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祈りを生きる、ひと年

 宝永四年。藤崎家の屋敷に桜が咲き誇っていた。

 良宵が「必ず、迎えに来ます」と約束して旅立ってから、半年の月日が流れた。


 翠藍は奥の間から庭へと足を踏み出し、春の陽光に照らされた桜を見上げた。

 庭の片隅では、秋に持ち帰ったワスレナソウの種がひっそりと青く咲き、春風にそよぐその姿が、良宵の約束をそっと呼び起こす。


 病の影は薄れ、足取りはわずかな弱さを残すも、彼女の頬はすっかり血色が戻っていた。


 頼重は庭の桜を眩しそうに見上げる娘の姿を、静かに、しかし深い喜びの目差しで見つめていた。


 翠藍が桜の花びらを手に取り、遠い想いを秘めた瞳で眺めるのを見て、彼は穏やかな声で語りかけた。


「今年も見事に咲いたな。そなたと見る桜は、また格別だな……」


 頼重が翠藍の横に立ち、桜を見上げる。

 翠藍も桜を見上げ、春の風に髪を揺らしながら微笑んだ。


「父上…… わたくし、春の風の香りを長らく忘れていた様です。こんなにも心地が良かったのですね」

「良宵殿のお陰だな」


 翠藍は「はい」と頷き、忍ばせていた香袋にそっと触れ、良宵の温もりを思い出した。


 春風が彼女の髪を優しく揺らす。

 まるで良宵の温もりが今もそばにあるかのように感じられた。


 その感覚に、彼女の胸には感謝と、良宵の不在を静かに感じる切なさが広がった。


 頼重は翠藍の瞳に宿る遠い想いを見て、彼女の心に秘められた想いを察した。

 言葉にはせず、静かに微笑み、翠藍の心を尊重するように、視線を桜の花へと戻した。


 彼の目には、娘の回復を喜ぶ安堵と、病弱だった過去を案じるわずかな憂いが浮かんでいた。


「そなたが元気になってくれて心から嬉しく思う。だが、無理はするなよ」


 頼重の声には、深い愛情と静かな心配が滲んでいた。翠藍は小さく頷き、桜の花弁が舞う中、良宵の約束を胸に秘めた。


* * *


 夏の陽射しが和歌の浦の町を照らす頃、翠藍は町へと足を運ぶようになった。

 病の影は薄れ、最初は付き人の同伴があったものの、今は一人で歩くことに問題はなかった。

 町の人々は、病に伏していた姫の姿に驚き、遠巻きに彼女を見つめた。

 

 藤崎の呪いを怖れる者たちは、囁き合い、視線をそらす。


 「大蛇の病が姫を……」その声は、夏の風に紛れて響く。

 だが、翠藍が静かに微笑むと、幾人かの顔に安堵の色が浮かび、慎ましい笑顔が返った。


 日を重ねるごとに、翠藍の姿は町の人々にとって特別なものになっていった。

 市場に翠藍が現れると、子供たちが大きく手を振るようになり、老いた商人たちが遠慮がちに挨拶を交わした。

 彼女の笑顔は、春に咲く穏やかなワスレナソウの青のように、町に優しい光を灯した。


 ある日、市場の片隅で、老女が穏やかに歩み寄り、翠藍に話しかけた。


「姫様、お元気になられてまことに何よりですな。貴女様が町に来てくださるのを、心待ちにしておる者もおるんですよ」


 翠藍は心が温まるのを感じた。

 だが、遠くで囁く声が耳に届く。「呪いはまだ消えぬ……」


 その声に、翠藍の瞳がわずかに揺れ、胸に秘めた痛みが響いた。


 屋敷の奥で過ごした日々には、町の声など届かなかった。呪いの恐怖に怯えるのは自分だけではないと、初めて知ったのだ。


 歩ける喜びが世界を広げたのに、現実の重さが心を締めつける。 


 姫として傷を見せぬ覚悟を、翠藍は抱きしめた。

 良宵の祈りが自らの恐怖を癒したように、皆の心を癒す祈りに変えて、彼女は静かに顔を上げ、老女に柔らかく微笑んだ。


「わたくしも、町の皆様に会えるのが楽しみなのです」


 翠藍と老女が笑い合う。


 八百屋の呼び声が夏の暑さに響く市場の賑わいが、彼女たちの笑顔を柔らかく包む。老女は目を細め、遠い記憶を辿るように呟いた。


「我等はあの方の事をよく思い出すんです。若い僧様、良宵様はほんに我々のためによく尽くしてくれた。あの笑顔が忘れられん。町の者たちが病に倒れた時、夜通し看病し、希望を灯してくださった。本当にありがたいお方やった。今も町の者たちは、良宵様のことを語り継いでおるんです」


 翠藍は驚きを隠せなかった。

 良宵が町の人々のためにそこまでしていたとは知らなかったのだ。翠藍は老女の言葉に目を潤ませ、香袋を握りしめた。

 老女は言葉を続ける。


「思えば、姫様がこんなにもよくなられたんも、あの僧様の祈りのお陰様なのかもしれんな」


 翠藍の胸に、静かな喜びと切なさが広がった。良宵が遠くにいても、彼の優しさがこんなにも近くに感じられることが心から嬉しかった。

 翠藍の心に良宵への想いが更に深く刻まれた瞬間だった。


 ―― 老女の言葉に心温まる想いを抱きつつ、翠藍は晴れた夏空の下を歩いていた。


 影法師を追いかけるように、一歩一歩と踏み出す足取りは軽い。


 ふと、川辺の傍らに咲くワスレナソウの種を見つけた。

 あの日、良宵が護符に息を吹きかけ、青い光で包んだ光景を思い出す。


 彼女は香袋を手に握り、彼の温もりを確かめるように目を閉じた。

 日差しの暑さで、翠藍の額に汗が滲む。


 彼が修行に身を置くあの山も、このように暑いのだろうか。


 彼は今頃、何を考え、過酷な修行に身を置いているのだろう。


 ほんの一瞬でも、自分の事を思い出してくれるのだろうか……


  翠藍は晴れた夏空を仰いだ。


 ―― その瞬間、空が青く光り輝いた。


 翠藍は驚いて目を瞑るが、次に目を開けた時には穏やかな空が広がっていた。陽の照らしが強くて、目が眩んだのだろうか……。


 翠藍は高野山がある方角を向き、祈る様に手を重ねて、良宵への想いを馳せた。


* * *


 夏の暑さが和らぎ、彼岸を通り越して秋の風を感じるようになっていた。青々としていた夏の木々が色づき、季節は秋の訪れを知らせていた。


 翠藍は庭の桜の木の下に立ち、風に舞う枯れ葉を眺めていた。


 良宵と初めて出会ったのも、こんな秋の落日だった。

 

 彼の穏やかな笑顔、不思議な術、川辺で交わした静かな言葉――その全てが、今も鮮やかに心に刻まれていた。

 このまま穏やかに冬へと移るのだと、翠藍は静かに願っていた。



―― その日は妙に暑く、晩秋とは思えぬ快晴が和歌の浦を包んだ。



 いつものように町へ向かおうとした翠藍だったが、汗と息苦しさに体調を崩し、屋敷に引き返した。

 縁側で涼みながら空を見上げると、不気味な形の雲が天に重く垂れ、言い知れぬ不穏さが心を過った。


 庭を抜ける秋風が、ふと止まる。



―― 未ノ刻、天地が轟いた。



 縁側に腰掛ける翠藍は、視界が揺れるのと同時に庭に転がり落ちた。

 土にしがみつこうにも地が震え、地震と認識するまでに時を要した。


 屋敷の悲鳴が響き、瓦が落ち、柱に亀裂が走った。 

 揺れが静まると、侍女が翠藍に駆け寄る。


「姫様、ご無事ですか!」


 侍女に支えられ体を起こし、翠藍は震える声で問うた。


「恐ろしい揺れでした。皆は無事か?」

「まだわかりませぬ。ですが、本当に恐れるべきは、これからです」


 侍女に抱きしめられた翠藍は、言葉の意味を理解できなかった。


 高台の屋敷から見下ろす和歌の浦が、濁流に呑まれる光景を目にした瞬間、彼女の心は凍りついた。



彼女は知ったのだ。地獄はこの世にもあるのだと。



「姫様が町へ行かず、幸いでした……」



 侍女の呟きに、翠藍は言葉を返さなかった。

 目の前に広がる地獄絵図に絶望し、ただ立ち尽くすしかなかった。



 ―― 遠く、紀伊藩主が町の救済を急ぐ采配を下す中、生き残った和歌の浦の民は「藤崎の呪いか」と恐怖に震えた。


 高台の屋敷は津波を免れたが、翠藍が通った町は濁流に呑まれた。


 頼重は傷ついた町と和歌山城を駆け巡る日々を送る。

 己だけ安全な屋敷に留まることなど、翠藍にはできなかった。


 翠藍は高台を開き、怪我人を迎えた。

 屋敷の者を振り切り、泥と瓦礫の町へ駆け出し、息を切らして傷ついた者を励まし、飢えた者に食事を施した。


 「藤崎の呪い」と囁く声さえ甘んじて受け止めた。


 今は誰かの言葉で己の心を傷つける時ではない。


 良宵なら、かつて、この町を癒した旅の者なら、こうして傷付いた者の元へと足を運ぶと、信じたからだ。


 頼重は娘の町行きを強く反対した。


「そなたの身が危ない。屋敷で過ごすのだ」

「できません」


 翠藍は静かに答えた。


「父上、わたくしは痛みを分かち合いたいのです。どうかお許しください」

「ならん!」


 頼重は声を荒げたが、翠藍は続けた。


「わたくし、何のために歩けるようになったのでしょう? 屋敷に閉じこもるためでしょうか? いいえ、もしかすると、この日のために歩ける力を賜ったのかもしれませぬ。震える民を見守れず、藤崎の姫として使命を果たす資格がわたくしにありましょうか」


 その瞳に良宵の光を見て、頼重は胸を締めつけられ、目を伏せた。

 地獄の日々の中、民の為に奮起する娘の輝きに、父として深く感動を覚えたのだ。


 病により生きる事を諦めていた時とは違う、強い輝きが、そこに存在した。


「そなたの笑顔は、町の春となるだろう。共にこの冬を越えよう……」


 頼重の言葉通り、藤崎の姫の気高い行動は、町の希望となった。

 かつては藤崎の呪いと震えた者も、震える肩を静め、翠藍の笑顔に目を上げ、安堵した。

 川辺の老人は、翠藍の手を涙で濡らし、震える声で言った。


「津波の時、良宵様を願ったが、姫様の笑顔が我々を救う光や」


 翠藍は微笑みながら、胸に思った。

 良宵と出会って一年が過ぎたのだと。


 胸に忍ばせた香袋にそっと触れ、目を閉じる。

 ふと、不安が胸に芽吹く。


―― 果して、良宵様はご無事だろうか?


 噂では、高野山の堂塔にひびが入り、倒壊したとも聞く。

 本当は、すぐにでも高野山に駆けつけたい。しかし、女である翠藍は、あの山に入る事は許されない。

 今はただ、良宵の無事を祈るしかなかった。


 冬の足あとが、すぐ側に迫っている。家を失った者たちが凍えぬよう、翠藍は冬支度の薪を運んだ。


 風に揺れる枯れ葉が、屋敷の地面に舞い落ちていく。翠藍は葉を落とす桜の木を切なげに見上げた。

 次に来る季節は、彼が約束を残した冬。


 そして、彼の足跡が雪に消えゆく季節。秋の風が冷たさを増し、彼女の心に不安がそよぐように広がった。


* * *


 木々の葉は枯れ落ち、降り積もる雪が和歌の浦を純白に染めた。冬の静寂が藤崎家の屋敷を包み、冷たい風が障子を揺らし、高野の遠い山々の息吹を運ぶようだった。

 奥の間に籠る翠藍は、侍女に高野山の噂を尋ねた。


「堂塔が倒れ、山道が崩れ閉鎖されていると……」


 侍女は目を伏せ、唇を噛んだ。

 その言葉に翠藍の心が凍えるように締まった。


 慌てて机に向かい、墨を磨って良宵への手紙を広げた。

 安否を案じ、言葉が溢れる。



《良宵様、ご無事ですか? あなたが旅立って一年、美しかった和歌の浦の町は、波に呑まれて全て流されてしまいました。高野山でも堂塔が倒れ、山道が崩れたと聞きます。あなたは今、いかがお過ごしか……わたくしも父も無事です。この手紙があなたに無事に届くことを、ただ願って……》


 香袋を握り、翠藍は震える手で祈りを捧げた。

 


 頼重は藩へ赴き、復旧に尽力する中、彼女は雪道を歩き、凍える町民に薪と粥を、子供たちに麻の夜具を届けた。


 粗い夜具にくるまる子供たちが、震えながら笑みを浮かべるのを見て、翠藍の心は温まった。


 しかし、雪に閉ざされた高野への道を想うと、不安が胸を冷たく締める。


 翠藍は冷えた手に息を吹きかけ、白い世界の先に良宵の姿を重ねた。


 雪は降り続き、彼女の不安を静かに積もらせた。


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