第三章 第九十九話:狂いの勧め
仁はそこで過去から流れてくるイメージの奔流をとめた。自室の前だった。歩きながら眠っていて、それが醒めたような感覚で、少しふらついた。左手でドアを開ける。人のいない部屋。村雲と静がただ言葉もなく並んで壁に寄りかかっている。シャルロットは奈々華と一緒に教室、アイシアは散歩中か。
「アレ? お早いお帰りで」
静が軽い調子で言う。仁は曖昧な返事を返すと、その壁の近くにケースを置いた。右手を見ると僅かに血液の流れが滞っていて、指の腹が白くなっていた。
「例の懸賞金すか?」
察しがいい。仁はまた唸るような声を出して肯定した。
「また感傷に浸ってるわけっすか」
「今日はやけに絡むな?」
静は軽快な口調で話すのだが、口数自体は村雲よりもむしろ少ない。その静が今日に限っては話したい気分なのか。
「妹さんがいなくて残念すか?」
「さあね」
仁は少なくとも、黒川の件については、奈々華に心中を吐露するわけにはいかなかった。
「いつまで幻想に縋るつもりっすか?」
「幻想?」
クッションをちらりと見た仁は、しかし座ろうとはしなかった。ようやく自由になった腕を組んで、立ったまま静を見据えた。
「だってそうでしょう? 妹さんはいつかは旦那の前からいなくなる」
二人は兄妹であって、夫婦ではない。奈々華もいつかはどこかの誰かと恋に落ち、結婚していく。
「いつまでも旦那を助けてはくれないっしょ?」
「……」
「それに、それ以前に、彼女が絶対旦那を裏切らないなんて保証はどこにもないでしょう?」
わかっている。わかっていながら、仁は奈々華に心の安息を求めている。他人が怖くて、家族に頼っている。しかしそれすらも脆弱なのだ。奈々華は一度仁の縋る手を振り払った。
「仮に万が一、彼女が傍にいてくれたとして、旦那は彼女に自分の隣を歩ませるつもりですか?」
「……」
血塗られた道を。罪を重ね続ける道を。やがてそれは、ゆっくりと回る毒のように、仁の心を蝕むのではないか。仁はトロンとしたような目で青い刀を見つめ続けていた。彼もまた仁の矛盾を目ざとく示唆していた。心が壊れそうなとき、人は、どんなに脆弱でも、傍目からはどんなに歪んでいようとも、どこかに安定を求める。腹を括ったつもりでも、どこかに逃げ道を用意している。それが安定だと、逃げ道だと妄信する。
「アンタが信じてるソレは有限の、保証もない張りぼてでさあ」
喋り続ける。
「中谷の旦那にもね、弟がいたんすよね」
不意に中谷の名前が出てきて、仁の目に驚きが浮かぶ。
「静殿は我よりも先達にあたる。中谷慎二と組んでいたことがあるのだ」
今まで沈黙を続けてきた村雲が注釈を入れる。
「なるほど。大先輩だな。これからは敬語を使ったほうがいいのか?」
仁が努めて明るい声を出した。しかし齢の十分の一にも満たない餓鬼の軽口を取り合ってくれるほど、静は暇ではなかった。
「最初に縁を切ったんすよ。自分がこれから歩む道を先見して」
自分の宿命を悟り、起こる戦禍と、罪にまみれた行く末を、彼は家族と歩む道を閉ざしたのだと。
「比べちゃなんなんすけどね。敢えて言いましょう」
と前置いて。
「アンタは確かに、中谷慎二よりも強い。なるほど鋼の体だ」
先は聞かずとも、仁にはわかった。手に取るように、デジャヴのように。
「けどそれを支える心は紙だ。焼かれれば煤け、濡れればふやけ……」
「……」
「この先もそうしていくんですか? その都度、あの娘に修復してもらうんすか?」
「……」
「いつまでそうしてもらえるんですか? 心の中で、弱い兄貴だと嘲笑ってないって言い切れるんですか?」
「……」
「アンタはもう自覚してるはずだ。三年間誰にも寄りかからないでやってこれたんでしょう? 敵と見做した相手には冷酷なまでの殺意を感じるんでしょう?」
仁は黙ったまま。静の言葉は全て正鵠を射ていた。
「もうわかってるんでしょう? 誰も信用しちゃいけないって。結局裏切らないのは自分自身だけって。だったら…… 全部敵だと思えばいい」
村雲が何か口を挟みかける気配があった。だがそれを歯牙にもかけず、静は言い切った。
「自分ひとりで処理しきれないなら、いっそ狂ってしまえばいい」
仁は電信柱のように、立ち尽くしてその言葉を聞いていた。