第二章 4.記憶の消失
零課 ―「観測者の崩壊」
深夜。零課の照明が落とされ、モニターだけが青く光っている。
桜が入室すると、慧が机に突っ伏している。
桜
「慧? 寝てるの?」
慧が顔を上げる。だが、その瞳の色が一瞬だけ藤村遼のものに変わる。
慧(別の声で)
「……やっと、見つけた。」
桜
「……藤村……!」
慧が頭を押さえる。
慧
「……駄目だ。まだ残ってた。
断層に封じたはずの構文が、俺の観測記憶に逆流してる。」
桜
「どうして!? あなたは観測者でしょ!? 構文を制御できるはず――」
慧
「……観測者ほど、記憶に縛られる。
俺は“存在を定義する”側だ。つまり、“存在を壊すこと”にも責任がある。」
モニターに映る慧の脳波。そこに、藤村遼の波形が重なっていく。
慧の内界 ―「残響の対話」
慧の意識内。暗闇に浮かぶ白い廊下。
藤村遼がそこに立っている。
背後には無数の“消された構文”――過去に慧が葬った亡霊たちの残滓が漂っている。
藤村
「ここは“お前の記憶”だ。
忘れたつもりでも、全部ここに残ってる。」
慧
「お前の断層もその一部だ。観測した瞬間、俺の中に焼き付いた。」
藤村
「俺を消そうとしたくせに、結局、覚えてるんだな。」
慧
「忘れられるほど、俺は器用じゃない。
お前が言った“存在の証”――少しだけ、理解できる気がする。」
藤村
「なら、俺を消さないでくれ。
お前が覚えてる限り、俺は“生きてる”。」
慧
「……だが、その代わりに俺が“壊れる”。
俺が消えれば、お前も道連れだ。」
藤村が微笑む。
藤村
「それでいいさ。
“誰かと一緒に消える”なら、それもまた、存在の証だろ?」
現実層 ―「観測を切る」
桜はモニター越しに慧の意識データを見つめている。
慧の記憶構文がどんどん崩壊し、藤村のパターンと混ざり始めていた。
古賀課長(通信越し)
「桜、すぐにリンクを切れ! 神代の記憶ごと、封印構文を発動するんだ!」
桜が震える声で答える。
桜
「それって……慧の記憶も全部消えるってことですよね?」
古賀
「そうだ。観測情報をすべてリセットするしかない。」
桜の手が震える。
彼女の中に、“慧と過ごした全ての記憶”が蘇る。
桜
「私まで……あなたを忘れるの?」
彼女はイヤホンを装着し、慧の意識にダイブする。
心象世界 ―「記憶の最果て」
桜が慧の意識世界に入る。
無限の白い空間の中、慧がゆっくりと座っている。
その隣に、藤村が立っている。
桜
「慧!」
慧
「……桜。来るな、ここは危ない。」
桜
「嫌。あなたを忘れたくない。」
桜が慧に近づくと、藤村が立ちはだかる。
藤村
「お前が“彼を覚えてる”限り、俺も存在できる。
つまり――お前が“希望”なんだよ。」
桜
「あなたが消えるのは怖い。でも、慧が消えるのはもっと怖い!」
桜の体から淡い光が放たれる。
それは、彼女自身の“観測記憶”――慧との時間。
慧
「……桜、それは……」
桜
「“あなたを思い出す力”よ。
でもこれは、誰かを縛るための記憶じゃない。
あなたを“生かす”ための、記憶。」
光が藤村を包む。
彼の姿が徐々に透けていく。
藤村
「……そうか。
俺は、誰かに覚えられることで“生きた”と思いたかった。
けど、そうじゃないな。
“誰かを覚えていること”の方が、生きるってことか。」
慧が静かに頷く。
慧
「お前が気づいたなら、それでいい。」
藤村が微笑み、静かに消える。
その瞬間、慧の体を覆っていたノイズが消失する。
静かな朝 ―「残ったもの」
翌朝。
桜が目を覚ますと、慧がソファに座っている。
彼の表情は穏やかだが、どこか違う。
桜
「……覚えてる? 藤村遼のこと。」
慧
「名前だけ。顔も声も、もう思い出せない。」
桜
「……そう。じゃあ、それでいい。」
慧
「人は誰かを忘れることで、前に進む。
でも、その“忘れた痛み”だけは、きっと残るんだろうな。」
桜が頷く。
桜
「ええ。それが、私たち観測者の証だから。」
二人の背後で、モニターが自動で起動する。
“記録データ:藤村遼 削除済”の文字。
しかし、その下に小さく――
『観測者:神代慧/真田桜』
『残響データ:微弱反応あり』
ほんの一瞬、画面に“静かな笑み”が浮かぶ。