表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

夏―― 父の憂い

『あの子の父として、わしは何をしてやれただろうか……』


 夏の陽が町を黄金色に染め、蝉の声が空気を満たす中、私はゆっくりと通りを歩いていた。


 陽が容赦なく照りつけ、額から流れ落ちる汗が視界を滲ませた。町の人々が私に敬意を込めて頭を下げるので、私は穏やかな笑顔で応えた。


 町の風景はどこか儚げだった。


 二年前の秋に襲った大地震の傷跡が、今なお色濃く残っている。

 通りを覆う屋根瓦はところどころ崩れ、修復の手が追いつかぬままに苔むした破片が道端に転がる。


 川辺に目をやれば、濁った水が静かに流れ、揺れで崩れた土手の跡が草に隠れきれずにいた。


 かつて川辺に咲いたワスレナソウも、地震の傷に耐えきれず、今は春の記憶として町民の語り草に残るのみだ。 町人たちの顔にも、穏やかさの中に不安の影がちらつく。



あの揺れが奪った平穏は、未だ完全には戻らぬのだ。

だが、町は確かに変わっていた。


 かつては藤崎の呪いの恐怖に囚われていた者達も、今は穏やかで平和な日々を取り戻しつつある。

 私は、これが良宵殿の尽力のおかげであることを知っていた。


 良宵殿が町の人々に希望をもたらし、翠藍の内に潜む呪いを抑えてくれた。その姿を、私はこの目で確かに見た。屋敷に忍び寄る禍々しい気配を、経を唱えて封じる良宵殿の静かな祈りもまた、私の心に深く刻まれている。


 しかし、良宵殿だけの功績ではない。町の者達をこんなにも穏やかにしたのは、他ならぬ我が娘、翠藍の存在だった。

 あの子が自ら屋敷に植え、町民に分け与えたワスレナソウは、春の光を町に灯し、地震の傷を癒す希望と呼ばれた。


 歩けるようになった翠藍は、自ら町へ足を運び、子供たちと笑い合い、老いた者たちに優しく語りかけた。


 あの子の存在が、どれほど町の者に希望を与えたかを、私は知っている。


 翠藍が混乱に喘ぐ人々の声を聞き、傷を癒したのだ。


 私は今も忘れられぬ。


 私の命に背き、町へ行く事を選んだ娘の気高い瞳を。その瞳は、青蘭の花のように清らかで、町の心を静かに照らした。 その事実を知るからこそ、私の心は重く沈む。


 老人が遠くから私に歩み寄り、私に深々と頭を下げて言う。


「藤崎様、姫様のお加減は如何でしょうか? 我等、姫様が恋しくてたまりません……」

「うむ、気苦労をかける。今度は夏の暑さにやられてしまった様でな……暑さが和らぎ、体力が戻ればよいのだがな」


 私は老人に笑みを返したが、ふと不安が胸をよぎった。果たして上手く笑えているのだろうか。老人の手に握られたワスレナソウの押し花が、春の翠藍の笑顔をそっと呼び起こした。老人に軽く頭を下げ、蝉の声に満ちた通りを後にして、私は屋敷へと重い足取りで向かった。


 蝉の声が耳にまとわりつき、心の静けさをも奪っていくようだった。胸の内に広がる冷たい空虚さが、足取りを重くする。


 翠藍の笑顔は、この町を照らす光だった。しかし、その笑顔を支える命が、呪いに蝕まれ、静かに消えつつある。私はその無力さに、心が凍りつく思いだった。


* * *


 屋敷に戻ると、普段の活気とは異なる静けさが漂っていた。使用人たちが奥の間をそっと行き来し、翠藍の世話をする足音が小さく響く。


 あの子の病状は春の終わり頃からじわじわと悪化し、夏を迎えるころには床で休む日が目に見えて増えた。


 私は廊下の端からその光景を眺め、翠藍の笑顔が遠ざかるのではと、言い知れぬ不安に胸を締め付けられた。


 自室に戻り、静寂に包まれた畳の上に、私は膝をついて頭を垂れた。


 地震の記憶が、ふと脳裏を過る。


 屋敷の庭に、翠藍が植えたワスレナソウが春に咲き誇った記憶が、胸を刺す。


 あの子が町民に希望を灯した笑顔が、今は遠い春の光のようだ。


 九度山の秋、宿坊での記憶が胸を刺す。あの子の虚ろな瞳、囲炉裏のそばで力なく座す姿が、今も私の心に痛く焼き付く。翠藍をこの運命に縛ったのは私だと、悔やまずにはいられないのだ。


 吉宗公との縁談は、あの子を救い、藤崎の名を繋ぐ道と信じた。あの方であれば、必ず翠藍をこの世で一番幸福にして下さると……だが、その決断は私の独善だったのかもしれない。あの子の心を、私は見過ごしてしまったのだ。


―― 私は父として、あの子に何をしてやれたというのだ?

―― 無垢な娘の心を、追い詰めただけではないのか?


 九度山の川音が、遠くから響いてくるようで、呪いの冷たい囁きが私の心を締め付けた。あの子の虚ろな瞳を救えなかったと、胸の内で己の声が責め立てる。


 夏の静寂に座す私の周りで、罪悪感と無力感が重くのしかかり、まるで呪いそのものがこの部屋に忍び寄るようだった。


 私は拳を握り、その重さに耐えきれず、歯を食いしばった。


* * *


 蒸し暑い夏の夜、蝉の声も途絶えた闇の中、私は吉宗公を極秘で訪ねた。


 居室の灯籠が揺れる薄暗い光の下、畳の冷たい静寂が私の足音を飲み込む。私は翠藍の病を胸に秘め、武士の誇りを懸けて深く頭を下げた。


「殿、恐れながらお願い申し上げます。翠藍との縁談を、白紙に戻していただけませぬか」


 声は震え、額に滲む汗が畳に滴り落ちた。

 頭を下げたままの私の耳に、吉宗公の静かな息遣いが響き、藩主の重い沈黙が居室を満たした。


 翠藍の命が呪いに蝕まれ、残された時が少ないことを、私はこの数日で悟っていた。あの子の笑顔が薄れ、夜ごとの咳が屋敷に響くたび、呪いの影が彼女を静かに絡め取るのを、父として見ずにはいられなかった。


 この懇願は、翠藍に最後の安らぎを与えたい、わが身の全てを懸けた願いだった。


「頼重、姫の病状は……それほどまでに重いのか」


 吉宗公の声は低く、しかしその奥に、武士の威厳を超えた哀れみが滲む。

 私は震える声で、言葉を絞り出した。


「はい……私はあの子の命が長くないことを悟りました。残された時間を、せめて安らかに、過ごしてほしいと……」


 言葉を口にした瞬間、涙が溢れ、畳に落ちる。

 私は頭を下げたまま嗚咽を堪えきれなかった。


 吉宗公は静かに歩み寄り、私の肩に重い手を置いた。その温かな仕草に、深い理解と優しさが宿り、私の胸を締め付けた。私はその慈悲に耐えきれず、なおも涙を流した。


* * *


 ―― 夏の名残が秋風に溶けゆく頃、私は翠藍のいる奥の間へと足を運んだ。


 庭の虫の声が遠く響き、障子の隙間から差し込む夕陽が畳に淡い金色を投げかけていた。翠藍は薄絹の布団に身を沈め、静かに横たわっていた。青白い顔は、かつての笑顔を宿した輝きを失い、まるで月光に照らされた雪のように儚げだった。


 私は畳に膝をつき、そっとその手を握った。


「翠藍……」


 そっと呼びかけると、翠藍の瞼が微かに震え、うっすらと開いた。

 薄靄に霞むような瞳が、ゆっくりと私を捉える。翠藍の青白い顔に、ほのかな笑みが広がった――まるで、春の川面に咲くワスレナソウのように、儚くも美しかった。

 私もそっと笑みを返し、声を潜めて言った。


「起こしてすまなかった。気分はどうだ?」

「はい……皆が優しくしてくれて、心が温かいのです」

「そうか……」


 私は小さく頷き、翠藍の瞳を見つめる目を細めた。


「町の者たちがそなたを案じておったぞ。姫様の笑顔を、また見たいとな」


 翠藍の細い指が、風に揺れる葦のように私の手を握り返した。翠藍の唇が微かに動く。


「父上……ご心労をおかけします……」

「心労などと思うものか」


 私は翠藍の手を握り直し、穏やかに笑った。


「そなたのような娘を持てたこと、わしの一生の誇りだ」


 障子の隙間から忍び込む柔らかな風が、夏の最後の囁きを運び、部屋の隅で小さく渦を巻いた。


 枯れ葉の香りを帯びた秋の気配が、そっと戸口に佇んでいるようだった。縁側の片隅には、春に咲いたワスレナソウが押し花として飾られ、翠藍の祈りを静かに守っていた。


 翠藍が再びあの軽やかな足取りで庭を歩く日は、もう来ないのだろうか。この子の心からの笑顔――陽光に輝くあの笑みを、もう一度見ることは、果たして叶わぬ夢なのだろうか。


 胸に刺さるその問いに答えられず、私は最愛の娘の頬をそっと撫でた。


 翠藍の肌は、まるで薄絹のように冷たく、けれど微かに宿る温もりが、私の指先に彼女の命を確かに伝えてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ