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秋―― 藩主の決断

『姫に出会っていたのが私ならば、あの一途な瞳は私だけを見つめたのだろうか――』


 晩秋の夜、和歌山城の居室に座す私は、蝋燭の揺れる灯に心を沈めた。


 紀ノ川の遠いせせらぎが秋風に溶け、窓の外では十一月の紅葉が月光に燃える。深紅と金が織りなす絢爛な彩りは、まるで民の祈りを映すよう。


 だが、季節外れの初雪が、白銀の儚さで紀州の山々を閉ざさんと舞い始め、書案に積もる幕府の書状をそっと覆う。彼女の微笑みが、ふと我が胸を掠める。


 藤崎家は紀伊の旧家、藩の柱たる名門だ。頼重よりしげ殿は私の最も信頼する家臣、その忠義は民の嘆きに寄り添う。だが、かつての栄華は、大蛇が住まう池を埋めた罪ゆえの呪いが曇らせた。


 代々の姫を病が蝕み、闇に閉ざすと囁かれる。


 藤崎家の噂を聞いた時、私はそれを笑いものとしか思わなかった。民を救うのは祈りではなく、手と汗だと信じていたからだ。


 その闇が生んだ「あかずの間の姫」の噂が城内に広がった折、私は出所を突き止め、声を荒げた。頼重殿の静かな瞳に、娘を案じる父の痛みを見たからだ。

 彼は私の志を支え、共に民を救う忠臣だ。呪いなどという迷信、つまらぬ噂でその名を汚す事は許せなかった。

 

 宝永四年の夏、和歌の浦が陽光に輝いていた頃、別の噂が私の耳に届いた。()()()()()()()が、己の足で町を歩き、紀ノ川のほとりで青い花を思い浮かべたと。


 町民の笑顔が城に響き、彼女の微笑みが呪いの闇を破る光となることを、私は静かに願った。


 月日は流れ、秋の気配が忍び寄る頃、藩の政務で訪れた頼重殿を居室に招いた。蝋燭の灯の下、酒を酌み交わしながら、私はふと姫の噂を口にした。


「頼重、姫が歩けるようになったという噂は誠か?」

「誠でございます。良宵りょうしょうと名乗る修行僧が、秘術で呪いを封じて下さったのです」

良宵りょうしょう…… 和歌の浦の民が噂する僧の名か?」

「その噂の僧こそ、良宵殿でございます。彼は翠藍に奇跡を起こしたばかりか、紀ノ川の氾濫で苦しむ民にも寄り添い、復興に尽力した、慈悲深き青年僧でございます」 


 私は興味深く頷く。


「そなたが、あらゆる祈祷師に縋り、嘆いていた姿を知っている。私は呪いなど信じぬが、かような力を持つ者もおるとはな」


 不思議な事もあるものだ、と私は盃を傾けた。蝋燭の灯が揺れる中、諸大名の間で囁かれる高野の僧の噂が、ふと胸を掠めた。


「頼重、高野山に稀有な僧が現れたと、諸大名が騒いでおってな。我が藩の僧もその噂を耳にしたという」

「稀有な僧……でございますか?」


 頼重が盃を手に、静かに首を傾げる。


「その僧は、日ノ本随一の秘術の使い手と聞く。祈禱を求めて京の貴人が集うらしい。私は祈りなど迷信と笑っていたが、おぬしの姫の光を見ると、存外、秘術も侮れぬものだな」

「その通り。私も彼に出会うまでは、祈りは届かぬと諦めておりました」


 頼重の笑みが、娘の回復をそっと映す。

 私は盃を重ね、ふと奇妙な光景を思い出した。


「頼重、夏に城下を私服で巡った折、妙な光を見た」

「殿、気ままな巡りはほどほどに。政直ともども案じておりますぞ」

「そこを突くな、話を聞け。真昼に、高野山から閃光が天へ昇ったのだ。信じられるか?」

「あぁ、翠藍も申しておりました。空に光が舞ったと」

「民も見たという。あの光は、高野の僧の秘儀か、神仏の意志か……興味深いものだ」


 私は盃を飲み干した。

 閃光が姫の青い花と結びつく気がして、心に希望と謎が灯った。


* * *


 幼き日、紀ノ川の氾濫が町を呑む様を見た。

 民が「呪いだ」と叫び、神仏に縋る姿に、我が心が軋んだ。


 苦しみながらも懸命に生きようとするその姿は尊い。だが、災厄という現実から目を背け、祈りだけに頼るのは生きる事の怠慢だと、私は痛む心で思った。


 だが、我が兄、光治みつはるは違った。幼い私は、兄上が濁流に呑まれた子を救うため、自ら川に飛び込む姿を目にした。


 兄上は自分に出来る事は何かを、常々考えておられた。いつしか医学に強く興味を示され、自らの手で病や災いから民を救う道を切り開こうと誓われた。


 十九で徳川の名を捨て、利他の道を選んだ兄上の信念に、幼い私は深く感銘を受けた。

 兄上の消息は掴めぬまま時が過ぎたが、元禄六年に紀ノ川が氾濫した折、復興に尽力してくれた旅の者の噂に、兄上の姿を重ねた。


 五歳の時に別れた兄上の存在が、自力で民を守る私の信条の礎となった。


 頼重殿は呪いの影に苛まれながら、藩では弱さを見せず、民の嘆きに寄り添った。その忠義が、宝永四年の秋、大地震の闇夜に光った。


 地響きに裂けた紀伊、瓦礫に埋もれた町、濁流と化した紀ノ川が民の絶望を呑む。崩れた家々から響く悲鳴が、闇夜を切り裂いた。


 私は馬を駆り、頼重殿、政直殿と汗を流した。


 救援米を配り、崩れた堤防を修復し、道を切り開いたあの日は、今も胸に刻まれている。今、町が息づくのは、頼重殿と直政殿の尽力、民の不屈の心が、私の采配を支えた証だ。


 私は、呪いの鎖に縛られた藤崎家の再興を願い、頼重の姫との縁談を提案した。彼の忠義に報いたかったからだ。


 呪いの苦しみに耐えながらも、民の嘆きに寄り添い、不屈の心で支えてくれたその姿に、心から敬意を抱いていた。その姫が民のために尽くす姿を噂に聞き、彼女の慈悲が和歌の浦に希望の光を灯すと信じたからこそ、私はこの縁談に民の未来を託した。


 地震の傷が少しずつ癒え始めた翌夏、私は私服で和歌の浦を訪れた。民の声を直接聞きたかったからだ。


 遠くに見えた藤崎の姫、翠藍殿は、軽装で八百屋の軒下に座り、老人と笑い合っていた。夏風にそよぐ紀ノ川の輝きが、彼女の笑顔を清らかに照らす。


 彼女の周りでは、地震の傷も、財政難も、民の不満も、まるで春の光に溶けるように消えていた。


 和歌の浦の穏やかさは、姫の慈悲の深さだと知った。その笑顔は、私が夢見た民の世そのもの――守るべき光として、心を強く惹きつけた。


* * *


 夜半の月が空に冴え、秋の気配が深まる頃、私は()()で酒の土産を手に藤崎家の近くを訪れた。頼重殿を驚かせ、酒を酌み交わそうと悪戯心がくすぐられたのも本当だ。だが、それだけではない。


 民の暮らしをこの目で見たい――紀州藩主の座にありながら、遠く霞む民の声を聞きたいという渇きが、私をここへ導いた。


 あの清らかな姫、翠藍に会えるやもしれぬ――そんな淡い期待も、胸の奥で静かに灯っていた。


 藤崎家の庭には、春に咲いた青蘭の花が今も押し花として縁側に飾られていた。町民の噂では、彼女が自ら植えたその花は、地震の傷を癒す希望の光と呼ばれ、町の心を春の如く温めたという。

 だが、屋敷の闇から灯も持たず駆け出す女性の姿を目にして、怪訝に思う。目を凝らせば、それは藤崎の姫だった。

 息を切らし、夜の闇に消えんとするその姿に心が揺さぶられ、そっと後を追った。



 秋の夜風が枯れ葉を巻き上げ、和歌の浦の波音が遠く響く。月光が細い畦道を照らし、彼女の華奢な影が揺れる。


 なぜ、姫が夜更けに抜け出したのか――その覚悟に好奇心が疼いた。


 やがて、彼女が月光に立ち尽くした。息を乱したまま、動かぬ姿に怪我かと案じ、闇から静かに声をかけた。


「失礼、拙者は旅の者で、名は光治みつじと申す。この様な夜更けにどこへ行かれるのだろうか?」


 咄嗟に口にした偽名は、私が最も敬う者の名を借りたもので、懐かしい響きがよぎり、ふと笑みがこぼれた。


 彼女は一瞬身を固くし、警戒の瞳で私を見たが、静かに『あい』と名乗り、九度山を目指すと告げた。


 彼女の声には、決意とわずかな迷いが混じっていた。


「なるほど、道に迷っていたか」


 怪我ではなく、ほっと胸を撫で下ろす。だが、ここから九度山までの道のりは遠く、夜の闇に危険が潜む。彼女の目的は謎のままだが、このまま一人で行かせるわけにはいかない。


 連れ戻すべきか、刹那の迷いが胸をよぎる。


 だが、彼女の瞳に宿る決意の光に、連れ帰る選択肢は静かに消えた。

 彼女の力になりたい――その願いが、民の世への渇きと重なり、胸にそっと灯った。私は、彼女の歩む道に真実があると信じた。


「この夜更けに女性が一人で歩くのは危うい。九度山まで送ろう」


 私の言葉に、翠藍は遠慮がちに瞳を伏せ、小さく息を吐いた。だが、獣の遠吠えや賊の影が脳裏をよぎれば、彼女をこの闇に置き去りにするなど考えられない。


 私は「せめて九度山の分かれ道まで」と柔らかく付け加え、彼女の心を解きほぐすように微笑んだ。


 翠藍は一瞬、行燈の灯りに揺れる私の影を見つめ、静かに頷いた。


 行燈の仄かな光を手に、私たちは並んで歩き始めた。足音が夜露に濡れた地面に小さく響き合い、二人の影が時折重なる。


 月が雲に隠れると、星々が冷たく瞬き、秋の深い静寂がまるで絹のように二人を包み込んだ。


 灯りが揺れ、二人の影を長く伸ばし、風に踊った。時間がゆっくりと流れ、まるでこの瞬間だけが永遠に続くかのようだった。


 彼女と話したいことが山ほどあった――だが、それは紀州藩主としての興味だ。今は光治みつじと名乗った以上、その仮面を貫かねばならない。

 昇り坂が続き、翠藍殿の足は重く、息が上がる。彼女は時折立ち止まり、星空を見上げる。その華奢な肩が、夜の冷気で小さく震えているのに気づいた。灯も持たず、たった一人でこの険しい夜道を辿ってきた彼女の覚悟に、心が揺さぶられる。  


 普段は家臣に囲まれ命令を下すばかりの私だが、今はただの光治みつじとして、彼女に寄り添いたいと強く願った。


 夜の静寂の中、行燈の灯りが彼女の横顔を柔らかく照らし、その瞳に宿る何かを見逃せなかった。決意か、痛みか、あるいはその両方か――彼女の心に秘められた思いが、私の胸をそっと揺さぶった。


 彼女を九度山まで送り届けるだけでも良かったのかもしれない。だが、彼女の瞳に映る遠い光と、かすかに震える息遣いが、私にその理由を尋ねさせずにはいられなかった。彼女の心に触れたい。その一心だった。


「九度山は高野山の門前町だ。女人禁制の高野山に入れない女性たちが、そこで祈りを捧げる場所でもある。そなたが一人で向かう理由は何か。無粋だが気になる」


 私の言葉に、翠藍殿は一瞬警戒の目を向けた。彼女の瞳がわずかに揺れ、私を試すように見つめた。だが、私が穏やかに見つめ返すと、彼女の肩から力が抜け、警戒が薄れていくのが分かった。私の声に宿る純粋な好奇心と、彼女を見守りたいという願いが、彼女に届いたのだろうか。 


 彼女は小さく息を吐き、静かに口を開いた。


「修行僧様を探しております。良宵りょうしょうという方で、かつて私の病を癒し、約束を交わしてくださった方です。九度山へ行けば手がかりが掴めるかと」


 いつか頼重殿から聞いた僧の名だ――彼女を癒した僧、良宵。翠藍殿の瞳に宿る一途な想いに、私の胸は強く締めつけられた。彼女の吐息は秋風のように切なく、月光に照らされたその姿は、まるで夢の断片のように美しかった。


 だが、これ以上彼女の心の深淵に踏み込むのは無礼だと感じ、言葉をそっと切り替える。


「実は俺も、高野山に世間を騒がせている謎の僧の噂を聞き、少し気になっている所だ」


 言いながら、ふと点と線が結びついた気がした。

 高野山に潜む日ノ本随一の秘術の天才――


 諸大名と高僧の間で囁かれたその僧こそ、彼女の求める良宵なのではないか?


 翠藍殿の瞳に宿る確信が、その名に真実の重みを添えるようだった。まだ想像の域を出ない思考に、胸の内で小さく笑みがこぼれた。


「一度会ってみたいのだが、藩の政務や家臣に追われてなかなか機会がない。今も寝る間を惜しんで夜の散策に勤しんでいる」


 真面目に語る私の言葉に、翠藍殿は小さく笑った。その笑みは、まるで秋の花がそっと開くようで、彼女の瞳がはじめて私を真っ直ぐに見つめた。


 私はその瞬間、彼女の心がわずかに開いたのを感じた。


「ふふっ……変わったお武家様ですね」


 その笑顔は、まるで秋の花のよう。私は目を細め、柔らかく笑みを返した。

 彼女の笑顔に、いつも民に向ける藩主の仮面が一瞬溶けた気がした。


「君も武家の娘だろう? 着物の家紋、紀州藩の重臣、藤崎家のものと見たが」


 私は藤崎家の姫と話したいという欲求を抑えきれず、少し踏み込んだ問いを投げる。翠藍は一瞬驚いたが、警戒せずに弱く笑んだ。彼女の柔らかい空気が、私の心をそっと包み込む。


「武家に生まれた娘として、どう生きるべきか迷っておりましたが、己の心のまま飛び出してみたのです。しかし、今度は道に迷ってしまいました」


 彼女の率直な言葉に、心が温かくなり、私は声を出して笑った。

 翠藍の「道に迷ってしまいました」という言葉が、可愛らしくてたまらなくなった。また、彼女の言葉には共感を覚えた。


 私もまた、民を思うがゆえの重圧に縛られ、時として心の自由を諦めねばならないのかと、弱気になる事もあるからだ。

 ふと、兄・光治みつはるの姿が脳裏をよぎった。徳川の名を捨て、民を救う道を選んだ兄上。利他を信条に、自らの手で苦しむ者を守ろうとしたその強さに、私は幼き日から憧れを抱いていた。


 だが、藩主としての因果に縛られた私には、兄上のような自由は遠く、時にその生き様を羨むこともあった。


 翠藍殿の言葉は、そんな兄上の信念を静かに呼び起こし、私の心にそっと響いた。


「己の心に真っ直ぐに生きることは、存外難しいものだ。だが、それでも己を貫く姿は、何よりも美しく尊ばれるものだと俺は思っている」


 翠藍殿の葛藤を聞けたことが嬉しかった。藩主として、民を導く立場として、心の自由を奪われている。彼女の言葉は私の迷いを映し、その迷いを貫く姿に、兄上の生き様と重なる気高さと美しさを見た。


 翠藍殿は静かに微笑み、夜明けの空を見上げた。その横顔に、兄上が民に寄り添った慈悲と、翠藍殿自身の祈りが重なるようだった。


 夜の静寂が深まる中、私たちは九度山の入り口を目指して歩き続けた。昇り坂が終わり、遠くに九度山の灯りが小さく見え始めた。


 夜明けの気配が空を染め、星々が徐々に薄れていく。明ける空に目を輝かせる翠藍殿の姿に、私は彼女との旅路が終わりを迎えることを静かに感じた。


 その瞳に宿る決意の光が、私の心にそっと灯りをともすようだった。


 やがて、九度山の入り口に着き、私は道を指し示した。朝焼けが空を染め、彼女の旅路が新たな一歩を踏み出す瞬間だった。


「この道を真っ直ぐ進めば、半時もせずに九度山だ。ここからは自分で進むといい。藍殿の祈りが、どのような運命を辿ろうとも、成就することを祈る」


 翠藍殿は一礼し、静かに歩き出した。朝焼けが空を染める。ふと振り返ると、彼女は九度山を目指して真っ直ぐに歩きだしていた。


 彼女の心には良宵への想いが満ち、私が入り込む隙はない。 


 それでも、彼女の祈りが叶うことを心から願った。

 和歌の浦へ戻る道すがら、もう少しだけ、この自由な光治みつじでいさせてくれと、静かに空に願った。夜の余韻を胸に、朝焼けの光の中を歩み進んだ。


* * *


 翠藍殿の縁談が成り、婚礼の日取りが定まった。しかし、その喜びも束の間、彼女の病が重なり、延期を余儀なくされた。


 医者の手には負えぬ病と囁かれ、藤崎家の呪いの影を感じざるを得なかった。


 幕府からの使者と会し、被災地の復興策を練る日々の中、私は彼女の笑顔が薄れていく様子を頭に過らせる。同時に、幕府の動乱が紀州に暗い波を寄せていた。


 綱吉公が病没し、新将軍・家宣公への移行が始まった頃、宝永地震と富士山の噴火が立て続けに起こり、民の心は冷え切っていた。

 城に響く報せはどれも重く、藩主として私は一刻の休息も許されなかった。夜ごと届く使者の声に、私はただ目を閉じることさえできなかった。


 ―― 和歌の浦の路地に、町民が春に植えた青蘭の花が希望として語られていた。翠藍殿が分け与えたその花は、地震の傷を負った町に静かな希望を灯し、夏の陽光に彼女の慈悲を映していた。


 だが、希望を灯した翠藍殿本人は、病に伏している。


 幕府からの使者と会し、被災地の復興策を練り、紀州の民を励ますため奔走する日々の中、翠藍殿を思い出すと胸が締めつけられた。彼女の笑顔が薄れていく様子を想像するたび、途方も無い無力感が襲いかかった。


 ―― そんなある蒸し暑い夏の夜、蝉の声も途絶えた闇の中、頼重殿が極秘で城を訪ねてきた。


 灯籠の揺れる薄暗い光が彼の憔悴した顔を照らし、その姿に私は胸騒ぎを覚えた。頼重殿は武士の誇りを懸け、懐剣を握りしめて深く頭を下げた。


「殿、恐れながらお願い申し上げます。翠藍との縁談を、白紙に戻していただけませぬか」


 頼重殿の声は震え、額に滲む汗が畳に滴り落ちた。

 私はその言葉に、心が凍りつくのを感じた。


 翠藍殿の病が重いことは知っていたが、頼重殿の懇願は、その病がもはや手の施しようのないほど深刻であることを物語っていた。


 私は静かに息を吐き、言葉を慎重に選んだ。


「頼重、姫の病状は……それほどまでに重いのか」


 頼重殿は震える声で、言葉を絞り出した。


「はい……私はあの子の命が長くないことを悟りました。残された時間を、せめて安らかに、過ごしてほしいと……」


 彼の涙が畳に落ちる音が、私の心を砕くようだった。

 私は静かに歩み寄り、頼重殿の肩に重い手を置いた。その震える肩に、娘を失う父の絶望が宿っているように見えた。


「頼重、そなたの願い、しかと受け止めた。姫の安らぎを第一に、縁談は白紙に戻す。よいな?」


 私の言葉に、頼重は深く頭を下げ、嗚咽を堪えきれなかった。


 頼重殿の願いを叶えてやる事が、私にできるせめてもの事だった。だが、その決断を下した後も、心の中では無力感が渦巻いていた。


 翠藍殿の命を救う手立てはないのか。

 藩主とは、これほどにまで無力なものなのか。


 ただの病であったなら、腕のいい医者を呼び寄せてやる事ができた。しかし、藤崎家の呪いが姫を蝕む原因なれば、私に出来る事は無かったのだ。


 自力で民を救ってきた私が、呪いの前ではただ立ち尽くすしかないのか。夏の終わりを感じながら、私は胸に頼重殿の痛みを刻んだ。


* * *


 秋の暮れに現れた初雪は、紀州の山々を瞬く間に白く染めていった。

 灯籠の灯が揺れる居室で、紀ノ川の遠い水音が秋風に混じり、そっと耳を掠める。私は盃を手に、翠藍殿の笑顔を思い浮かべていた。


 あの夜、光治みつじとして歩いた九度山までの畦道。彼女の一途な瞳が、月光に揺れる青蘭の花のように、私の心を静かに焦がす。


 町民が『ワスレナソウ』と呼ぶその青蘭は、彼女が自ら植えた希望の種であり、その名を付けたのも彼女なのだという。


 和歌の浦の春を彩ったワスレナソウは、今も民の心に彼女の祈りを灯していた。


 ―― 考える時間が与えられた夜は、決まって翠藍殿の事を、思っている様な気がした。


 その時、ぱたぱたと慌ただしい足音が、静寂を切り裂いた。


「殿、藤崎の姫が危篤でございます!」


 政直殿の声が、居室に響く。盃が畳に落ち、酒がこぼれる。

 心が凍りつき、視界が一瞬暗転する。

 

 あの清らかな笑顔が、町の春と呼ばれた翠藍殿が、永遠の雪に閉ざされようとしている――


 

 私は立ち上がり、窓の外に目をやる。

 初雪が紅葉に舞い、まるで彼女の命をそっと包むように降り積もる。


 刹那の自答、私にできることはあるか?

 翠藍殿の為に、してやれること……



 ―― 祈るのか、私が?



 自らの手で民を守る――それが私の信条だった。それは今も揺るがない。頼重殿が姫を救わんと祈祷師に縋った時、その切実な願いを知りつつ、他力に縋る姿に「祈りは届かぬ」と言い放った。


 なのに、今、良宵なる僧に賭け、彼が生きていると信じ、祈りを捧げようとしている。


 翠藍殿が九度山で語った彼への信頼、和歌の浦の民が囁く希望の名――それらが私の心に響き、地震の傷跡を越え、高野の山奥でなお修行を続ける彼の神秘の力が、翠藍殿の魂を救済する光となると。



 ―― 兄上が見たら笑うだろうか? それとも、この祈りを尊いと認めてくださるだろうか。



 胸が軋む。自力本願の私が、なぜ他力に縋ろうとする?

 ふと、彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。


 八百屋の軒下で老人と笑い合い、子供にワスレナソウを渡す翠藍殿。

 町民の声が響く。「姫様の笑顔が、町の春だ」


 彼女の慈悲が、良宵の祈りが、町に青い光を灯した。あの光は、私の信条を超え、民の心を繋いだのだ。

 


 ―― 私は、祈りの力を信じたい。



「政直、町の者に……姫の危篤を知らしめよ。皆の祈りを、彼女に届けたい」



 私の声は静かだが、確かな決意を帯びる。

 政直殿が一礼し、足早に去る。


 藤崎の姫の危篤は、瞬く間に和歌の浦へと広まり、人々は嘆き、哀しむ。やがて、市場の喧騒が静まり、子供たちが手を合わせ、老女が涙を拭い、町は深い祈りに包まれる。


 ワスレナソウの青が、人々の心にそっと灯る。


 良宵が噂通りの呪力の天才ならば、民の祈りは彼に届かぬはずはない。


 翠藍殿が愛し、彼女を愛した民の切実なる願いが、翠藍殿と良宵を再会させる奇跡を起こすと信じたい。


 一途に良宵を想う無垢な瞳が最期に映すは、せめて彼女が恋焦がれた良宵であれば……。


 私は目を閉じ、灯籠の揺れる光に祈りを重ねる。


 自力で築いたこの町に、他力の光を灯すために。

 翠藍殿の切なる願いを、成就させるために。


 ―― 初雪が静かに降り積もり、紀ノ川の水音が遠く響く。


 月光が紅葉を貫き、まるで彼女の魂を永遠に導くように、神秘の輝きを放った。


 私は心で強く祈る中で、ふと、九度山の夜を思い出す。

 彼女の鈴のような声が、秋風にそよぐワスレナソウのように、私の名を呼んだなら……。


 姫と出会ったのが私であったなら、良宵ではなく私が先に出会ったなれば――あの一途な瞳は、すべて私に向けられたのだろうか。


 あの花のような微笑みを、この腕の中に包み込むことができたのだろうか。

 私は祈りの中で、己の心を見た。



 翠藍殿を、いとおしく想いし心ありしと、今ぞ知る。

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