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約束を守る、その誓い

 翠藍は奥の間から庭へ、初めて足を踏み出した。揺れる足が土に触れ、冷たい風が頬を刺す。良宵が両手を差し出した。


「ゆっくりでいいですよ、翠藍様」


 彼女はその手を目指して一歩踏み出すが、膝が震え、地面に崩れそうになった。

 良宵が素早く、肩に手を添えて翠藍を支える。


「大丈夫です、そのまま右の足を踏み出してみてください。拙僧が支えます」


 良宵の手の温もりに、翠藍の胸の不安がふわりと溶ける。

 彼の穏やかな瞳を見つめて思う。


 ―― この人なら信じられる……。


 翠藍の心が安らいだ。

 良宵に優しく支えられながら、翠藍は足を踏み出した。

 桜の枯れ枝が風に揺れ、秋の陽光が二人の影を柔らかく包んだ。


 * * *


  数日後、翠藍は良宵に支えられながら、庭の隅まで歩めるようになった。屋敷の者たちは姫の姿を見て喜び、手を叩く者や涙を拭う者もいた。


 やがて数日が経つと、翠藍の足取りはさらに軽くなり、歩む姿に力が宿っていた。懸命に歩もうとする翠藍を、良宵は静かに支え続けた。


 ある日、翠藍が石に躓いて転びそうになると、良宵は迷いなく手を差し伸べ、彼女をしっかりと抱き止めた。


 彼の顔は何処までも澄んで、穏やかだった。彼の支えに、翠藍は安心感を覚え、次の歩みを踏み出す勇気を得た。


 また、翠藍が自らで数歩進めた時は、良宵は十五の少年らしい無邪気な笑みを浮かべて喜んだ。


 翠藍を見つめる良宵の視線は温かく、孤独だった翠藍の心にしみわたっていく。


 屋敷の者達と共に、無邪気に喜ぶ良宵の姿を見て、照れくさそうに目を伏せながら、翠藍も微笑むのだった。



 ―― 疲れ果てて座り込んだ日には、良宵がそばに寄り添い、何気ない話を繰り出してくれた。


 京の賑わいや比叡山の静寂、翠藍はその声に耳を傾けて心を癒した。


 ある時、比叡の桜は美しいのかと、翠藍は良宵に問うた。

 良宵が山の桜の美しさを、身振りで必死に表現するのが可笑しくて、翠藍は頬を緩ませて心から笑った。


 翠藍は諦めずに、歩く事を続けた。

 

 膝の震えを抑え、歯を食いしばって、一歩を踏み出す。もう一度自分の足で歩きたいという願いが、彼女を突き動かした。


 そしてついに、良宵の手を離れて一人で歩けた時、翠藍は涙が止まらなかった。


「ご自身の生きようとする力、そして歩きたいという強い願いが、あなたをここまで回復させたのです」


 良宵は優しく微笑んで言う。翠藍は涙を滲ませて小さく頷き、秋風に揺れる長い髪をそっと押さえた。 


 桜の枯れ枝から差し込む光が二人の穏やかな時間を照らし、彼女は良宵の顔をそっと見上げ、胸に芽生えた微かな感情を静かに感じ取った。

 

 風が一枚の葉を舞い落とし、二人の足元に寄り添うように落ちていった。




 ―― 庭を歩けるようになれば、良宵は翠藍を町へと導いた。


 町の人々は、病に伏していたはずの姫が歩く姿に目を丸くし、驚きの声を上げた。 


 藤崎家の呪いを怖れる者は、こそこそと噂を囁くが、中には、そっと手を合わせ、姫の回復を願う者もいた。


「今日は川辺まで遠出をしてみましょう」


 良宵に手を支えられ、翠藍は一歩一歩、震える足で川辺までの道を進んだ。


 秋の風が頬を撫で、遠くで川のせせらぎが聞こえてきた。

 良宵は翠藍の歩調に合わせながら、時折「足元に気をつけてください」と優しく声をかける。


 翠藍は久しぶりの外出に心が弾みつつも、体力に不安を感じていた。しかし、良宵の温かい手に安心感を覚え、歩みを進める。


 良宵は川のせせらぎに耳を傾けながら、ふと幼い頃の記憶を思い出していた。父の温かい手が自分の手を握り、優しく子守歌を歌ってくれた記憶だ。



『常なるもの無ける世なれば……生きる命は我が為に在らなり』



 父の声で歌われた旋律が、遠い記憶の中から静かに響いてくる。


 風がそっと頬を撫でる感覚に、幼き良宵の記憶が静かに揺さぶられた。

 まるで父の優しい手が、今もそっと彼を導いているかのように感じられた。


 翠藍が土手に生える枯れた草に目を留め、言った。


「良宵様、見て、ワスレナソウです」

「ワスレナソウ?」


 翠藍がそっとかがんで、枯れた草に愛おしそうに触れた。


「まだ外を歩けていた頃、この川辺で初めて見つけたのです。本来は名前さえ持たない雑草なのかもしれないけれど、とても綺麗な青色の花を咲かせてくれる健気な花でした。文献で読んだ『勿忘草色わすれなぐさいろ』に似ていて、わたくし、そっと触れながら『ワスレナソウ』と名を贈ったの。わたくしは、わたくしが名付けたこの花を忘れることはないでしょう。わたくしの事も忘れないでほしいと、そう願っていたのだけれど……」


 翠藍が寂し気に瞳を揺らす。


「久しぶりにお前と会えたというのに……花を咲かせたまま枯れてしまったのですね」

「もうすぐ雪が降ります。ワスレナソウは土となり、また種から新たな花を咲かせる事でしょう」


 良宵は護符を取り出すと、目を閉じて低く呪文を唱えた。


 指に挟んだ護符にフッと息を吹きかけると、枯れたワスレナソウの周りに小さな青い光が舞い上がる。青い光は翠藍の周りを優しく漂う。翠藍は目を輝かせてその光景を見つめ、呟いた。


「なんと美しい光でしょう。まるで夢のようです」

 

 良宵は翠藍の笑顔を見つめ、静かに言った。


「あなたの笑顔は、まるで春の花のよう。とてもお綺麗だ」


 翠藍は良宵の言葉に胸が熱くなり、頬を桜色に染めて目を伏せた。良宵は枯れたワスレナソウの根元に目を向け、そっと種を拾い上げた。


「この種を屋敷に持ち帰り、庭に植えてみてはいかがでしょう。来春には新たな花が咲き、あなたの願いを忘れぬようにと、静かに見守ってくれるはずです」


 翠藍は顔を赤く染めたまま、静かに頷いた。

 良宵の手から種を受け取る瞬間、指先が微かに触れ合い、翠藍は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。


「風が冷えてきました。屋敷に戻りましょう」


 良宵が穏やかに言うと、翠藍が小さく頷いた。

 二人は川辺をゆっくりと歩き始める。


 秋の風が枯れた桜の葉を舞わせ、翠藍がそっと良宵の袖に触れた。

 良宵はその微かな温もりと視線に気付き、口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 目線は前を向いたまま、言葉なく歩くが、翠藍の歩調に合わせて静かに歩を進めた。


 枯れ葉が二人を包み込むように舞い、川面に映る二人の影が静かに寄り添うように揺れていた。

 穏やかな時間が翠藍と良宵の間に流れ、言葉にしない想いが秋風に溶けていく。


 * * *


 ―― ある夜、翠藍は夢に魘されていた。

 物心ついた頃から、悪夢に悩まされることは多かったが、この夜は特に異質だった。


 夢の中で、黒髪の女が現れた。女の姿は闇に溶け込み、床にだらりと流れる長い髪がまるで蛇のようにうねり、翠藍の周りを這い回る。


 その冷たい声が、翠藍の耳元で囁いた。



『お前を裏切る……お前を裏切る』



「誰です?」と翠藍は震えながら問いかけるが、黒髪の女は答えず、ただ冷たく笑うだけだった。


 蛇の鱗が彼女の腕に這い、冷たい感触が全身を襲う。

 幻覚の中で、翠藍の腕に絡みつく鱗は、病に侵された体を蝕む苦しみと似ていた。


 それは、彼女が生きることを諦めかけた、あの夜の痛みと重なり、翠藍の心を締め付けた。


 恐怖に耐えかねた翠藍が目を凝らした瞬間、彼女は目覚めた。

 寝室の窓から差し込む月明かりが、翠藍の影を揺らしている。


「夢……」


 夢で良かったという安堵感とは裏腹に、真夜中の静寂が重くのしかかる。

 彼女の心を途端、不安で満たした。


 凶夢を見てしまった。


「誰が、私を裏切るというの……」


 翠藍はそっと胸を押さえ、恐怖に身を震わせた。

 自分の中で生まれた、淡い想い。それは良宵への恋心。だが、修行僧の彼は遠くない未来に自分の元から去るだろう。


 そんな不安が、黒髪の女として夢に現れたのかもしれない。


「良宵様……」


 呼べば、彼はすぐに駆けつけてくれるだろう。でも、呼べなかった。自分の弱さを彼に見せたくなかったからだ。

 翠藍は胸を抑えたまま、静かに声を殺して泣いた。




 ―― 数日後、町から戻ってきた良宵に、頼重が廊下の端から声をかけた。


 良宵は翠藍と過ごすかたわら、川の氾濫の傷跡に苦しむ人々の力になろうと、町で薬草を配り、民の声に耳を傾け、亡くなった者へ静かに祈りを捧げる日々を送っていたのだ。

 だが、頼重は良宵が町へ赴く真の理由を深く知らなかった。


「御坊殿は忙しいな。町へ遊びに行ってばかりでは困るぞ? 御坊殿に宿を与えてやった理由は、 姫の話の相手になるためだという約束を忘れたわけではないだろうな?」


 頼重の声には、良宵を試すような響きと、娘への焦りが混じっていた。頼重の言葉に対し、良宵は静かに目を伏せて答える。


「申し訳ありません。町の人々の苦しみをわずかでも和らげられればと願っておりました。ですが、殿との約束を忘れた訳ではございません。翠藍様は着実に回復されております。笑顔も、少しずつ……戻ってきておるかと」


 頼重は一瞬、目を細めて良宵を見つめたが、その真摯な言葉に触れ、わずかに肩の力が抜けたようだった。顔には安堵の色が浮かび、口元に微かな笑みさえ覗いた。


「そうか。そなたを屋敷に招いて正解だった様だな。わしも藩へ出向かねばならず、そなたに姫を任せきりで申し訳なく思う」


 そう穏やかに呟いたものの、頼重の心の奥底では拭いきれぬ不安が静かに蠢いていた。


 娘の顔に再び笑顔が戻ったことは喜ばしい。だが、その笑顔を再び奪うかもしれない病の根源がまだ明らかでないこと、そして呪われた家系の長としての重圧が、彼の胸を締め付けていた。


 頼重の指先が無意識に膝の上で小さく震え、視線が一瞬、遠くの虚空に彷徨う。


 良宵はその微細な変化を見逃さなかった。


 頼重の言葉が終わると同時に、良宵は一呼吸おいて、静かに、しかし確かな声音で問いかけた。


「無礼なご質問を投げる事をお許し願いたい。頼重様……この地に池があった記録などはございませんか?」

「池?」


 頼重の声が僅かに上擦り、眉が小さく動いた。驚きと疑念が混じったその表情は、普段の威厳ある姿とは一線を画していた。


「正確には池を埋め立てた記録です」


 良宵は穏やかに続けるが、その瞳には真実を探るような光が宿っていた。

 頼重の顔が曇り、しばし沈黙した後、低く掠れた声で答えた。


「それが何だと言うのだ?」


 良宵は頼重の沈黙を読み取り、心の中で確信を深めた。

 かつてこの地にあった池は、土地の守り神である大蛇が住まう聖域だったに違いない。

 池を埋め立てたことで、大蛇の怒りを買い、その呪詛が藤崎家に降りかかったのだと。良宵は心眼で視えた翠藍の内に漂う微かな蛇のもやと、町で耳にした町民たちの噂を思い出し、静かにその結論に至っていた。


「池を埋め立てて建てられたのが、この屋敷ですね?」


 頼重の沈黙は、良宵の言葉を肯定するものだった。

 良宵の表情が険しくなり、屋敷の柱に沈む影が一層重く感じられた。最後にひとつ、と付け加えて良宵が言う。


「翠藍様に限らず、この家に生まれる女子は謎の病に侵されたのではありませんか?」

「知った様な口をきくな!」


 頼重が激怒した。その瞬間、彼の瞳が鋭く光り、拳が無意識に握りしめられる。触れられたくない家の因縁を、若僧に見抜かれた苛立ちが爆発した。


「お前に何が分かる! 高野山の僧に額を擦りつけ、名だたる術師にすがり、救いを求めた! だが、この因縁は深すぎて…… 誰も手を差し伸べぬまま、見放されてきたのだ! 疲れ果てても…… それでもなお!」


 一瞬、頼重の息が乱れ、目が鋭く良宵を捉える。


「娘だけは救いたいと…… そう願いお前を招き入れた。姫が元気になった事は感謝している。だが私は欲深く、この家の因縁まで断ち切ってくれるのではと期待してしまう。だが、お前もかつての者達と同じように、私に自業自得だと説教するのか!?」


 頼重の声は怒りに震えていたが、その奥には娘を救えなかった無力感と、母と姉を失った過去の痛みが渦巻いている。頼重の声が一瞬途切れ、視線が虚空を彷徨った。


 肩が微かに震え、過去の痛みが彼を襲う。


 頼重の激しい言葉に、良宵は静かに目を細めた。その瞳には頼重の苦しみを理解しようとする優しさが宿っていた。


 良宵は動じず、穏やかに、静かに続けた。


「拙僧は力になりたいのです。だから聞いておるのです。でも真実を知らなければ、手を差し伸べる事も叶いません」


 その瞳には修行僧としての品格と、頼重の苦しみを理解しようとする優しさが宿っていた。

 頼重は一瞬、良宵を睨みつけたが、その視線は次第に力を失い、疲れたように目を伏せた。長い沈黙が流れた後、彼は呟くように語り始めた。


「川の氾濫も、藤崎家が衰退したのも、池を埋め屋敷を建てた事への呪いだと…… そう言われた事がある。わが母も、姉も、翠藍も。藤崎の血を引く姫たちはみな、蛇の影に縛られ、魂を少しずつ蝕まれるのだと」


 頼重の声が震え、言葉が詰まる。

 かつて花のように愛らしかった娘が、年を重ねるごとに弱っていく姿を見るのは、父親として耐え難い苦しみだった。


 愛する娘を長く閉ざされた部屋に置かざるを得なかったこと、可愛らしいその姿を誰にも見せられぬまま見守り続けるしかないことが、彼の心を締め付けた。


「私の母も、姉も、呪いに縛られ弱り果て……最後には命を落とした。あの子の夢に黒い影が現れると聞くたび、姉の最期を思い出すのだ。妻は翠藍を生んで力尽きたが、それすらも呪いの所為かと、心が凍える。わしは……もう翠藍を失いたくない……」


 頼重が顔を覆い、縋るように言う。


「御坊殿、いや、龍華良宵殿。姫を救ってくれ……頼む。頼むっ!」


 頼重は良宵に縋りつきながら、泣き崩れた。何処までも深く娘を想う一人の父の姿に、良宵の心が揺れる。


 良宵は頼重の姿と自身の父の姿を重ねていた。父はどこか不器用な人ではあったが、病める人や苦しむ人の為には己の苦労は惜しまない利他の人だった。



《常なるもの無ける世なれば、生きる命は我が為に在らなり…》


 

  父の子守歌が良宵の耳をふわりと掠める。父の利他に倣い、良宵は衆生済度を静かに志した。その強い志が、今、頼重の娘への祈りに重なる。


 良宵は静かに、しかし力強く頼重の肩を支えた。

 その手には修行僧としての品格と深い慈悲、そして翠藍を救うための揺るぎない決意が込められていた。


 頼重はその温もりに、言葉を超えた約束を感じ取り、更に声を出して泣いた。


 ―― その時、ガタン、と部屋の向こうで微かな音が聞こえた。


 良宵は一瞬、廊下の方をちらりと見た。音の主が誰であるのかを、良宵は察するが、再び頼重に視線を戻し、静かに肩を撫でた。

 頼重の泣き声が収まるまで、良宵は静かに寄り添い続けた。


 * * *


「翠藍様、宜しいでしょうか」


 良宵は奥の間の襖の前で静かに呼びかけた。返事はない。

 そっと扉に耳を寄せると、中からすすり泣くような声が漏れ聞こえた。


「失礼いたします」


 良宵が戸を開けると、布団に座る翠藍の姿があった。両目が充血し、頬に涙の跡が残っている。


「良宵様、返事を待たず入るなんて……失礼だわ。わたくしも一応、女子おなごなのですよ?」


 冗談っぽく言う翠藍だが、布団の端を握りしめる細い手が震えていた。良宵はそっと近づき、静かに問う。


「話を聞かれたのですね?」


 翠藍のうつむく顔に影が落ちる。


「わたくしは長らく夜ごとに胸を締め付ける痛みと、夢に現れる黒い影に耐えてきました。でもこれは…… 藤崎を呪う神の仕業だったのですね?」


 翠藍が手を握りしめる。


「父上はいつの頃からか、わたくしを酷く気遣う様になり、奥の間に置きました。着物や書物、異国の菓子…… 様々なものを与えてくださいました。きっと病弱なわたくしを哀れんでの事だと、そう思っていましたが…… 父上を苦しめているのはわたくしなのですね」


 良宵は翠藍をじっと見つめる。その瞳には、翠藍の痛みを理解しようとする優しさが宿っていた。


「伯母上様が蛇の夢に怯え亡くなったのも、祖母が池の闇に呑まれたのも…… 藤崎の家が途絶えそうになっている現在いまも。川が氾濫し民が苦しむのも、すべて呪いなのだというのであれば、わたくしが大蛇に身を捧げます。わたくしの命を以って呪いを断ち切りたい」


「なりません」


 良宵が強く言う。

 普段の穏やかな彼とは違う、静かだが厳しい口調だった。


「あなたの思いは、確かに大蛇の怒りを鎮めるため、命そのものを供儀とする古の風習に通ずるのでしょう。ですが、そのような犠牲は、この世に生まれた命の光を傷つけるもの。それだけは、拙僧、認めるわけにはまいりません」


 翠藍は驚いたように顔を上げた。良宵の瞳には、修行僧としての信念と、翠藍への深い思いやりが宿っていた。


「翠藍様は神の供儀となる為に生まれてこられたわけではありますまい」

「だったらわたくしは、何故生まれてきたの? 苦しむ為に生まれてきたのですか?」


 良宵は翠藍の震える声に心を寄せ、優しくその涙に濡れた瞳を見つめた。秋風が障子の隙間をすり抜け、部屋の灯りを揺らす中、良宵の瞳には龍華の名に込められた慈悲の光が宿り、彼女を救わんと願う優しさが静かに輝いていた。


 良宵がふと、吐息を漏らすように微笑む。


「この世に生まれた命は、互いの心を温め、支え合うためにあるのです。あなたの笑顔は、きっと多くの人々に希望の光をもたらし、癒しを与えるでしょう。翠藍様がこの世にお生まれになられたのは、その優しさで誰かの心を照らすためなのです」


 良宵は静かに彼女の手を取り、温もりを伝えた。

 その時、翠藍は良宵の袖から漂う微かな香りを感じた。それは、修行僧が身にまとう清らかな香木の匂いで、彼女の心を静かに包み込んだ。


「どうか心を強くお持ちください。生きる事を諦めてはなりません。拙僧が側におります。不安は全て、この良宵が受け止めてみせます」


 翠藍は良宵を見つめる。良宵の瞳に宿る決意と優しさが、彼女の心に染み入る。翠藍は涙をこらえ、かすかに頷いた。

 良宵は手を離さず、静かに彼女に寄り添った。


 窓から差し込む月明かりが二人の姿を優しく照らし、部屋の静寂が彼らの心を包み込むように広がった。


 ―― やがて季節は移ろい、秋の終わりが近づくにつれ、屋敷の周囲は静けさに満ちていった。

 木々の葉が一枚、また一枚と散りゆき、庭には冷たい風がそっと忍び寄る。


 良宵は毎朝、翠藍と共に読経を捧げ、歩行の訓練を続け、彼女の心に寄り添い続けた。その声は穏やかで、まるで冬の訪れを前にした最後の暖かさのように、翠藍の心に静かな希望を灯していった。

 彼女の瞳には少しずつ光が戻り始め、良宵の存在は、いつしか翠藍にとっての支えを超え、光そのものとなっていた。


 そんな二人に、別れの時が訪れようとしていた。



 ―― 初冬の朝、桜の葉が全て散り、冷たい風が屋敷を包む。風が良宵の袈裟をそっと揺らし、別れの時を告げるようだった。

 良宵は高野山へ旅立つ準備を終えて、中庭で読経を続けていた。


 良宵が藤崎の家に身を置いている間、高野山からは何度も使者が訪れ、早急に高野山へ上る様にと強く念を押された。もうしばし、と時を伸ばしてきたが、ついには金剛峯寺の座主猊下から文が届いた。


 入山の時期を伸ばしてきたが、それも限界だった。


 高野山の戒律は厳格だ。今はまだ一介の修行僧である自分が、これ以上この地に留まる事は許されなかった。


 藤崎家の屋敷に向かって最後の経を唱え終わった良宵は、深く溜め息を吐いて中庭から空を見あげた。

 大蛇の呪いを浄化するために読み続けてきたが、完全な解決には至らなかったのだ。


 しかし、良宵の術によって大蛇は深く眠りにつき、よほどのことがない限り動き出すことはないだろう。  


 ―― 高野山での修行が終わるまで、静かに眠ってくれることを願うばかりだった。



「行かれるのか良宵殿」


 中庭に頼重が現れた。旅装束の良宵の姿を見て、頼重はその日が今日である事を察したのだ。


 良宵は静かに頷いた。頼重が少し寂しそうに、しかし温かな笑みを滲ませた。


「高野山の座主から呼ばれたのであれば、良宵殿も行かぬ訳にはいくまいな」

「申し訳ございません。拙僧が未熟ゆえ、眠らせる事で精一杯でした……」

「何を申されるか。良宵殿は姫に広い世界を見せてくれた。町の者たちも、そなたを心から慕っておる。我が家も町も、そなたの慈悲がなければ今はないのだ。深く感謝しておるよ。ただ、寂しくてな」


 頼重が深く頭を下げた。その姿には、感謝と敬意、そして別れを惜しむ切なさが滲んでいた。


 頼重の肩が微かに震え、言葉に詰まる一瞬の間が、長い間抱えてきた重荷と良宵への深い信頼を物語っていた。


「高野山での修行の厳しさは、私もよく知っている。無事に修行を完遂される事を、心より祈っている」


 良宵は静かに目を閉じ、深く頭を下げた。

 頼重は無言で何度も頷き、良宵の姿を焼き付ける様に見つめた後、踵を返して屋敷の奥へと姿を消した。


 良宵は頼重の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けた。


* * *


 良宵は静かに傘のつまを持ち上げ、屋敷の全景を見渡した。冷たい風が袈裟を揺らし、遠くで冬鳥の鳴き声が響く。屋敷の門が朝焼けに照らされて輝いていた。


「お待ちください、良宵様」


 翠藍が小走りで現れた。


 季節がひとつ巡る間に、彼女の足取りはかつての弱々しさから力強さへと変わり、良宵はその姿に目を細めた。


 病に蝕まれていた頃の青白い顔は遠い記憶となり、今は朝陽のような柔らかな血色が頬に宿っている。


 良宵は胸の内で静かに安堵しつつも、どこか切ない思いが込み上げた――この屋敷を去る自分は、彼女のこれからを見届けられないのだと。


「良宵様……」


 翠藍が良宵を見つめた。朝日に照らされ、翠藍の瞳が大きく揺れる。


「良宵様、私は……」


 翠藍は言葉を詰まらせ、唇を震わせた。


 良宵への想いを口にすれば、彼をこの呪われた屋敷に縛りつけてしまうかもしれない。


 でも、胸に秘めたこの切ない気持ちを伝えなければ、誰にも理解されず、心だけが凍えてしまう。


 だから翠藍は唇を噛み、想いを涙と一緒に飲み込んだ。良宵に与えられてばかりで、何も返す事は出来ないけれど……


「良宵様、あなたを忘れません……」


 翠藍は笑った。それが今自分の出来る精一杯。

 この人が言ってくれたのだ。

 あなたの笑顔は、きっと多くの人々に希望の光をもたらし、癒しを与えると。


 だから笑顔で、見送りたかった。

 

 良宵は弱く笑った。

 翠藍が震える唇を噛み、無理に笑顔を見せようとする姿に、心が揺さぶられたのだ。

 彼女の健気な姿が、良宵の胸に深く刻まれる。

 

 ―― 彼女に別れを告げるべきか、告げずに行くべきか、ずっと迷っていた。


 でも、自分の元へ迷い無く走って来てくれた翠藍の姿を見た時に、良宵の心は決まっていた。


 初冬の冷たい風が二人の間を吹き抜け、雪がちらつき始める中、良宵は翠藍の瞳を深く見つめ、静かに告げる。



「迎えに来ます」



 良宵は懐から取り出した香袋を翠藍に渡した。



「必ず、迎えに来ます」



 良宵が優しく微笑む。

 翠藍は香袋を握りしめた。


 指先がわずかに震え、布の感触にすがるように力を込める。


 彼女の心は、良宵の言葉に隠された意味を必死に探っていた。


 良宵は多くを語らない。

 でも、その双眸は揺るぎなく翠藍を捉え、静かな決意を湛えている。


 『迎えに来ます』――それは単なる「会いに来ます」とは違う。


 彼は自分をこの呪われた屋敷から連れ出し、共に新しい未来を歩もうとしてくれているのだろうか……。


 こんな私を、選ぼうとしてくれているのだろうか。


 翠藍の胸の奥で、希望と不安が絡み合っていた。

 良宵の言葉を信じたい、信じようと願う自分がいる。


 一方で、彼が本当に戻ってきてくれるのか、この想いが彼の心に届いているのか、確信が持てない自分がいる。


 香袋を強く握る翠藍の手を包むように、良宵は己の手を重ねた。

 その瞬間、翠藍は彼の温もりを確かに感じ、心が震えた。 


 二人の目線が交わる。


 翠藍は良宵に笑みを返し、小さく頷いた。

 良宵は手のひらに想いを籠める様に、ゆっくりと力を込めてから放し、静かに背を向けて一歩踏み出した。


 冷たい風が彼の袈裟を揺らし、足音が藤崎の屋敷から遠ざかってゆく。


  雪が舞い散る中、翠藍は彼の背中が視界から消えるまでじっと見つめ続けた。


 そして、良宵の姿が遠く霞む頃、風が彼の残した温もりをどこかへ運び去った。


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