忘れる勿れ
月鏡湖の水面に、秋の陽光が静かに揺れていた。湖面に映る紅葉の色が、まるで時を止めた絵画のように美しく、風に揺れるたびにさざ波が立ち、静寂をそっと破る。
岩に腰掛けた良宵は、子供たちが無邪気に遊ぶ姿を優しく見守っていた。秋風が彼の袈裟を軽く揺らし、木々の間を抜ける音が、遠い記憶を呼び覚ますかのようだった。
風にのって届く子供たちの歌声が響く
――つねなるもの、なけるよなれば――
それは、かつて父・良治が歌った懐かしい旋律だった。良宵がおハナに歌っていたのを、おハナが村の子供達に伝えてから、子供達が好んで歌うようになっていた。
歌声は良宵の胸に静かな波紋を広げ、遠い日の記憶をそっと呼び戻した。
父が旅先で歌い、幼い良宵がその背中で聞きながら眠りに落ちた、あの温かな日々を。
良宵は目を閉じ、歌声に耳を傾けた。父の声が重なり、幼い日の温もりが静かに胸を満たす。秋の陽光が彼の頬を優しく撫で、まるで父の手のように温かく感じられた。
子供たちの笑い声と歌声が、天霊の山々に響き渡り、かつての父の慈悲が、今も側で生き続けているようだった。
良宵は胸に手を当て、懐から一冊の帳面を取り出した。
それは、翠藍が大切にしていた列帖帳。
古びた表紙に指を滑らせると、まるで遠い日の温もりが蘇るようだった。
秋の陽光が静かに揺れる中、良宵は表紙をそっとめくった。古びた頁が微かに軋む音が、静寂を破る。
最初の頁に「タツマル」と綴られた下手な字が目に飛び込むと、良宵は微笑み、その文字に宿る遠い記憶をゆっくりと辿った。
まるでその字が、幼い日の無邪気な笑顔を静かに呼び覚ますようだった。
弟子たちには語らなかった物語の続きを、良宵はそっと秘めた記憶として静かに辿っていた――
* * *
正徳二年―― 盆を過ぎた秋の風が、和歌の浦の町を優しく撫でていた。
翠藍が逝去して二年、宝永地震から四年が経ち、町は見事に息を吹き返していた。
復興した家々の軒先には秋桜が揺れ、漁師たちの笑い声や子供たちが跳ねる音が路地に響き合っていた。
瓦礫の跡には、ひっそりとワスレナソウが芽吹き始め、小さな青い花は、かつての悲しみをそっと包み込むように、開花を待っていた。
二十歳になった良宵は、高野山での修行を終えて下山し、笠を深く被りながら和歌の浦の町を訪れた。秋風がそよぐ中、足元に咲くワスレナソウを見つけたとき、彼の胸に微かな温もりと痛みが同時に広がった。
それは、翠藍の優しい声が風に乗って届いたかのような、かすかな希望の光だった。だが、この腕の中で息絶えた彼女の記憶が、深い悲しみとなって静かに響き合い、良宵の心をそっと締めつける。
藤崎家の屋敷に着くと、頼重が良宵を出迎えた。痩せた姿ながら、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。長い年月が彼の眼差しに深い皺を刻み、かつての威厳ある姿は薄れていたが、その瞳には静かな強さと優しさが宿っていた。
頼重は良宵の姿を見て、まるで遠い記憶をたどるように微笑んだ。
奥の間に案内されると、翠藍が生前のままに愛した部屋が広がっていた。
彼女が好んだ書物や手毬が静かに置かれ、色褪せた和紙の屏風からは秋の日差しが差し込んでいた。部屋に漂うほのかな香りは、翠藍がこの部屋で過ごした日々を鮮明に蘇らせた。
良宵は思わず息を呑み、彼女と過ごした短い日々の記憶が心に溢れた。初めて目が合った瞬間の胸の高鳴り、自ら歩めた喜びに輝く無垢な笑顔、月光の下で列帖帳を手に取る清廉な姿、そしてこの腕の中で息絶えた瞬間の重みが、同時に胸を締めつけた。
窓辺に差し込む秋の日差しと、庭で静かに芽吹くワスレナソウの姿が、良宵の心に微かな光を投げかけた。
良宵の胸には、希望と哀しみが交錯し、未だ整理しきれない感情が静かに揺れていた。新しい一歩を踏み出す勇気をくれるその光は、同時に過去の痛みを呼び覚ます痛みでもあった。
頼重は俯く良宵を見て、子を想う父の様に微笑んだ。
「良宵殿、見違えましたぞ。高野山でのご修行を見事完遂され、立派な高僧となられたのですな」
「拙僧、未だ修行の身にございます。過分なお言葉、恐れ入ります」
「そう謙遜なさることはない。清浄な御姿を拝見すれば、いかに高野での修行が過酷であったか、凡夫の私でも察する事くらいできます故」
頼重の表情から、ふと笑みが薄れ、目線が落ちた。まるで遠い記憶に引き寄せられるように、その瞳には静かな哀しみが宿っていた。彼はしばし言葉を失い、まるで過去の重みに耐えるように、わずかに肩を震わせた。
「あの子が逝ってしまってから、ずっと考えておりました。翠藍が生を受けた理由は、一体何だったのかと。一族の因果を浄化する為だけに生まれてきてくれたのかと……そう思えば思うほど、あの子が不憫でならず……」
涙を零す頼重に、良宵はそっと声をかけた。
「頼重様……」
頼重は涙を拭い、静かに立ち上がった。部屋の隅の引き出しから、あの列帖帳を取り出す。
その手は微かに震え、まるで翠藍の想いをそっと抱えるように、列帖帳を大切に抱きしめた。
「娘の願いでありました。列帖帳をこの引き出しに仕舞い、自分がこの世を去った後、父上に読んでいただきたいと。あの時より、あの子は自らの運命を悟っていたのかもしれませぬな」
頼重の声は微かに震え、まるでその言葉が彼の心の奥から静かに溢れ出るようだった。
彼は列帖帳を良宵の前に差し出した。良宵は顔を顰め、戸惑いながらも敬意を込めて尋ねた。
「拙僧が拝読しても、よろしいのですか?」
頼重は静かに頷き、その瞳に深い哀しみと願いを宿した。
「娘の願いを、成就させてやりたいのです」
良宵は列帖帳を手に取り、静かに頁をめくった。古びた紙が微かに軋む音が、静寂に溶け込む。
最初の頁に「タツマル」と綴られた下手な字が目に飛び込むと、良宵は訝し気に首を傾げた。その文字に宿る無邪気な記憶が、遠い日の温もりを呼び覚ますようだった。
良宵はそっと「タツマル」の字に指先で触れる。墨のざらついた感触が時を越えた重みを伝えてくるようで、胸に微かな波紋が広がった。
頼重は良宵の表情を静かに見つめ、穏やかに囁いた。
「この町に十八年前、旅の方が訪れられた。その方は二歳の子を背負い、町から町を旅される立派な医師様だった。この屋敷に滞在し、川の氾濫で傷ついた町と人を、懸命に救い支えてくださった。その方が孤独な翠藍に、この列帖帳を与えて下さったのです……」
良宵ははっと顔を上げ、奥の間を見渡した。木の香り、障子越しに差し込む柔らかな光――すべてが不思議なほど懐かしい。彼はこの文字を知っていた。いや、この屋敷を知っているのだ。
それは、五年前の記憶ではない、もっと遠い旅の記憶の中で、確かにこの場所に足を踏み入れたことがあった。
父が歌いながら歩いた道が、静かに蘇る。
幼い良宵がその背中で揺られながら見た風景――庭の木々が風にそよぎ、遠くの山並みが夕陽に染まる姿が、幼い日の記憶と重なった。風に揺れる木々の音が、父の歌声のように心に響き、彼を眠りに誘った旋律が甦る。
良宵が頼重の瞳を見据えると、頼重は柔らかな笑みを浮かべて続けた。
「しかし、先生のお子が翠藍の列帖帳に自分の名を綴ってしまった。それが、列帖帳に刻まれた最初の文字となりました。娘はその字を見て、美しいと笑ったのです」
列帖帳を持つ良宵の手がわずかに震えた。指先が紙の縁をきつく握る。
「良宵殿、いや、龍丸くん。大きくなられた貴方は、日野良治先生と、瓜二つだ」
頼重の瞳が一瞬揺れ、静かな安堵が宿った。
その言葉に、良宵の胸が激しく揺れた。彼は目線を下げ、そっと震える息を吐いた。
五年前、この町に辿り着いた時から、不思議と父の存在を感じることがあった。
そして今、父は確かにここにいたのだと実感する。幼き日の龍丸を背に、この和歌の浦の地に。
翠藍の瞳を見た時、とても綺麗だと感じたのも、幼い頃の龍丸が翠藍の清らかさを記憶の欠片に宿していたのかもしれない。
そして、何かに導かれる様に和歌の浦の藤原家を訪れたが……彼を導いたのは、父の慈悲そのものだった。
溢れる想いを抑えながら、翠藍の生きた証を辿るように、良宵はゆっくりと列帖帳の頁をめくった。
翠藍の繊細な筆跡が広がり、彼女の想いが静かに綴られていた。
高野山での瞑想の中で聞こえた翠藍の声が、まるで文字を通して再び響くように重なり合った。
『わたくしの願いは、果して成就したのか――』
列帖帳に筆を走らせる翠藍の姿が脳裏に浮かび、良宵は思わず息を呑んだ。
あの時、感じたのは、この言葉だったのか。
深い瞑想の中で、彼女がこれを記す姿が流れ込んできたのを思い出す。続きには、こう書かれていた。
『わたくしの呪いは、果して成就するのか――』
「呪い」という響きに、良宵の鼓動が速くなった。
この部屋にて、呪いを綴る翠藍の姿が、まるで今もそばにあるかのように感じられたのだ。
彼女は何を感じ、最期の想いを列帖帳に閉じ込めたのか――頁をめくる手が一瞬止まり、良宵は静かに息を吸い込んだ。そして、彼女の生きた証を己に刻み付けるように、そっと頁をめくった。
―― 部屋に漂う静寂が、まるで時を止めたかのように重く、良宵の微かな息遣いだけがその沈黙を破っていた。
彼が頁をめくるたびに、古びた紙の音が静かに鳴り、まるで翠藍の声がそこに宿っているかのように、優しく部屋に響いた。良宵の瞳は文字を追いながら、時折遠くを見つめ、過去と現在が交錯するような表情を浮かべた。
列帖帳を読み終えた時、良宵の瞳に静かに涙が滲んだ。
彼はゆっくりと列帖帳を閉じると、慈しむように、そっと手を添えた。
頼重は良宵の姿を静かに見つめた。良宵の涙の意味を理解するように、優しく、しかし深く問いかけた。
「良宵殿……あの子の呪いを、受け取っていただけますか?」
良宵は深く頷いた。
「この世で最も美しい呪いを、私は生涯、この胸に刻みましょう」
その言葉が静かに部屋に響き渡り、良宵は再び列帖帳を開いた。翠藍の最後の想いが綴られた頁を見つめ、彼女の声が今もそこに生きているかのように、静かにその呪いを読み始めた。
『わたくしの呪いは、果して――』
「―― 良宵さま、良宵さま!」
―― 良宵の意識が、はっと現実に引き戻された。声のする方を辿れば、遠くから手を振るおハナの姿が映った。
良宵はおハナに手を振り返し、柔らかく微笑んだ。
おハナの無邪気な笑い声と子供たちの歌声が、まるで秋風に乗って届くように、良宵の心に優しい響きをもたらした。
良宵は翠藍の列帖帳をそっと懐に仕舞った。
月鏡湖のほとり、天霊山の静けさの中で、子供たちの楽し気な歌声がこだまする。良宵は目を閉じ、父の祈りを感じ、翠藍の呪いを胸に刻んだ。
父の祈りと翠藍の願いが、彼の心に静かに重なり合った。
その時、良宵の心に「忘れる勿れ」という言葉が響いた。
それは、良宵が追い求める無垢光超越の導きか
かつて真言で唱えた燈光の女神、ディーパ・プラカーシャの祈りか
亡き父の囁きか――
言葉は風に乗って届く子供たちの歌声に溶け込むように、ワスレナソウが夕暮れの静寂にひそやかに揺れた。




