春に咲く命
―― 宝永五年・春。
厳しい冬が終わり、川辺のワスレナソウは芽を覗かせるも、地震の濁流に呑まれた青は戻らなかった。
翠藍は川辺を歩き、か細い芽を見つけて屈み込んだ。
しかし、胸に疼く痛みが彼女を苛んだ。かつての病が忍び寄るかのよう。
復旧の槌音と馬車の軋みが響く町の傷跡――崩れた屋根、泥の道――自身の傷跡を見つけるたび、翠藍の心が軋む。
幼き頃、病に伏し、奥の間に閉じこもる日々、翠藍は川辺で青い花を見つけた。
名もなき雑草に「ワスレナソウ」と名づけ、存在を忘れないでと願った。
あの時から、ワスレナソウは彼女の「生きた証」を映す鏡だった。
良宵と出会った秋、川辺で再会した花に彼は護符の青い光を舞わせ、希望を灯した。
その温かな光も優しさも、今は遠い。
屋敷の庭では、今年もワスレナソウが青く咲き誇り、良宵の約束をそよぐ。
翠藍は胸の疼きを堪えて花を摘み、町へ向かった。
秋に癒した町民の傷を、春の希望で繋ぎたかった。
市場の瓦礫で子供に花を渡す。
「この青を、忘れぬように」
子供は翠藍を見上げ、笑みを返した。
川辺の老人は涙ぐみ花を抱きしめ、町娘が花を受け取り、髪に飾った。
行き交う人々は春の青い光を自然と目にするようになり、姫の希望を囁き合った。
「姫様の花は、町の春や」
「春の青い光は、我らの希望の光じゃ」
和歌の浦に青が芽吹き、町民の間でワスレナソウの名が広がった。
翠藍はその光景を優しく見守るが、良宵の不在は心に暗い影を落とした。
庭の桜の下で、翠藍は良宵からの便りを待ち続けた。
だが、返事は来ない。
厳しい修行か、地震の傷跡か、手紙が彼に届いたのかもわからない。
それでも想いを抑えきれず、筆を取る。
返事がなくとも、心を届けることが唯一の支えだった。
淡い期待は日ごとに薄れ、静かな不安が心を覆う。
縁側に腰掛け、桜を見上げる。風に揺れる枝から、最後の一片の花弁がはらりと膝に舞う。まるで良宵の約束が風に浚われたかのよう。
翠藍は花弁を手に取り、列帖帳に挟んだ。その指先に、彼の言葉の温もりが一瞬よみがえった。形なき約束を信じたい願いが、花弁に込められた。
翠藍は心で良宵の言葉を繰り返した。
春が過ぎ、約束が遠ざかっても、信じ続けたいと願う。
陽光届かぬ森の奥に迷い込んだかのように、彼女の心は孤独に閉ざされた。風が運ぶ花弁の音だけが、遠い約束を囁くようだった。
* * *
照りつける夏の日差しの中、翠藍は市場を歩き、泥の道に残る地震の爪痕を踏みしめる。
翠藍の姿を見つけた子供たちが、「姫様!」と弾ける声で駆け寄り、小さな手を差し伸べてくる。その笑顔は、瓦礫の陰さえ明るくする。
翠藍は子供たちと手を繋ぎ、町を進む。
町娘がすれ違い様、明るく翠藍に言う。
「姫様、新しい庭にワスレナソウの種を植えることにしたよ! 来年が待ち遠しいね」
翠藍は小さく笑って頷く。
春の青が町に根づき、心が温もりに包まれるも、良宵の不在が静かな翳りとなって残る
頼重は藩の政務で和歌山城へ赴く前、庭の桜の下で翠藍と立ち止まった。夏の風に桜の青葉がそよぐ中、頼重は穏やかに言った。
「城でそなたの名を耳にしたぞ。殿が関心を示しておられてな、わしは父として心から誇らしい」
その笑みに、翠藍は頬を染め、目を細めて微笑んだ。
「父上、町の笑顔がわたくしの喜びです」
頼重は静かに頷き、馬に跨った。
いななきが響き、蹄の音と共に颯爽と駆け出す。翠藍は遠ざかる父の背を見送った。
翠藍は屋敷を出て、高台から町を見渡した。
瓦礫の間を歩く人々が崩れた家屋を葺き直し、泥の道を踏みしめ、市場では子供たちの笑い声が響き、町娘が花を手に未来を語る。
老人が遠くから頷き、ワスレナソウの青に目を細める。
町に生きる人々は悲しみを抱えながらも、少しずつ前に進もうとしている。
翠藍の心はそんな光景に温もりを感じ、穏やかに見つめる。
いつものように町へ向かう下り坂を下り始めたが、ふと目を細め、遠くに流れる川の光を見つめた。
その濁った光に、言い知れぬ不安が胸を過った。
彼女は町への道を逸れ、草履を手に持つと、素足で土を踏みしめ、川の浅瀬へと向かった。
足袋を脱ぎ、水にそっと触れる。夏の暑さを忘れる冷たい流れが心地よい。
大きな入道雲が夏空に広がり、陽光が川面を照らす。
翠藍の額の汗が雫となって水に落ち、波紋を広げた。
小さな川魚が足元に寄り、そっと手を伸ばす。
魚は指先をすり抜け、川下の漁師の網へ向かった。
あの魚も網に絡まるのか……。
翠藍が空を見上げようとした瞬間、足元の石に躓き、体勢を崩した。
咄嗟に踏ん張るが、鋭い痛みが足を走る。
赤い血が濁った水にゆらめき、まるでいつかの女の髪のように伸びる。
息を吐き、汗を拭う。
胸の奥で、冷たい疼きが響いた。
香袋を握りしめ、翠藍は良宵の温もりを辿った。
陽光と水の音が遠い記憶を呼び起こす。
だが、光が強ければ強いほど、心に忍び寄る影は深く、川の濁りが秋の冷たい気配を運ぶ。
町民の明るい声が遠ざかり、翠藍の心は静かに翳っていく。