夏―― 父の憂い
『あの子の父として、わしは何をしてやれただろうか……』
夏の陽が町を黄金色に染め、蝉の声が空気を満たす中、私はゆっくりと通りを歩いていた。
陽が容赦なく照りつけ、額から流れ落ちる汗が視界を滲ませた。町の人々が私に敬意を込めて頭を下げるので、私は穏やかな笑顔で応えた。
町の風景はどこか儚げだった。
二年前の秋に襲った大地震の傷跡が、今なお色濃く残っている。
通りを覆う屋根瓦はところどころ崩れ、修復の手が追いつかぬままに苔むした破片が道端に転がる。
川辺に目をやれば、濁った水が静かに流れ、揺れで崩れた土手の跡が草に隠れきれずにいた。
かつて川辺に咲いたワスレナソウも、地震の傷に耐えきれず、今は春の記憶として町民の語り草に残るのみだ。 町人たちの顔にも、穏やかさの中に不安の影がちらつく。
あの揺れが奪った平穏は、未だ完全には戻らぬのだ。
だが、町は確かに変わっていた。
かつては藤崎の呪いの恐怖に囚われていた者達も、今は穏やかで平和な日々を取り戻しつつある。
私は、これが良宵殿の尽力のおかげであることを知っていた。
良宵殿が町の人々に希望をもたらし、翠藍の内に潜む呪いを抑えてくれた。その姿を、私はこの目で確かに見た。屋敷に忍び寄る禍々しい気配を、経を唱えて封じる良宵殿の静かな祈りもまた、私の心に深く刻まれている。
しかし、良宵殿だけの功績ではない。町の者達をこんなにも穏やかにしたのは、他ならぬ我が娘、翠藍の存在だった。
あの子が自ら屋敷に植え、町民に分け与えたワスレナソウは、春の光を町に灯し、地震の傷を癒す希望と呼ばれた。
歩けるようになった翠藍は、自ら町へ足を運び、子供たちと笑い合い、老いた者たちに優しく語りかけた。
あの子の存在が、どれほど町の者に希望を与えたかを、私は知っている。
翠藍が混乱に喘ぐ人々の声を聞き、傷を癒したのだ。
私は今も忘れられぬ。
私の命に背き、町へ行く事を選んだ娘の気高い瞳を。その瞳は、青蘭の花のように清らかで、町の心を静かに照らした。 その事実を知るからこそ、私の心は重く沈む。
老人が遠くから私に歩み寄り、私に深々と頭を下げて言う。
「藤崎様、姫様のお加減は如何でしょうか? 我等、姫様が恋しくてたまりません……」
「うむ、気苦労をかける。今度は夏の暑さにやられてしまった様でな……暑さが和らぎ、体力が戻ればよいのだがな」
私は老人に笑みを返したが、ふと不安が胸をよぎった。果たして上手く笑えているのだろうか。老人の手に握られたワスレナソウの押し花が、春の翠藍の笑顔をそっと呼び起こした。老人に軽く頭を下げ、蝉の声に満ちた通りを後にして、私は屋敷へと重い足取りで向かった。
蝉の声が耳にまとわりつき、心の静けさをも奪っていくようだった。胸の内に広がる冷たい空虚さが、足取りを重くする。
翠藍の笑顔は、この町を照らす光だった。しかし、その笑顔を支える命が、呪いに蝕まれ、静かに消えつつある。私はその無力さに、心が凍りつく思いだった。
* * *
屋敷に戻ると、普段の活気とは異なる静けさが漂っていた。使用人たちが奥の間をそっと行き来し、翠藍の世話をする足音が小さく響く。
あの子の病状は春の終わり頃からじわじわと悪化し、夏を迎えるころには床で休む日が目に見えて増えた。
私は廊下の端からその光景を眺め、翠藍の笑顔が遠ざかるのではと、言い知れぬ不安に胸を締め付けられた。
自室に戻り、静寂に包まれた畳の上に、私は膝をついて頭を垂れた。
地震の記憶が、ふと脳裏を過る。
屋敷の庭に、翠藍が植えたワスレナソウが春に咲き誇った記憶が、胸を刺す。
あの子が町民に希望を灯した笑顔が、今は遠い春の光のようだ。
九度山の秋、宿坊での記憶が胸を刺す。あの子の虚ろな瞳、囲炉裏のそばで力なく座す姿が、今も私の心に痛く焼き付く。翠藍をこの運命に縛ったのは私だと、悔やまずにはいられないのだ。
吉宗公との縁談は、あの子を救い、藤崎の名を繋ぐ道と信じた。あの方であれば、必ず翠藍をこの世で一番幸福にして下さると……だが、その決断は私の独善だったのかもしれない。あの子の心を、私は見過ごしてしまったのだ。
―― 私は父として、あの子に何をしてやれたというのだ?
―― 無垢な娘の心を、追い詰めただけではないのか?
九度山の川音が、遠くから響いてくるようで、呪いの冷たい囁きが私の心を締め付けた。あの子の虚ろな瞳を救えなかったと、胸の内で己の声が責め立てる。
夏の静寂に座す私の周りで、罪悪感と無力感が重くのしかかり、まるで呪いそのものがこの部屋に忍び寄るようだった。
私は拳を握り、その重さに耐えきれず、歯を食いしばった。
* * *
蒸し暑い夏の夜、蝉の声も途絶えた闇の中、私は吉宗公を極秘で訪ねた。
居室の灯籠が揺れる薄暗い光の下、畳の冷たい静寂が私の足音を飲み込む。私は翠藍の病を胸に秘め、武士の誇りを懸けて深く頭を下げた。
「殿、恐れながらお願い申し上げます。翠藍との縁談を、白紙に戻していただけませぬか」
声は震え、額に滲む汗が畳に滴り落ちた。
頭を下げたままの私の耳に、吉宗公の静かな息遣いが響き、藩主の重い沈黙が居室を満たした。
翠藍の命が呪いに蝕まれ、残された時が少ないことを、私はこの数日で悟っていた。あの子の笑顔が薄れ、夜ごとの咳が屋敷に響くたび、呪いの影が彼女を静かに絡め取るのを、父として見ずにはいられなかった。
この懇願は、翠藍に最後の安らぎを与えたい、わが身の全てを懸けた願いだった。
「頼重、姫の病状は……それほどまでに重いのか」
吉宗公の声は低く、しかしその奥に、武士の威厳を超えた哀れみが滲む。
私は震える声で、言葉を絞り出した。
「はい……私はあの子の命が長くないことを悟りました。残された時間を、せめて安らかに、過ごしてほしいと……」
言葉を口にした瞬間、涙が溢れ、畳に落ちる。
私は頭を下げたまま嗚咽を堪えきれなかった。
吉宗公は静かに歩み寄り、私の肩に重い手を置いた。その温かな仕草に、深い理解と優しさが宿り、私の胸を締め付けた。私はその慈悲に耐えきれず、なおも涙を流した。
* * *
―― 夏の名残が秋風に溶けゆく頃、私は翠藍のいる奥の間へと足を運んだ。
庭の虫の声が遠く響き、障子の隙間から差し込む夕陽が畳に淡い金色を投げかけていた。翠藍は薄絹の布団に身を沈め、静かに横たわっていた。青白い顔は、かつての笑顔を宿した輝きを失い、まるで月光に照らされた雪のように儚げだった。
私は畳に膝をつき、そっとその手を握った。
「翠藍……」
そっと呼びかけると、翠藍の瞼が微かに震え、うっすらと開いた。
薄靄に霞むような瞳が、ゆっくりと私を捉える。翠藍の青白い顔に、ほのかな笑みが広がった――まるで、春の川面に咲くワスレナソウのように、儚くも美しかった。
私もそっと笑みを返し、声を潜めて言った。
「起こしてすまなかった。気分はどうだ?」
「はい……皆が優しくしてくれて、心が温かいのです」
「そうか……」
私は小さく頷き、翠藍の瞳を見つめる目を細めた。
「町の者たちがそなたを案じておったぞ。姫様の笑顔を、また見たいとな」
翠藍の細い指が、風に揺れる葦のように私の手を握り返した。翠藍の唇が微かに動く。
「父上……ご心労をおかけします……」
「心労などと思うものか」
私は翠藍の手を握り直し、穏やかに笑った。
「そなたのような娘を持てたこと、わしの一生の誇りだ」
障子の隙間から忍び込む柔らかな風が、夏の最後の囁きを運び、部屋の隅で小さく渦を巻いた。
枯れ葉の香りを帯びた秋の気配が、そっと戸口に佇んでいるようだった。縁側の片隅には、春に咲いたワスレナソウが押し花として飾られ、翠藍の祈りを静かに守っていた。
翠藍が再びあの軽やかな足取りで庭を歩く日は、もう来ないのだろうか。この子の心からの笑顔――陽光に輝くあの笑みを、もう一度見ることは、果たして叶わぬ夢なのだろうか。
胸に刺さるその問いに答えられず、私は最愛の娘の頬をそっと撫でた。
翠藍の肌は、まるで薄絹のように冷たく、けれど微かに宿る温もりが、私の指先に彼女の命を確かに伝えてきた。




