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春―― 姫の記憶

『―― わたくしの願いは果して、成就したのだろうか』


 縁側に座り、庭の桜を眺めながら、わたくしはぼんやりと思考を巡らせていた。


 春の風が寝間着の袖をそよがせ、病の身には冷たく感じられるその風が、桜の香りと共に心をそっと和ませる。


 遠く、和歌の浦からは復旧の槌音が響き、町が再び息づき始めた音が届く。けれど、紀ノ川の水面はまだ濁りを帯び、かつての津波の傷跡を静かに映していた。


 あの雪の夜に香袋を燃やしてから、わたくしの病は再び胸の奥でくすぶりはじめる。呪いはどうやら、消えることなく残っているようだった。


 でも、それも全て覚悟の上だった。


「姫様!」


 町の人々が、わたくしが町から姿を消すと、まるで春の風に誘われるように連日屋敷に訪問してくれた。

 縁側に響く足音や笑い声が、静かだった屋敷に小さな灯をともすよう。


 小さな男の子が、庭の桜の枝を手に駆け寄り、「姫様、これ!」と満面の笑みで差し出してくれた。桜の花びらが、寝間着の袖にふわりと落ち、わたくしは「ありがとう」と受け取った。


 男の子は目を輝かせ、照れを隠すように笑った。


 

 縁側に腰を下ろしたお婆さんが、穏やかな声で昔話を始める。


「姫様が生まれた年、紀ノ川が青く輝いたんよ。まるで星屑が川面に降りたみたいで、町中が喜びに沸いたんや」


 お婆さんが懐かしそうに空を見上げる。初めて聞いた話に、わたくしは「そんなことがあったのね」と微笑むと、お婆さんは深く頷いた。


「でも、あの大地震で川は濁り、町の灯も一時消えた。姫様が戻ってきて、また輝きを取り戻したんや。姫様は町の宝や」


 その言葉に、わたくしは静かに目を細めた。

 町の娘が、手に持っていたワスレナソウをわたくしに渡す。


「姫様、これ、うちの庭で咲いたワスレナソウだよ。姫様にもらった種が芽吹いてくれたんだよ」


 わたくしは娘からワスレナソウを受け取り、そっと香りを嗅いだ。春の息吹が心に広がり、色褪せぬ証がそこにあった。


 娘は川辺でもワスレナソウが咲いた事を教えてくれる。

 娘が表情を緩めて言う。


「ワスレナソウは姫様にとても似てるね。厳しい冬を越えて春に咲く希望の祈りみたいだ」


 わたくしは目を閉じ、花の香りに包まれながら頷いた。


「……そうね、これは春の祈りね」


 町の娘とわたくしは笑い合った。

 農夫たちが、畑作業で汚れた顔を布で拭きつつ、寂しそうに顔を見合わせる。


「姫様がおらんと、町はなんちゅーか……火が消えたみたいでなァ」

「わしら、春の桜より、姫様の笑顔が見られる方が何倍も嬉しいんです」

「また姫様が町を歩いとる姿が見たいんや」


 人々からかけられる言葉が嬉しかった。

 わたくしは胸に疼く痛みを隠し、静かに目を細めた。

 農夫の一人が、帽子を手に持ち、深く頭を下げた。


「姫様の笑顔が、町の春なんや」

「冬の厳しい寒さで体を壊してしまったのです。早く元気になって、皆の所へ行きたいです」


 わたくしが穏やかに微笑むと、町の人々は安心したように笑い合った。

 農夫たちは名残惜しそうに何度も振り返りながら、町へと戻っていった。娘は振り向きざまに、わたくしに言った。


「来年は、姫様と共にワスレナソウを見とうございます」

「ええ、きっと一緒に……」


 娘が手を振って去って行く。

 皆の後姿を見送った後、わたくしはワスレナソウに目線を落とし、そっと微笑んだ。


 色褪せぬ祈りが、そこに宿っているようだった。


 町の人々が去ってから暫くして、父上が屋敷に帰って来た。


 父上は黙ってわたくしの横に腰を下ろし、桜の花を見上げた。春の風が花びらを揺らし、静かな時間が流れる。


 わたくしは父に言う。


「父上、式を延期させてしまい、心よりお詫び申し上げます。病の身をいち早く癒し、紀州徳川家の嫁として恥じぬよう、努めてまいります」

「うむ……」


 父上は物憂げにわたくしを見つめる。病の再発を疑う、憂いの瞳だ。

 わたくしの病が、大蛇の呪いを呼び戻したのではと、暗い不安が父上の心に影を落とす。


 春の風が花びらをそっと散らすように、父上の瞳が静かに揺れる。わたくしは、その重荷をどうすれば解き放ってさしあげられるのか、桜の儚さに似た思いを胸に秘めながら、唇を開いた。


「大丈夫です父上。大蛇の呪いはもう存在しないのです」

「何故そう言い切れる?」

「わたくしには分かるのです。呪いを受けた身ゆえ、呪詛は祈りに変わったと」


 祈るように手を重ね、わたくしは言う。

 桜の花びらが舞い落ちるように、父の心が静かに揺らぎ、言葉にならぬ思いがその瞳に宿った。


 ふと目線を落とした父の視界に、わたくしの膝に置かれていた列帖帳が映る。

 ワスレナソウの青が、頁の隙間から覗く。


 わたくしは父の視線に気付いて、悪戯っぽく笑う。


「嫁入り前の藤崎の姫が何を綴っているか、気になりますか?」

「いや、そうではない」


 父上が照れたように顔を逸らし、頬が微かに赤らむ。


「あまりからかうでないぞ、翠藍」

「申し訳ございません」


 わたくしは列帖帳を開き、父上にそっと見せた。

 父上はおそるおそる頁をめくり、驚いたようにわたくしを見た。


「これは記録です。わたくしが生きた証……なのに、わたくしは今日までずっと……何も書き記すことができませんでした」

「ずっと白紙のまま、大切に持っていたのか…」


 わたくしは頷く。

 父上は息を呑み、じっとわたくしを見つめた。


「翠藍、お前が何も書けなかったのは……呪いがあった為か?」


 わたくしは首を振る。


「これを下さった旅の方は、綺麗なものを列帖帳に記しなさいと言いました。だから何も書けなかったのです。わたくしは綺麗なものを知らなかったから。ワスレナソウや桜の花弁を閉じ込めるだけで精一杯だったのです……」


 父上は列帖帳を手に持つと、静かに目を閉じた。

 指先が頁をそっと撫で、その重さに耐えるように息を呑む。父の瞳に宿る憂いが、春の薄光に揺れる桜の影のように深まる。


「……そなたはずっと、その目で美しさを見つけられずにいたのか……」


 父上の声は低く、悔やむような響きを帯びていた。わたくしは小さく微笑む。


「父上、今は違います。やっと……綴りたいものが見つかりました。これこそが、わたくしの生きた証となるでしょう」

「何を記すのだ?」


 父上の目がわずかに開き、わたくしを見据える。


「秘密です。完成したら、この部屋の引き出しの奥に仕舞います。わたくしが居なくなった時、父上に読んでいただきたい」

「何を不吉な!」


 父上が勢いよく立ち上がり、袂が春の風に揺れる。その声には怒りと共に、隠しきれぬ不安が滲む。


 わたくしは唇に指を当て、静かに微笑んだ。桜の花びらが父上の足元に舞い落ち、儚くも優しい光景が広がる。


「父上、翠藍は紀州徳川家の嫁となる身でございます。この屋敷から居なくなるのは当然のこと」

「なっ、そなたの言い方が紛らわしいのだ!」


 父上が少し拗ねたように呟き、隣に座り直す。わたくしはそっと父上に寄りかかった。

 父上の温もりが、幼い頃の記憶を呼び起こす。温かい父上、大好きだった。


 父上はわたくしの髪を優しく撫で、言葉にできぬ思いを込め、抱きしめてくれる。春の桜が二人の上に舞い落ち、静かな時間が流れる。


「今まで沢山の思いを、ありがとう、父上」


 春の日々は穏やかに、まるで時がそっと息づくように流れていった。

 桜の花弁が風に舞い、柔らかな陽光が世界を優しく包む中、わたくしは静かな部屋で筆を手に取った。


 旅の方が『列帖帳れつじょうそう』と呼んだこの帖に墨を滑らせ、一つ一つの思いを丁寧に刻み込んでいった。


 ワスレナソウの鮮やかな青、かつての春に舞った桜の花弁、そして良宵様の微笑み


 ——それらを思い浮かべながら、胸の奥で静かな闇がそっと息を詰めるのを感じた。


黒髪の女の声が、冷たく耳元で囁く。

「裏切られた」と。


彼女の凍てた言葉に、わたくしは静かに微笑みを浮かべた。



 日々、筆を動かすたび、言葉は流れ、記憶は水面に散る花弁のようだった。


呪いを記し、永久を願い

長く秘めた想いを墨に託すように解き放つ。



そして、最後の墨が乾く頃

静寂の中に一つの問いが浮かんだ。





さて……わたくしの呪いは果して、成就するのだろうか……――


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