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霊宝殿の秋

 享保元年、天霊山てんれいざん龍華寺りゅうげじは秋の紅葉に染まっていた。


 霊宝殿れいほうでんの軒下、風が古い経典の頁をそよそよとめくり、墨と檜の香りがほのかに漂う。庭の片隅に、和歌の浦から伝わる青蘭の花が一年草としてひそやかに咲き、青い花弁が秋風にそよぐ。


 その花は、本来であれば春に開花する野草であったが、和歌の浦の姫の祈りが宿った夜をきっかけに、毎年秋に新たに芽吹き、町民の心に希望を灯すと囁かれていた。


 龍華良宵りゅうげりょうしょうは、古びた香炉の煤を拭い、経帙きょうちつの紐をそっと解いた。


 木箱に納められた仏具が、秋の光に鈍く光る。若草色の袈裟を纏う僧侶の姿は、二十五歳という若さに似合わぬ威厳を湛え、向日葵のような柔らかな微笑みがその顔を彩る。


 傍らには、散乱した経帙や古びた仏具が積まれ、六星導ろくせいどうと呼ばれる良宵の弟子らが整理に追われていた。


 弟子たちはそれぞれに経帙を手に取り、黙々と整理を進めていた。良宵の姿が視界に入ると、彼らの目には開祖への深い敬愛が宿り、一瞬だけその手が緩んだ。しかし、すぐに作業を再開した彼らの背中には、師への敬意が静かに滲んでいた。


 六星導の首座である灯忍とうにんは、色褪せた護符を手に取った。丁寧に埃を払いながら目を細め、懐かしそうな表情を浮かべて「これは叢海そうかい様の筆ですね」と呟いた。


 星霜せいそうは古びた経典の断片を手に静かに読み上げると、窓から吹き込む秋風を感じながら「秋風そよぐ、経の声……ふむ、風雅だ」と詩を口ずさんだ。


 久識くしきは汗をにじませながら重い木箱を両手で運び終え、満足げに笑って「やっぱ力仕事が俺には向いてやがるなぁ」と言った。


 多聞たもんは筆を握り、古文書の目録を丁寧に黙々と書き写しており、机の横には巻物が山積みになっていた。


 万劫ばんごうは無言で香炉の灰を小さな箆で整え、静かに新しい香を焚いた。その香りが霊宝殿に穏やかに広がった。


 灯忍の静かな呟き、久識の豪快な笑い声、星霜の詩吟が混ざり合い、霊宝殿に温かな響きを添えていた。弟子たちはそれぞれに作業を進めていたが、彼らは 《《六星導》》――良宵の六人の弟子たちとも呼ばれている。ただ、今はそのうち一人が不在だった。


 霊宝殿に広がる優しい静寂を切り裂くように、戸が蹴るように開いた。


座主猊下ざしゅげいか、事とて!」


 飛び込んできたのは宵岸しょうがん、六星導の末弟だ。汗と焦りが若々しい顔に滲む。乱れた法衣の裾が、彼の慌てぶりを物語る。

 灯忍は手にしていた巻物をゆっくりと卓に置き、静かな目で宵岸を見上げた。


「何処に行っていたのです、宵岸。今日は霊宝殿の整理を行うと伝えていたはずですが?」


 声こそ穏やかだが、その瞳の奥に厳しさが滲んでいた。良宵は埃まみれの巻物を丁寧に木箱に納めると、宵岸の方へ静かに歩み寄った。


「宵岸、どうしたのだ。何かあったのか?」


 良宵は宵岸を落ち着かせるようにそっと肩に手を置き、優しい瞳で彼を見つめた。その瞳は、まるで幼子を慈しむように宵岸を捉えていた。  

 良宵の仕草はとても優美で、弟子たちは一瞬その姿に目を奪われた。しかし、宵岸は肩を震わせ、良宵に向かって何か言いたげに口を開いた。


「今しがた、村の女子より心を寄せられました!」


 宵岸の叫びに近い声が霊宝殿の静寂を破った。良宵は思わず目を丸くし、六星導の五人も一瞬ポカンとした表情を浮かべた。

 風が経典をそよぐ音だけが、しばし霊宝殿に響いた。風の音が消えると、宵岸の意外な告白に久識が大きな声で笑った。


「ははっ、なんじゃそりゃ!」


 久識は木箱を床に下ろし、腹を抱えて笑いながら宵岸に近寄り、彼の背をバンバンと叩いた。


「宵岸お前、女子に言い寄られ逃げるとは、まるで熊野参詣の僧だな!」

「誰ですかそれ」


 宵岸が顔を赤らめ、久識に食ってかかる。灯忍は眉をひそめると、護符を整える手を止めて溜め息まじりに呟く。


「道成寺縁起ですよ」

「清姫様に追い回された安珍様の如く、そなたも逃げ惑うというわけか?」


 万劫が口元に微かな笑みを浮かべ、茶化すように宵岸に言い放つ。宵岸は顔を青褪めさせた。道成寺縁起の物語を思い出したからだ。

 宵岸は救いを求める様に久識を見るが、久識は意地悪く笑って宵岸に言う。


「そして宵岸は釣鐘に閉じ込められて焼かれてしまうか。可哀想にな」


 冗談にならない冗談を聞いて、宵岸は半泣きで久識に掴みかかったが、力及ばず軽々と抑え込まれた。悔しそうな表情が宵岸の顔に浮かんだ。


「また、宵岸と久識のじゃれ合いが始まったか」


 万劫は香炉の灰を整えながら、静かに呟いた。


「詩に詠めば、恋の騒ぎも風雅だな」


 星霜が経典を手にぼそっと呟いた。

 灯忍は呆れたように首を振って、肩をすくめた。

 

 良宵は弟子たちのやりとりを微笑ましく見つめていた。普段は厳しい修行に身を置く彼らの、何気ない笑顔や楽しげな声を聞くのが、良宵にとっての何よりの幸せだった。

 紅葉の光が良宵の整った顔に柔らかな陰影を落とし、彼の心を映すように優しく揺れていた。 宵岸が勢いよく身を乗り出し、不躾な質問を投げた。


猊下げいかはどうなのですか? 女子に心を寄せられたことはございますか?」


 霊宝殿が一瞬静まり、弟子たちは息を呑んだ。


「宵岸、猊下に対して無礼だぞ」


  多聞が目録の筆を止め、穏やかにたしなめるのだが、目には隠し切れない好奇心が光っていた。星霜が穏やかな微笑みを浮かべ、「猊下の色恋話、いいではないか。私も気になる」と軽く煽 った。

 灯忍は呆れたように溜め息をつくが、後の弟子たちはチラチラと良宵に視線を送っている。

 万劫は香炉の灰を整えながら、そっと囁く。


「……実に興味深い」


 宵岸は目を輝かせて弾んだ声で言う。


「兄様方も気になりますよね? 良宵様は顔立ちが整っておられるから、さぞ女子に慕われたはずです!」


 久識が宵岸の首を掴み、「お前、失礼がすぎるぞ」と叱るが、やはり顔は笑っている。


 良宵は鬼神や魑魅魍魎と戦う高僧として知られ、その姿はまるで雲の上の存在のように崇高だった。

 かつてよいの一門を率いていた師の叢海そうかいは、十五歳の良宵に宿る天性の呪力を危惧し、高野山の峻厳な修行へと送り出した。少年の瞳に、慈悲と試練の予兆を見たからだ。


 五年後、更なる秘術を纏い下山した良宵を待っていたのは、叢雲寺そううんじ灰燼かいじんと叢海の逝去という過酷な定めだった。


 師の遺した「光となれ」との言葉を胸に、良宵は天蘢宗てんろうしゅうの開祖として新たな誓いを立て、今、宵の一門を導く。


 その清らかな佇まいは、弟子たちにどこか手の届かぬ遠さを感じさせていた。六星導は良宵を深く慕い、尊敬していたが、その偉大さゆえに寂しさも抱いていた。彼らは、師の人間味に触れたいと願わずにはいられなかった。


 良宵は弟子たちの熱い視線を受け、困ったように微笑んだ。その微笑みには、弟子たちの心を汲み取る深い慈悲が宿る。


―― さて、皆の期待に応えてやれるだろうか。


 良宵は穏やかに笑みを深め、紅葉の庭に目をやった。霊宝殿の庭に、紅葉と桜の影がそっと揺れ、かつて見た淡い面影を呼び起こした。


 青蘭の花が、秋風にそよぐその姿は、和歌の浦の姫が呪いを祈りに変えた雪夜の光を宿すようだった。

 彼女の桜色の笑顔が、ふと胸をよぎった。良宵は静かに目を伏せた。


「そうだな、一度だけ……清らかな魂に心動かされたことがな」


 良宵は懐に忍ばせた一冊の本に、服の上からそっと触れた。古びた紙の感触が指先に温かい。


「よもや、猊下が思いを寄せた女子がいたとは! 私は驚きです!」


 宵岸の目が爛々と輝き、久識の拘束を振り切った。久識はもう制止せず、良宵の言葉の続きを待っていた。


「どんな方だったのです? 猊下が心を動かされた方とは」


 灯忍が優しく目を細めて良宵に問う。良宵の視線が庭の隅に落ちると、自ら植えた春の姫の花が、風に優しく揺れた。

 かつて彼女が名付けた青い花の面影が、紀伊で過ごした秋を呼び起こした。


「あれは……私が十五の時、叢海様の寺を出て高野山へ向かう旅の途中。和歌の浦の海を望む町で、忌み怖れられた屋敷を訪ねた。そこで、清らかな姫と出会ったのだ」


 良宵が過去を語り始めると、弟子たちは静かにその言葉に耳を傾けた。


 霊宝殿の静寂に、良宵の穏やかな声が優しく響く。

 庭の隅で揺れる青蘭の影に、彼女が名付けた青い花の記憶がそっと宿りだした。 

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