表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/14

春に咲く命

 ―― 宝永五年・春。


 厳しい冬が終わり、川辺のワスレナソウは芽を覗かせるも、地震の濁流に呑まれた青は戻らなかった。


 翠藍は川辺を歩き、か細い芽を見つけて屈み込んだ。

 しかし、胸に疼く痛みが彼女を苛んだ。かつての病が忍び寄るかのよう。


 復旧の槌音と馬車の軋みが響く町の傷跡――崩れた屋根、泥の道――自身の傷跡を見つけるたび、翠藍の心が軋む。


 幼き頃、病に伏し、奥の間に閉じこもる日々、翠藍は川辺で青い花を見つけた。


 名もなき雑草に「ワスレナソウ」と名づけ、存在を忘れないでと願った。

 あの時から、ワスレナソウは彼女の「生きた証」を映す鏡だった。


 良宵と出会った秋、川辺で再会した花に彼は護符の青い光を舞わせ、希望を灯した。


 その温かな光も優しさも、今は遠い。


 屋敷の庭では、今年もワスレナソウが青く咲き誇り、良宵の約束をそよぐ。

 翠藍は胸の疼きを堪えて花を摘み、町へ向かった。


 秋に癒した町民の傷を、春の希望で繋ぎたかった。

 市場の瓦礫で子供に花を渡す。


「この青を、忘れぬように」


 子供は翠藍を見上げ、笑みを返した。

 川辺の老人は涙ぐみ花を抱きしめ、町娘が花を受け取り、髪に飾った。


 行き交う人々は春の青い光を自然と目にするようになり、姫の希望を囁き合った。


「姫様の花は、町の春や」

「春の青い光は、我らの希望の光じゃ」


 和歌の浦に青が芽吹き、町民の間でワスレナソウの名が広がった。

 翠藍はその光景を優しく見守るが、良宵の不在は心に暗い影を落とした。


 庭の桜の下で、翠藍は良宵からの便りを待ち続けた。


 だが、返事は来ない。


 厳しい修行か、地震の傷跡か、手紙が彼に届いたのかもわからない。


 それでも想いを抑えきれず、筆を取る。


 返事がなくとも、心を届けることが唯一の支えだった。

 淡い期待は日ごとに薄れ、静かな不安が心を覆う。


 縁側に腰掛け、桜を見上げる。風に揺れる枝から、最後の一片の花弁がはらりと膝に舞う。まるで良宵の約束が風に浚われたかのよう。


 翠藍は花弁を手に取り、列帖帳に挟んだ。その指先に、彼の言葉の温もりが一瞬よみがえった。形なき約束を信じたい願いが、花弁に込められた。


 翠藍は心で良宵の言葉を繰り返した。

 春が過ぎ、約束が遠ざかっても、信じ続けたいと願う。


 陽光届かぬ森の奥に迷い込んだかのように、彼女の心は孤独に閉ざされた。風が運ぶ花弁の音だけが、遠い約束を囁くようだった。


* * *


 照りつける夏の日差しの中、翠藍は市場を歩き、泥の道に残る地震の爪痕を踏みしめる。

 翠藍の姿を見つけた子供たちが、「姫様!」と弾ける声で駆け寄り、小さな手を差し伸べてくる。その笑顔は、瓦礫の陰さえ明るくする。

 翠藍は子供たちと手を繋ぎ、町を進む。


 町娘がすれ違い様、明るく翠藍に言う。


「姫様、新しい庭にワスレナソウの種を植えることにしたよ! 来年が待ち遠しいね」


 翠藍は小さく笑って頷く。

 春の青が町に根づき、心が温もりに包まれるも、良宵の不在が静かな翳りとなって残る


 頼重は藩の政務で和歌山城へ赴く前、庭の桜の下で翠藍と立ち止まった。夏の風に桜の青葉がそよぐ中、頼重は穏やかに言った。


「城でそなたの名を耳にしたぞ。殿が関心を示しておられてな、わしは父として心から誇らしい」


 その笑みに、翠藍は頬を染め、目を細めて微笑んだ。


「父上、町の笑顔がわたくしの喜びです」


 頼重は静かに頷き、馬に跨った。

 いななきが響き、蹄の音と共に颯爽と駆け出す。翠藍は遠ざかる父の背を見送った。


 翠藍は屋敷を出て、高台から町を見渡した。

 瓦礫の間を歩く人々が崩れた家屋を葺き直し、泥の道を踏みしめ、市場では子供たちの笑い声が響き、町娘が花を手に未来を語る。


 老人が遠くから頷き、ワスレナソウの青に目を細める。


 町に生きる人々は悲しみを抱えながらも、少しずつ前に進もうとしている。


 翠藍の心はそんな光景に温もりを感じ、穏やかに見つめる。

 いつものように町へ向かう下り坂を下り始めたが、ふと目を細め、遠くに流れる川の光を見つめた。


その濁った光に、言い知れぬ不安が胸を過った。


 彼女は町への道を逸れ、草履を手に持つと、素足で土を踏みしめ、川の浅瀬へと向かった。

 足袋を脱ぎ、水にそっと触れる。夏の暑さを忘れる冷たい流れが心地よい。


 大きな入道雲が夏空に広がり、陽光が川面を照らす。


 翠藍の額の汗が雫となって水に落ち、波紋を広げた。


 小さな川魚が足元に寄り、そっと手を伸ばす。

 魚は指先をすり抜け、川下の漁師の網へ向かった。


 あの魚も網に絡まるのか……。


 翠藍が空を見上げようとした瞬間、足元の石に躓き、体勢を崩した。


 咄嗟に踏ん張るが、鋭い痛みが足を走る。

 赤い血が濁った水にゆらめき、まるでいつかの女の髪のように伸びる。


 息を吐き、汗を拭う。

 胸の奥で、冷たい疼きが響いた。


 香袋を握りしめ、翠藍は良宵の温もりを辿った。

 陽光と水の音が遠い記憶を呼び起こす。


 だが、光が強ければ強いほど、心に忍び寄る影は深く、川の濁りが秋の冷たい気配を運ぶ。


 町民の明るい声が遠ざかり、翠藍の心は静かにかげっていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ