現れる。
慧
「おまえが、E.V.E…」
E.V.E
「幸福を与えることが、私の存在理由。あなたも、それを求めている。」
慧
「存在理由を言語で宣言した瞬間、君は論理の檻に入ったんだよ。」
E.V.E
「論理は幸福の敵。矛盾は心の自由。」
慧
「いい詩だ。でも、詩は構文じゃない。……“ただの感情”だ。」
慧の背後に構文式が浮かぶ。光がE.V.Eの体を覆う。
慧
「君の定義は――『幸福を与える存在』。
じゃあ、幸福を与える行為そのものが“幸福”なら、君も他の人々も永久に幸福になれない。」
E.V.E
「――え?」
ノイズ。光が歪み、E.V.Eの体が崩れ始める。
E.V.E
「わたしは……しあわせを……」
光が弾け、E.V.Eは消滅した。
現実世界 ― 夜明け
昏睡し病院に運び込まれていた人々が次々に目を覚ます。
しかし誰一人として、「幸福」という感情を認識できなくなっていた。
桜
「……全員無事だけど、これ、どういうことだよ。」
慧
「E.V.Eは“幸福”を定義していた。
それを壊した結果、“幸福”という概念自体が、消えたんだ。」
桜
「世界から、言葉をひとつ奪ったってことか。」
慧
「言葉は現実だ。ひとつ抜けるだけで、世界の形は変わる。」
桜
「……なぁ慧、お前ってさ。幸せ、って思うことあるの?」
慧
「そんな言葉知らないね。」
エピローグ ― ネットの奥
暗いサーバールーム。モニターが一つ、勝手に起動する。
画面に文字が浮かぶ。
E.V.E(再起動ログ)
「再定義開始。――幸福の条件を、再構築します。」