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和歌の浦の姫

 宝永ほうえい三年の秋の終わり。

 龍華良宵、十五歳は京の叢雲寺を後にし、紀伊の山道を歩む。


 その年の春、比叡山での修行を終えたばかりの彼は、高野山へ向かう旅の途中で、運命の出会いを果たそうとしていた。和歌の浦の海を望む町に、藤崎家の名門屋敷が静かに佇んでいた。


 冷たい秋風が紅葉を散らし、色づいた葉が足元にひらりと落ちる。山の木々がざわめき、遠くで紀ノ川の流れる音が響く。


 道の脇には、川の氾濫が残した生々しい爪痕が広がっていた。

 家屋は土台ごと押し流され、畑は泥に埋もれ、かつてあったであろう暮らしの面影は消えていた。

 水の跡は地面に深く刻まれ、折れた木々が無残に横たわる。


 良宵はその惨状に胸を痛め、静かに祈りを込めて歩みを進める。


 道の曲がり角で、町民たちが荷を担ぎ、ひそひそと囁き合っている。


「紀ノ川が氾濫するんは、藤崎家の呪いや……」

「旧家の姫を大蛇が病に……」


 その声が風に乗り、良宵の耳に届いた。


「すみません」


 少年らしい無垢な笑顔で良宵は言う。


「宜しければそのお話を、詳しくお聞かせ願えますか?」


 町民たちは顔を見合わせて黙り込む。皺だらけの顔をした老人が震える声で語り出した。


「藤崎家の姫を大蛇が病にしておる。昔、先祖が蛇を怒らせ、今では町まで災いが及んでおる」

「十三年前も、この様に大きな氾濫があったんよ」


 老人の娘と思われる女性が、老人の言葉に添えるように言った。

 そうそうと思い出したように、老人は続ける。


「十三年前の氾濫で町が大変だった時は、子を連れた旅の方が復興を手伝ってくださった。苦しむ人々を救おうと、優しい目をした高貴な若者でな……まるで我が子のように町民たちを気遣っておられたよ」


 『旅の方』という言葉が、なぜか良宵の胸に微かな温もりを残す。


 紀伊の山から吹き抜ける風が、良宵の袈裟を優しく揺らした。

 

 子供を背に負い、負傷した町民に手を差し伸べる旅人の姿を、良宵は頭に思い浮かべて思った。さぞ、立派な方だったのだろうと。


 同時に、藤崎家を怖がる老人の姿や、漂う不穏な気配を危惧する。高野山へ向かう前にこの町に導かれたのは、御仏が与えられた『修行』なのかもしれない。


 良宵は静かに決意した。


「ありがとうございます。どうやら高野山へ向かう前に、藤崎家に立ち寄る必要がありそうです」

 

 老人は心配そうに首を振る。

「近寄らない方がいいよ、あの屋敷には何か得体の知れないものが棲んでおる。わしらも遠巻きにしか見られんのや」

 良宵は柔らかく微笑み、優しく答えた。


「ご心配感謝いたします。ですが、衆生済度しゅじょうさいどを大願とする拙僧、見過ごすことはできません」


 深く一礼し、決然と踵を返した。

 夕陽が彼の影を長く伸ばし、風に舞う塵がその足跡をかすかに隠す中、良宵は迷いなく歩き去った。


 町民たちは息を呑み、祈るような目で見つめていた。


 * * *


 京からの旅路で耳にした話では、和歌の浦の町は大層賑わっているとされていた。だが、実際に足を踏み入れると、町の喧騒の中にはどこか寂しさが漂っていた。


 川の氾濫が残した爪痕が、人々の笑顔の裏に影を落としているようだった。


 町民たちのささやき声からは、藤崎家の呪いや得体の知れない災いの噂が漏れ聞こえ、その不穏な響きが町の空気を重くしていた。


 紀州徳川家に仕える重臣、藤崎氏の名門屋敷は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。


 苔むした石垣には深い影が沈み、桜の庭を吹き抜ける風は冷たく、かつての栄華を偲ばせる古井戸が、呪いの源と囁かれる亡魂のように佇んでいた。

 ひび割れた柱や朽ちかけた門は、町人たちが恐れる呪いの重さを静かに語っているようだった。


 良宵は静かに傘のつまを持ち上げ、屋敷の全景を見渡した。


 冷たい風が袈裟を揺らし、遠くでカラスの鳴き声が響く。

 屋敷の門は重く、まるで何かを拒むかのように閉ざされていた。良宵は深呼吸し、決意を新たに門を叩いた。


「若き僧よ、我が屋敷に何用かな?」


 この地を取り仕切る藤崎ふじさき頼重よりしげ、紀州藩の重臣として名高い男が姿を現し、鋭い目で良宵を品定めするように見た。


「拙僧、龍華良宵と申します。宿を乞いに参りました」


 良宵は穏やかに応じる。

 頼重は目を細め、良宵の高貴な威厳を感じ取った。


「大層な名を持つ僧だな。面白い、入れ」


 頼重は良宵を屋敷に招き入れ、桜の庭を抜けて奥へと案内する。

 枯れた桜の枝が風に揺れ、足元には春に散った花弁が寂しげに積もっていた。


「そういえば、屋敷に人を招くのは十三年ぶりだな……あの時も川が氾濫した時で、旅のお方がしばらく滞在しておられたが……」


 頼重の声が一瞬、遠い記憶を辿るように途切れ、小さくなる。


「此度の氾濫、とても大きな被害が出たと見えます。お見舞い申し上げます」


 良宵が頼重の背に静かに、心を込めて言った。


「あの川は雨が多くなると度々氾濫を起こすのだが、此度の氾濫には流石に参っておってな」


 頼重の声が低く響き、わずかに肩を落とす。


「私も町の者も、心折れそうになっておるよ」


 弱く言葉を口にして、頼重は一瞬、目を伏せた。

 歩きながら、頼重は後ろを歩く良宵にちらりと視線を向けた。その手は無意識に帯に触れ、苛立ちと期待が入り混じった様子が垣間見えた。指先がわずかに震えていた。


「して、御坊はどこの寺の者だ? これまでどんな修行に身を置いた? その方、医学の知識はあるのか?」

「拙僧は叢雲寺の宵の一門でございます。癒しの術と祓いの修行を積みました。亡父は医者で、その影響から医学の知識も多少は」


 良宵は穏やかに答え、頼重の視線を静かに受け止めた。

 頼重は一瞬、目をそらし、「そうか」と短く言葉を返した。その声は低く、少し掠れていた。


「宿を与えても良いが、ひとつ頼みがある。姫の相手をしてやってほしい。病で長らく外に出られず、寂しい思いをしておる。雑学が好きで、話し相手を喜ぶ子なのだ。そなたの話で少しでも心が和めば……」


 頼重の言葉に、良宵は静かに微笑んだ。姫の病と頼重の苦悩を察し、断る理由は無かった。


「喜んでお手伝いいたします。姫様の心が和む話し、尽くしてみせましょう」


 頼重は一瞬、驚いたように目を見開いた。良宵の言葉に何かを感じ取ったのか、良宵をじっと凝視した後、揺れる瞳と心を隠す様に、静かに目を伏せた。


 廊下の突き当たりに辿り着いた。

 重厚な戸が立ち塞がり、その向こうには微かな息遣いが漂っていた。


 良宵は頼重をちらりと見遣った。何かを怖れる様な、哀れむ様な複雑な瞳がそこにあった。頼重は戸に手をかけ、固く閉ざされたそれをゆっくりと開いた。


 ―― 奥の間には、わずかな灯りが揺れる静寂が広がっていた。

 部屋の隅で、あどけなさを残す少女が布団に座り、列帖帳れつじょうそうに筆を走らせているようだった。


 彼女の姿は、まるで古い絵巻物から抜け出したように儚く、清らかな美しさが漂っていた。良宵は一瞬、息を呑んだ。


「姫、この方は旅の僧。お前の話し相手になってくれるそうだ」


 少女がゆっくりと顔を上げ、好奇心に満ちた瞳で良宵を見つめた。その瞳は、閉ざされた世界から外を覗く窓のようだった。

 細い指先が列帖帳の頁をそっと押さえ、筆を止める。


「旅の僧……りゅうげ……」


 少女の声は、鈴が鳴るように繊細で、部屋の静けさを優しく揺らした。良宵は一歩踏み出し、穏やかに答えた。


「拙僧、龍華良宵と申します。宿を乞いに参りましたが、殿より雑学を好まれる姫がおられると伺いました。拙僧も雑学が好きでございます。宜しければ、話し相手になって頂けませんか?」


 少女は小さく微笑み、列帖帳を静かに閉じた。その動作には、病に侵されながらも失われていない気品があった。


「御坊殿、そなたの言葉で、わずかでも姫に笑顔が戻ればよいのだが」


 頼重は良宵の肩に手を置いた後、部屋を出て扉をそっと閉めた。部屋は静寂に包まれ、少女の瞳がじっと良宵を見上げていた。


「りゅうげ、とは…… どのような意味でしょうか?」


 夜に咲く花がそっと開くような、微かで優しい声が、良宵の耳を掠める。


「弥勒菩薩様が竜華三会りゅうげさんえを開く木の名です。師からその御心に近づくよう賜りました」

「晴れて心地よい宵…… りゅうげの樹。素敵なお名前ですね」


 少女が微笑む。夕陽に照らされたその姿が、儚く良宵の瞳に映り込む。


「わたくしは藤崎家、頼重が第一子、翠藍すいらんと申します」


 良宵の視線が、翠藍の閉じた列帖帳に落ちた。

 古びた装丁には、時を経た懐かしい優しさが漂い、まるで姫の心を映す鏡のようだった。

 良宵は静かに微笑み、そっと訊ねた。


「その列帖帳、ずいぶんと長い間、翠藍様のそばにあったとみえます」


 翠藍が列帖帳を胸に抱き、悪戯っぽく笑った。


「奥の間から出られぬ藤崎の姫が何を綴っているか、気になりますか?」

「いえ、そのような意味ではなく」


 良宵は微笑みつつ否定すると、翠藍がふわりと微笑む。


「これは《《記録》》です。生きた証を綴れたらと思っているのです」


 部屋の静けさに、古い紙と墨の香りが溶け込んだ。翠藍はふと、遠い記憶を辿るように目を細めた。


「わたくしが四つの時、旅の方から頂いた大切な列帖帳なのです。これはわたくしを映す鏡のようなものでした」


 翠藍の声が静かに響きを残す中、良宵が囁く。


何故なにゆえ、過去の話として語られるのか。貴女の命はまだこれからのはず」

「そうやって抗う事をやめたのです。この列帖帳をめくるようになって、少しは正気を保てるようになりました。生きている証を、ここに残せればそれでいいと――」


 得体の知れない病に身を焼かれながら、彼女はこの薄暗い部屋で孤独に過ごしてきたのだろう。ふと、頼重の言葉が頭をよぎった。


――姫の相手をしてやってほしい。


 その言葉の裏に、姫を救うための深い願いが隠されていることを、良宵は静かに悟った。頼重は、良宵の呪力と医学の知識に希望を託していたのだ。


 良宵は翠藍の儚い笑みを見つめ、静かに決意を固めた。未熟な技ではあるが、姫を救うために、持てる限りの術を尽くそうと心に誓った。頼重の信頼と姫の笑顔に応えるために。


「翠藍様、瞼を閉じてください」

「何をなさるのです?」

「拙僧は未熟ゆえ、秘術が目を焼く恐れがあります。故に……」

「神秘の術で私を助けようとして下さっているの?」


 良宵が頷くと、翠藍は素直に瞼を閉じた。良宵は軽く息を吐き、静かに経を唱え始めた。


 部屋に秋風がそよいで、障子の隙間から冷たい空気が流れ込み、経文の響きに微かな緊張感を与えた。


 姫の内に巣食うのは大蛇の呪詛。それは、まるで古木の根のように深く姫の魂に絡みついている。

 無理に引き剥がせば彼女の魂すらも傷つけてしまう。単純な退魔では姫を救えない。

 

 良宵は深く考え込んだ。未熟な技に頼るしかない己を情けなく思いながらも、姫を救うために心を奮い立たせた。


―― 今ここで祓えぬのであれば、眠らせれば良い。


 呪詛の力を一時的に眠らせている間、姫の生きる気力を取り戻す手助けが出来れば……。  


 生きることを諦めている彼女に力が満ちれば、時間をかけて祓っていく事は不可能ではない。良宵は希望を胸に、術を進めていく。


 印を結んだ左手、もう片方の護符を持った手で翠藍の額にそっと触れ、良宵は目を閉じ、翠藍の深淵を観る。


 翠藍の魂の奥底に渦巻く黒いもや。彼女を蝕み続ける、呪詛の片鱗だ。これを眠らせる事が出来れば……!


 良宵は護符を握りしめ、心の中で透明な檻を思い描き、黒い靄を静かに包み込む。黒い靄は良宵の存在に気付いてはいない。良宵は慎重に術を施し、姫の魂に巣くっていた呪詛を眠らせる事に成功した。


 翠藍の呼吸が穏やかになり、まるで冬の朝に咲く花のように青白かった顔には、温かな血色が戻り始めた。部屋の中に立ち込めていた重い空気も消えている。


呪詛が眠ってくれた証だった。


 良宵は静かに微笑んだ。未熟な技ではあるが、掛け合わせる事で姫の命を延命する事が出来た。


「目を開けても宜しいですよ、翠藍様」


 促されて、翠藍がそっと目を開ける。


 体が羽のように軽く、春の風が吹き抜けるように、体に満ちていた熱が引いている。感じた事がない感覚に、翠藍は不思議さを隠せなかった。


 翠藍は立ち上がろうと、震える足に力を込めた。だが、長らく使っていなかった両の足は、彼女の意志を裏切るように崩れ落ちた。

 良宵は咄嗟に手を伸ばし、翠藍の細い体を優しく支えた。


「大丈夫、拙僧が支えておりますので、ゆっくりと……」


 翠藍は良宵に支えられながら、自らの足で立ち上がる事が出来た。部屋をゆっくりと見渡す翠藍の瞳が良宵に向けられ、涙で滲んだ。


「良宵様は、奇跡の術を使われるのですね」


 良宵は疲れを隠して微笑むと、力強く翠藍に言う。


「翠藍様は必ず歩ける様になります。この良宵がお手伝いをします。だから、生きる事を諦めないで下さい」


 良宵の真っ直ぐな眼差しに、翠藍の心に温かさが滲む。


 涙を拭いながら「はい」と頷き、翠藍は良宵の肩に頬を寄せた。


 翠藍を支える指先に、良宵は少しだけ力を籠めた。

 部屋の静けさに、二人の息遣いがそっと重なった。

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