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迎えの月光(後編)

 宝永四年の夏、私は高野山の宝物殿で、埃にまみれた棚の奥に隠されていた古びた巻物を見つけた。そこには、空海様の直筆と伝わる力強い墨跡で、真言が刻まれていた。


『おん・でぃーぱ・ぷらかーしや・そわか』


 その響きは、私の胸の奥深くに共鳴し、心を震わせた。不思議な感覚に導かれ、私は師である覚明様に尋ねた。


「『ディーパ』は光、『プラカーシャ』は火を意味します。法燈明や自燈明と解釈されるものですね。これまで誰も気に留めず、真言誦唱ずしょうでも使われたことはありません。君がなぜこの真言に心を奪われたのか、是非とも知りたいものだ」


 覚明様の言葉に背中を押され、静寂に包まれた堂の中で、私は目を閉じ、深呼吸をして真言を唱えた。


「オン・ディーパ・プラカーシャ・ソワカ」


 刹那、眩い閃光が迸り、世界が純白に染まった。堂の空気が震え、時間が凍りついたかのような深い静寂が広がった。


 私の瞳に映ったのは、青蓮を高く掲げる光の女神の化身だった。

 その姿は、光輝く桃色の髪を虚空に靡かせ、星屑が祈りを紡ぐように柔らかく微笑んでいた。


 黄金に輝く瞳に私を映し、光はすべての魂に宿る希望を囁き、そして静かに消えていった。

 私は息を呑み、その神秘的な光景に心を奪われた。


「覚明様、ご覧になりましたか!? 今、確かに……!」


 私は興奮を抑えきれず叫んだが、覚明様は首を振った。その眼差しは鋭く、私を貫くようだった。


「閃光は見たよ。だが、君だけが何かを見たのだ」


 その日、夏の昼に高野山から天へと閃光が昇ったという噂が紀州中に広まった。 

 覚明様の表情は一層厳しさを増し、別当様に進言した。


「良宵くんの力は、空海様の真実にも届きえるやもしれません。それゆえに、危険と判断します」


 講堂に響き渡る別当様の低い声が、私の運命を告げた。


「龍華良宵よ、汝の力は未だ制御されざる炎なり。己を磨き、その炎を慈悲の光に変えるまで、奥の院より出ることを許さぬ。天地が揺れようとも、汝の命は衆生のために捧げよ」


 私は奥の院へと導かれ、不動明王の護摩行三百日と虚空蔵菩薩の真言行を課された。通常百日の行が三倍の重さに膨らんだことに驚きはしたが、苦しみとは感じなかった。なぜなら、私の心を支えるものがあったからだ。


 叢海様の『衆生を照らす光となれ』という言葉が胸に響き、覚明様の眼差しが寄り添い、九度山の人々の笑顔が咲き、和歌の浦の祈りが届き、そして翠藍様の笑顔が心に宿る。


 この試練は、衆生を愛する慈悲の深さを知り、御仏の導きによって清らかな境地に至るための道だと悟った。私は護摩の炎に我が誓願の祈りを重ね、虚空蔵菩薩の智慧に魂を委ね、ひたすらに真言を唱え続けた。


 ―― 夜ごとの瞑想の中で、私は因果の連鎖を超える唯識の光に微かに触れた。


 世界は心の投影であり、清らかな心が苦しみを浄化し、光を放つ――その真理が私の内に響く。

 その光は誰のものなのか。瞑想を深める中で、翠藍様の微笑みが春の青蘭の花のように私の心に咲き、彼女の清らかな魂がこの光を導いていると直感した。


 だが、その光は翠藍様だけのものではない。その光は、唯識の真理を超え、あらゆる喜楽と微笑を浄化した尊い境地――いつかの私が『無垢光超越』と名付けた輝きであると知った。


 それは私が追い求める究極の祈りと慈悲の輝きであり、すべての苦しみが心の浄化によって解き放たれる境地だ。


 この悟りは、衆生済度を誓願とする私の道を照らす光――釈迦牟尼仏の法身の輝きに浴し、衆生を救済する弥勒菩薩が如来となる希望の光なのかもしれない。


 しかし、未熟な私の心はまだその境地に遠く及ばない。


 ただ、翠藍様の笑顔と和歌の浦の春の青蘭が灯す清らかな光を胸に抱き、私は瞑想を深めていった。


* * *


 ―― 宝永四年の秋、奥の院に閉ざされた私の身に、大きな揺れが襲った。


 堂内の灯篭が激しく揺れて倒れ、壁に亀裂が走り、護摩の炎が乱れた。


 私は護摩の火を見失い、息を乱した。

 その時、覚明様の静かな咳払いが響く。


 師もまた堂内に留まり、私の修行を後ろで見守ってくださっているのだ。

 外で何が起ころうとも、別当様の命を厳守する。それは、師の命懸けの指導であり、私の元を離れぬという、覚明様の覚悟でもあった。


 外では民の嘆きが風に乗り、紀伊の地が裂ける音が心を刺す。

 翠藍様の笑顔、頼重様の憂い、和歌の浦の町の人々の祈りが脳裏に浮かび、皆の無事を願う衝動が私の胸を焦がす。


 立ち上がり、堂の扉を向く私は、縋る様に覚明様を見た。覚明様の厳しい眼差しが私を捉え、静かに首を振る。


 覚明様の額からは血が滴り、袈裟に赤い染みが広がっていた。先ほどの揺れで酷く負傷されたが、師の眼差しは揺るがなかった。


 決して動こうとされぬ姿に、私は覚悟が足りぬ事を悟り、葛藤に震え、膝をついた。


 私は呼吸を繰り返し、堂内で真言を再び唱えた。

 護摩の炎が熱く肌を焦がし、汗が頬を伝う。真言を唱える声はかすれ、息は乱れるが、私は心を静め、翠藍様の光を胸に刻んだ。


 護摩の炎の向こうに、春の青蘭が揺れ、翠藍様の微笑みが浮かぶ。その光に導かれ、私は民の嘆きを炎に込め、真言を唱えた。

 覚明様の眼差しが私の背に宿り、師の覚悟が私の心を支えた。


 秋の紅葉が散り、冬の雪が降り積もり、春の青蘭が咲くまで、私は堂内で真言を唱え続けた。


 破戒の誘惑が幾度も心を揺らし、疲れ果てた体が膝を折りそうになるたび、翠藍様の光が私を立ち上がらせた。炎を見つめ、心を見つめ、与えられた行を途切れさせずに完遂させるため、私は自らを律し続けた。


 ―― 三百日の行を終えたのは宝永五年の夏だった。奥の院の扉が開かれると、久しく忘れていた外の空気が私を包み込んだ。


 清浄な風が苔むした石畳を撫で、空海様の息吹が宿る聖域の空気は、まるで時が止まったかのように静かで澄んでいた。しかし、足元を見れば、所々崩れた地面が地震の傷跡を物語り、聖なる地にも刻まれた無常の痕跡が私の心を微かに揺らした。


 夏の終わりに、覚明様から新たな修行が与えられた。私は師を信じ、護摩の炎を前にして深い瞑想に入った。不動明王の智慧を求め、炎の揺らぎに魂を委ね、私は無垢光超越の境地を追い続けた。


 修行に打ち込む中、瞑想に沈む夜更けに、ふと、翠藍様の声が響いた。



『わたくしの願いは、果して成就したのでしょうか――』



 瞑想の闇に、痩せ細った翠藍様の姿が浮かび、列帖帳に筆を走らせる姿が見えた。


 顔は見えず、ただ世界をいとおしむように綴る姿と、散り往く桜を見上げる後姿が切なく、私の心を焦がした。

 

 次に瞑想の闇に現れたのは頼重様だった。

 頭を深く下げ、畳に涙を零しながら、何かを懇願されている。



『残された時間を、せめて安らかに、過ごしてほしいと……』



 その切ない叫びに、私の心が強く痛む。


 頼重様の姿が消えると、和歌の浦の町が広がった。

 真夜中にも関わらず、人々は表に出て、雪が降り注ぐ天を仰ぎ、祈る。



『―― お助けください』

『―― どうかお救いください』



 人々は何を祈り、救いを求めているのか。

 私は更に意識を研ぎ澄ます。

 刹那、人々の祈りの深淵に届いた。どうか――



 ―― どうか―― 姫様を、我等の姫をお救いください――



 私は目を見開き、立ち上がった。

 全身から血の気が引くような感覚に襲われた。


 翠藍様の命が、今まさに尽きようとしていることを悟ったのだ。和歌の浦の人々が、翠藍様の無事を祈っている。その祈りが、私に届けられた。私は行かなければならない。翠藍様の元へ。


 堂の戸を開けると、秋の深まりを告げる冷たい風が吹き抜け、紅葉の葉が堂の闇に舞い散った。季節はまだ秋の余韻に浸っていると思っていたのに、ふと見上げると、雪片が音もなく舞い落ち、白い花びらのように静かに積もり始めた。


 雲に隠れた月が淡く堂を照らし、雪明かりが冷たい光を私の足元に投げかける。


 堂の柱に雪明かりが影を落とし、まるで幽玄のように揺らめく中で、覚明様の姿が浮かび上がる。

 師の袈裟が風に揺れ、雪片がその肩に舞い降り、まるで不動明王の化身のような威厳を放っていた。



「良宵くん、まだ夜は明けていないよ。これは君の誓願への試練だ」



 覚明様の瞳には、厳しさと慈愛が宿っていた。


 修行は夏の終わりから始まり、蝉の声が消え、秋の紅葉が堂の庭を鮮やかに彩り、初雪が降り積もり、冬の訪れを告げる中、奇しくも今日、朝日が昇ると同時に、私の行は終わりを迎えるはずだった。


 覚明様は、私がどこに向かおうとしているのかを悟っていらっしゃるようだった。私の前に立ちはだかり、鋭い双眸が私の心を貫く。


「衆生を救う心が、一人の魂に縛られて破戒を選ぶのですか? 君は衆生済度の祈りを偽りとし、自ら踏みにじる気ですか?」


 普段は遊び心のある覚明様だが、その眼差から温かな笑みは消え、ただ厳しい師の顔が私を見つめていた。


 私は目を伏せ、思案した。


 幼き日、父・良治が町々を歩きながら口ずさんだ詩が、私の心に響き続けている。




《常なるもの無ける世なれば、生きる命は我がために在らなり》



 儚いこの世で、父は自らの命を、生命に捧げ、私を残して逝った。叢海様と出会わなければ、私も飢えて死んでいただろう。

 父の慈悲は、時に残酷だ。命を差し出すことで誰かを救う――その光は、残された者の心を焼くこともある。


 私はその痛みを知っている。


 祈りが、誰かを救うとき、誰かを置き去りにすることもある。それでも、私は父を恨まなかった。

 その痛みすら、父が遺した祈りの一部だったから。父が遺した詩の最後は、こう締めくくられる。


《只々世の為、人の為。されば我が為、我が子らが為》


 ――父は、利他のために命を尽くし、その果てに私の生きる道を残してくれた。


 その慈悲が、私の祈りだ。私は覚明様を見据え、静かに答えた。



「私の大願とは、亡き父の慈悲であり、約束を守る誓いであり、微笑みを刻む祈りです。ここで約束を違えれば、私の誓願こそ偽りとなりましょう」



 その言葉が響き終わるや否や、雲間を切り裂いて月光が差し込んだ。まるで天の意志がこの決意を受け止めたかのように、朝日のような無垢な輝きが私の背を照らした。

 光は静かに揺らめき、冷たい雪の大地に暖かな影を落とす。

 その光は、かつての真言が導いた燈光の女神の祝福を静かに宿し、柔らかく私を包み込み、光の中に溶けおちた。


 覚明様は目を見開き、私の背に広がるその輝きを見つめた。師の瞳には驚きが浮かぶが、すぐに静かな受容へと変わった。


 私は師の横を通り過ぎる際、深く頭を下げた。ゆっくりと顔を上げると、新雪に足跡を刻みながら走り出した。無言の同意で私を送り出してくれた師への敬意と感謝が胸に溢れ、その想いが私の足を止めさせなかった。


 師の教えと光の祝福が背中を押し、翠藍様との約束を守るために、私はただひたすらに走り続けた。


* * *


 ―― 雪深い高野山を下る道は、凍てつく風が頬を裂き、擦り切れた草履が雪に沈むほど過酷だった。


 木の枝が袈裟を引きちぎり、五十里の山路を血に染まる足で翔る。振り返れば、新雪に残る血の足跡が私の必死さを静かに物語っていた。


 地震で崩れた岩や倒木が道を塞ぎ、足元を危うくするが、私は翠藍様を思う一心と昇った日の輝きに導かれ、ただひたすらに進んだ。


 和歌の浦の町人の祈りが、翠藍様の清らかな呼び声と響き合い、私の心を焦がす。九度山の門前町、宿坊の灯り下で老僧が私を見つけた。


「おお、良宵殿、生きておられたか! 随分と心配しましたぞ」


 皺深い眼差しが驚きに揺れる。私は息を荒げながら軽く会釈をした。


「良宵殿にお伝えせねばと思っておった事がございましてな。昨年の秋、和歌の浦の姫がそなたを探し、ここまで参られたのです。清らかな瞳で、ただひたすらに良宵殿を祈っておられた」


 その言葉に胸が震える。翠藍様がこの地を踏み、私を求めたのだ――雪の降る中、まるで彼女の声が風に乗り、私の名を呼んでいるかのように、心に響いた。


 彼女の祈りは冷たい風に溶け、触れることのできない幻のように私を包み込み、けれどその儚さが一層心を締めつけた。


 私は老僧に深く頭を下げ、雪を蹴り再び走り出した。


 紀ノ川の凍る流れを越えようと足を踏み入れる。だが、地震で川の流れは変わり、氷の表面に亀裂が走っていた。水面の下でうねる冷気が足を刺し、崩れた岸辺の松が雪を纏って静かに傾ぐ。 


 翠藍様の笑顔を胸に刻みながら、私は乱れた流れを渡り切った。


 和歌の浦の遠灯りが、風に揺れる雪越しに微かに見える。

 息は凍り、血濡れた足は感覚を失う。

 陽が昇らぬ丑の刻に出発し、月が昇る戌の刻、藤崎家の屋敷に辿り着いた。


 月光が雪の庭を照らし、静寂に包まれた藤崎家の屋敷に、縁側の障子が微かに開いた。頼重様の声が闇を裂くように響く。



「誰だ、夜更けに!」



 灯りを掲げる彼の瞳が、血と雪に染まる私の袈裟に凍りつく。頼重様の顔は、娘の命が尽きゆく沈痛に曇っていた。

 その眼差しに、私は翠藍様の危篤を悟った。頼重様の肩は微かに震え、唇は言葉を失い、ただ深い悲しみが刻まれていた。



「頼重様……翠藍様は、そこにおられますね?」



 私は荒い呼吸を鎮めながら、静かに尋ねた。頼重様は両目に涙を溜めて頷き、障子を押し開けた。


 病床に翠藍様が横たわっていた。


 青白い顔、動かぬ体――だが、彼女の睫毛が月明りに反応して、微かに震えた。か細い息とともに美しい瞳がわずかに開いた。


 翠藍様は縁側へ顔を向け、月光に私の姿を捉えた。その瞬間、彼女の瞳に儚い光が宿り、和歌の浦の民の祈りが形を成したかのように、静かに輝いた。



「翠藍様、遅くなって申し訳ありません」



 私は駆け寄りたい衝動を抑え、両手を広げた。翠藍様が己の足で歩むことを望んでいる――その心を感じたからだ。



「迎えにきました」



 翠藍様が体を起こそうとするのを、頼重様が支える。

 彼女は震える手で父を離し、一人で立ち上がった。

 一歩、また一歩と、翠藍様は私が立つ縁側へと進む。


 冷たい床を踏む足は弱々しく、しかしその瞳には消えぬ意志が灯っていた。彼女が初めて立ち上がった時の姿が脳裏に浮かび、私の瞳に涙が滲んだ。


 月光に照らされた彼女の髪が風に揺れ、畳に足跡を刻むその姿は、青蘭の精霊のように美しく、切なかった。


 縁側から私を目掛けて身を投げる瞬間、私は足を踏み出した。

 翠藍様を抱きとめると、足元の雪が粉のように舞い上がった。私は翠藍様に囁く。



「お待たせしました、翠藍様。やっと、この腕であなたを抱きしめることができた……」



 翠藍様の瞳が、充血した光に滲む。凍えた指が私の頬に触れ、まるで私の温もりを刻むように冷たい震えを伝えてきた。


 彼女は眉を寄せ、唇を動かそうとする。言葉にならない想いが瞳に滲み、静かにこぼれる涙となって苦渋を語っていた。


 私は翠藍様の手をそっと握り、私の思いが届くように力を込めた。



「翠藍様はお綺麗だ。出会ったあの日から、あなたの心は変わらない。私の心も、あなたの祈りに寄り添い、確かに強くなりました」



 翠藍様の顔に安らかな微笑みが咲く。頬を私の胸に寄せ、息をつくように穏やかな光を放った。


 庭のワスレナソウが翠藍様の微笑みに呼応し、青い光を放つ。


 その輝きは天の川のように夜空を流れ、和歌の浦の隅々に青蘭の花を咲かせた。


 路地から紀ノ川の岸まで、花は嘆く民の心にそっと青い祈りの光を灯し、優しく寄り添った。


 ―― 夜空に舞う青い光の中に、私は翠藍様の姿を見た。


 春の桜がそよぐ風の中で


 夏の川が輝く陽に照らされて


 秋の紅葉に舞う落ち葉を見上げて


 冬の雪に沈む静寂に願う――


 廻る四季の中で町を歩かれ、民と喜びや悲しみを分かち合う姿。

 それは青い光の中に映された、町が刻んだ彼女の記憶。


 翠藍様の存在が、和歌の浦の町にもたらした温もり。


 苦悩と涙を乗り越え、絶望すらも包み込んだ究極の祈りは、かつて私が鎮めることしかできなかった大蛇の呪いを、今、昇華させた。


 藤崎家だけではなく、藤崎家の呪いに怯えていた人々の心をも癒し、彼女の光は和歌の浦を優しく照らす。咲き広がったワスレナソウは、翠藍様の願いが成就した証でもあった。


 翠藍様の瞳が静かに私の瞳を捉えた。


 すべての苦しみを断ち切った穏やかな眼差しは、私だけを見つめていた。私は彼女を抱きながら、涙で霞む視界に彼女の微笑みを見た。悲しいほどに、美しかった。


 翠藍様の笑みが、私の魂に静かに、だが確かに刻まれた。


 翠藍様は満足した様に、ゆっくりと瞼を閉じた。

 深い眠りにつくように、翠藍様は静かに息を引き取った。


 私は彼女を強く抱きしめた。

 私の腕にある彼女の温もりが、手からこぼれる雪のように儚く消えてゆく。


 繋ぎ止められない無常に、胸が裂けるように痛んだ。


 ―― 春に咲くワスレナソウは、秋の夜に奇跡を起こし、今でも和歌の浦の民から愛され、これからも愛され続けてゆく。


 翠藍様の微笑みがワスレナソウの花弁に宿るように、私の心に静かに刻まれ、永遠の光を残してゆく――

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