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春の姫の花

 秋の静寂が霊宝殿を包み、堂内は陽光の柔らかな光で満たされていた。


 良宵の話が終わり、六星導はそれぞれの想いを胸に押し込めたまま、重い沈黙に沈んでいた。その静けさは、まるで秋風に揺れる青蘭の花が弟子たちの心に刺さったかのようだった。


 良宵から初めて語られた過去――和歌の浦の姫との出会い、その清らかな魂に心動かされた瞬間――それは、弟子たちに師の人間らしい脆さと遠さを同時に突きつけていた。


 信楽は、色褪せた護符を握るように手に力を込め、目を閉じたまま微かに震えていた。師の言葉が、かつて叢海から受け継いだ教えと重なり、彼の胸を締め付けた。


 星霜は、古びた経典を手に持ったまま、窓の外の紅葉を見つめていたが、その瞳は潤み、詩を紡ぐ声は途切れていた。


 久識は、拳を膝に押し当て、歯を食いしばって下を向いていた。豪快な笑い声は消え、荒々しい息だけが漏れていた。


 多聞は、筆を置いて両手を膝の上で固く組み、背筋を伸ばしたまま動かなかった。几帳面な彼の手が、初めて震えているのが見えた。


 万劫は、香炉の灰を整える手を止め、静かに目を伏せていた。いつも穏やかなその顔に、深い哀しみが滲んでいた。


 そして、宵岸は――耐えきれなかった。


 彼の若々しい顔が歪み、唇が震え出すと、瞳から一筋の涙が溢れ、頬を伝って落ちた。ぽたりと畳に染みが広がる音が、霊宝殿の重い静寂を切り裂いた。



「良宵様……」



 呟いた声は掠れ、すぐに嗚咽に変わった。末弟らしい無邪気さが砕け散り、師への想いと、届かない距離への悲しみが溢れ出ていた。


 良宵は、弟子たちの沈黙と宵岸の涙を見やり、困ったように微笑んだ。その微笑みには、深い慈悲と、弟子たちの心を汲み取る優しさが宿っていた。



「宵岸よ、お前がその様に泣く姿を見るのは、私も心が痛むのだ」



 良宵は静かに歩み寄り、そっと宵岸の肩に手を置いた。まるで幼子を慰めるような慈愛に満ちた仕草に、他の弟子たちの心が痛んだ。彼らは師の穏やかな眼差しに触れ、その奥に潜む深い哀しみを確かに感じ取っていた。



「宵岸が『女子に心を寄せられたことはございますか?』と問うてくれたから、私は清らかな姫に心を寄せた記憶を、皆にそっと伝えたくなったのだよ」



 良宵の声は穏やかで、まるで夜風に揺れる木の葉のように静かに弟子たちの心に響いた。その言葉には、遠い過去への想いと、今ここにいる弟子たちへの深い愛情が溶け合っていた。


 宵岸は目を伏せ、頬を伝う一筋の涙をそっと拭った。他の弟子たちもまた、胸に込み上げる熱いものを抑えきれず、静かに息を呑んだ。


 この方の深い優しさは、深い哀しみを知るが故なのかもしれない――弟子たちはそう感じながら、師の言葉を心に刻んだ。


 信楽が静かに口を開いた。



「……灯主猊下、破戒は僧として重罪にございます。いかなる経緯にて、高野山での修行を全うすることが叶ったのでございましょうか?」



 良宵は穏やかに微笑み、遠い記憶を辿るように答えた。



「覚明様が我が身を顧みず、庇いだてして下さったのだ。『良宵は我が命で藤崎家の呪いを祓いに行った』とな。別当様はご納得下さったが、聖域を汚した罪は贖わねばならなかった。一時九度山へ追放の後、高野山に戻り、新たな行を課された。覚明様から与えられたのは不眠行であったな。師も共に耐えて下さり、最後まで側で見守って下さった。慈悲深い方であったよ。その温もりを今も忘れられぬ」



 宵岸が感慨深そうに頷く。



「和顔の阿修羅も、噂だけの阿修羅ではなかったのですね……」

「言葉に気を付けなさい、宵岸」



 信楽が咳払いしながら言うと、久識が宵岸の肩を軽く叩いて笑った。



「灯主猊下のお師匠を阿修羅呼ばわりする弟子がどこにいるんだよ。俺ならそんな師匠に会ったら、感謝の念で土下座してるね」

「だって、あの和顔の阿修羅ですよ?」



 宵岸が目を丸くして反論しようとするが、良宵の師と知った今、滅多な言葉は言えないと悟り、口をつぐむ。

 弟子たちの間で小さく笑いが広がった。宵岸が必死に言葉を繕う。



「覚明様は高野のみならず比叡でも名のしれた和顔の阿修羅様ですから……私だって会ったら感激で言葉が出ないですよ! きっと! たぶん……」



 そのやり取りに、良宵はくすりと笑い、悪戯を含んだ柔らかな笑みを浮かべた。目尻に刻まれた皺が、その温かさを一層際立たせる。



「そう言えば、覚明様から久方ぶりに文が届いてな。是非とも天霊山を訪れたいと仰っておられた。返書を書こうとしていた所だが……正式にお招きして、お前たちのご指導をお任せするのは名案だな」



「結構です!」



 宵岸が即座に叫び、慌てた声が霊宝殿に響くと、弟子たちは顔を見合わせてまた笑い合った。


 その時、霊宝殿の戸が小さく軋み、静かな音が笑い声を優しく包み込むように広がった。


 ()()()がひょっこりと顔を覗かせた。良宵が我が子として寺で育てる孤児、八歳の少女だ。

 彼女の小さな足音が、堂内の空気をそっと揺らした。おハナは無邪気な笑顔で駆け寄り、良宵の袈裟を引っ張った。その小さな手が袈裟を掴むと、良宵は微笑みながら彼女の頭を撫でた。


 弟子たちの笑いが静まり、おハナへの温かい視線が集まった。


 良宵が高野山の修行を終えた年に五歳のおハナと出会った。己が叢海と出会ったのも五歳だったことから、おハナと自分と重ね、「深い縁を感じる」と常々弟子たちに語っていた。


 その言葉を思い出すように、弟子たちはおハナを見つめ、良宵の微笑みに込められた想いを感じ取っていた。かつて心を閉ざし、笑顔を見せなかったおハナが、今では無邪気に笑う姿に、弟子たちの胸には静かな喜びが広がっていた。



「ねえ、良宵さま。月鏡湖げっきょうこまで一緒にお散歩に行こう」



 おハナが良宵の袈裟を引き寄せる。良宵は困ったように笑い、「まだ霊宝殿の整理が終わっていなくてね」と優しく断る。


 信楽が「無茶を言ってはいけません」とおハナを嗜めるが、その声には温かな響きがあった。良宵の温かさが、おハナの心を開いたのだと、弟子たちは静かに感じ取っていた。



「おハナ、良宵さまと一緒がいい。一緒に行きたい」



 そのワガママさえ愛らしく、良宵は申し訳なさそうに信楽を見た。信楽は目を閉じ、唇を噛みしめて首を横に振った。


 しかし、外から子供たちの声が秋風に乗って届く。



「良宵様!」

「早く来て!」



 秋風に乗って届く子供たちの声は、寺の庭に揺れる紅葉のように、霊宝殿に温かな波紋を広げた。


 良宵が再度、信楽を見遣る。信楽の表情がふとほころび、静かに首を縦に振った。



「行ってやってください、灯主猊下。後は私共で」

「すまないな、信楽」



 良宵は笑顔を浮かべ、おハナの手を握って霊宝殿を後にした。

 

 弟子たちは静かに息を呑み、師の優しさに感謝と敬愛を表す様に、眼差しを向けた。 堂内に沈黙が訪れる。宵岸は師の背中が遠くなるのを確認して、ぽつりと呟いた。



「……和顔の阿修羅、本当に来たらどうします?」



 その言葉に、久識が思わず吹き出し、大げさに肩をすくめて突っ込んだ。



「いや、そこかよ! お前、灯主猊下の話聞いて何を感じたんだよ!」



 宵岸は少し顔を赤らめつつも、悪びれずに笑った。弟子たちの間で小さな笑いが広がり、静寂が和らぐ。しかし、その笑いが消えると、再び、堂内に重い空気が漂った。灯籠の火がわずかに揺れる。ふと、万劫が呟くように言った。



「……安珍様は、約束を違えたと言いますが、灯主猊下は――迎えに行かれましたね」



 その言葉に、誰もすぐには応えなかった。ただ、静かな祈りのように、弟子たちの胸に染みていく。信楽が低く応えるように言った。



「煩悩に焼かれる執心も、確かにあったのでしょう。しかし灯主猊下は、光明のもとへ旅立たれた」  



 信楽は、西日が霊宝殿に差し込む光を浴し、遠い記憶をたどるように目を細めた。



「誰かを傷つけぬ道を願い、己が誰かの灯火となることを、灯主猊下は……ただ静かに誓われたのでしょうね」



 再び沈黙が訪れ、六星導は黙って床を見つめたまま、破戒の話を静かに反芻していた。弟子たちの瞳には、師の過去への深い敬いとほのかな憂いが宿っている。


 覚明の()()は、確かにあったのだろう。

 だが、高野山の戒律は厳格だ。


 温情があっても一時追放では軽すぎる裁きだ。恐らくは、良宵の力を畏怖と見なし、放置できなかったのだろう。


 結果、龍華良宵は「日ノ本随一の秘術の使い手」として名を馳せたのだ。その名声の裏に孤高の道を歩む師の姿を思うと、六星導の胸に静かな波が広がる。


 彼らはただ、師の人間らしい一面に触れたくて話を聞いた。偉大な龍華良宵の裏に、温もりや脆さが潜むのではないかと期待していたのだ。


 だが、耳にしたのは重い真実だった。心寄せた者を失い、その哀しみを秘めたまま、良宵は限りない慈悲で衆生済度の誓いを新たに立ち上がった。

 その清らかで強い魂が、遠い傷を抱えながらも輝き続けることを知り、六星導の心は揺れた。


 師の哀しみは弱さではなく、慈悲の源であり、彼を孤高へと導いた力だった。


 良宵は自らその道を選んだのだろうか。それとも、そうせざるを得ない運命だったのか。


 どちらにせよ、師は六星導の手が届かない遠くに立っているように思えた。


 静かに息を吐き、彼らは師の背中を見つめる。その視線には敬いと憂い、そして言葉にならない想いが混じる。


 秋風が霊宝殿にそっと流れ込み、堂内の灯籠を揺らした。星霜が静かに口を開く。



「灯主猊下にとって翠藍様とは、如何なる存在であられたのだろう」



 星霜の問いに、信楽は穏やかに、しかしどこか遠い目で窓の外を見つめながら答えた。



「無論、灯主猊下が生涯で唯一心を寄せたお方なのでしょう」



 宵岸が、風に浚われそうな声でふと呟いた。



「もし、灯主猊下が藤崎家に駆けつけた時、翠藍様が一命をとりとめていたとすれば、お二人には、どのような未来があったのでしょう……」



 六星導の弟子たちは顔を見合わせ、言葉を飲み込んだ。彼らの視線は、まるで師の背中を追いかけるように、おハナと手を繋ぎ遠ざかる良宵の後姿を目で追っていた。


 その横に、ふと女性の姿が重なるように思えた。

 まるで秋風に揺れる光のように、柔らかな微笑みを浮かべ、優しくおハナを見つめ、青蘭の花を手に持つ彼女が、良宵と並んで歩む幻が、ほんの一瞬、堂内に漂った。


 そしてその姿は、静かに堂内に溶け込んでいった。


 彼らが見たその幻は、師の記憶と優しさが形を成し、静かに彼らの心にも宿った瞬間であった。


 六星導は互いに視線を交わすが、誰も言葉には出さなかった。代わりに、師への感謝と敬愛を眼差しに込めた。


 霊宝殿の隅に、ひそやかに咲くワスレナソウ。その青い花弁は、秋の落陽に照らされ、まるで翠藍の祈りをそっと守るように、静かに光を放っていた。


 良宵が愛する天霊の山を静かに見守るその春の姫の花は、秋の深まりに抗うように咲き続ける。


 良宵の心に微笑みを刻む祈りとして、永遠に――

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