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第三章 第九十八話:アイスコーヒー

「僕が死ねばよかったんです」

友も、父も、顔も知らぬ母も、誰も、妹さえも、仁を望んでいない。全ては過去のもの。今になって思えば、本当に友だったのか、本当に父だったのか、本当に母だったのか、本当に妹だったのか。それさえも仁にはわからなくなっていた。こんなに容易く崩れてしまうのか。今まで築き上げてきたものは、泥の表面に浮き上がった泡のように全部弾けてしまった。もとよりそんなものはなかったのかも知れない。人のために尽くし、人に好かれるように生きてきた。その全ては自分の独りよがりだったのなら、この生に何の意味があるのだろうか。

「黒川君は、剣道の才能も素晴らしかった。人望もあるようでした。人柄も良いようでした」

ようでした、ようでした。自分はよく知りもしないのに、少し見ただけの憶測を並べている。侮辱している。ふざけている。自覚していた。止まらなかった。何か喋っていないと代わりに叫びだしそうだった。男性は静かに聞いていた。頬の痙攣が一層ひどくなったような気がする。

「僕なんかより……」

「本当にな」

深い穴の底からしたような声だった。男性はさっきから微動だにしていない。ややもすると聞き間違いのようであったが、しかしそれは確かに彼が発したものだった。

「君が死ねばよかったのにな」

「……」

「どうして堅固なんだ?」

「……」

男性は顔を引っ込めた。手も解いた。目を瞑り、首を横に振る。それが現すのはどうしようもない失望だった。

「建設的な言葉を聞かせてもらっても、何の慰めにもならないとはわかっているが」

仁は乾ききった喉を小さく鳴らした。アイスコーヒーは手元に既にあるが、目にも入らなかった。

「もっとマシな言葉が出るかと思っていた……」

「……」

「最悪だ。適当に並べたような言葉。自分本位な言葉」

そう言った声は震えていた。

「わかっているのか! 人を殺したんだぞ!」

男性が握り締めた拳を思い切りテーブルに叩きつけた。二つのグラスが跳ね上がり、倒れた。黒い液体がドクドクとテーブルの上を流れる。

「過失だ? ふざけるな! 親も連れてこないで、子供一人で来て、バカにしてるのか!」

もう一度叩きつけた。仁のグラスが床に落ちて、けたたましい音を立てて割れた。店員のおばさんも、やんごとならない事態に、足を動かせずにいた。仁は返す言葉もなかった。母はいない、父は行方知れず。そんなことを言っても全ては醜い言い訳でしかない。椅子がガタンと大きな音を立てて仁の後ろで倒れる音がした。気がつくと、地べたに額を擦りつけていた。男性は荒い息を整えながら、それを見下ろしていた。

「やめろ」

「……」

立ち上がる術を忘れたように、仁は動かなかった。最悪の冒涜だ。どうしてこうなってしまったんだ。どうすれば、この心臓を生きたまま抉られるような心痛から逃れられるのだ。その考えまでも浅ましくて、また苦しむのに。一体どうすれば……

「やめろ!」

男性が乱暴に仁の腕を掴み、地べたの上を転がした。半身を起こした仁はどうしても顔を上げることが出来なかった。男性の顔を見るのがたまらなく怖かった。そのまま時が流れた。一分にも満たなかったかもしれない。一時間はそうしていたのかもしれない。男性が最初と同じ、静かな声で言った。

「二度と私の…… 私達の前に現れないでくれ」

「……」

「だが忘れるな」

男性の声は感情を押し殺すことも出来ずに、上ずっていた。人がこんな声を出せるのか、と仁は初めて知った。

「俺は君を絶対に許さない。いつまでも…… どこかに君を憎む人間がいるということを肝に銘じて生きろ」

男性は財布から金を抜き取り、テーブルの上に置いて、静かに店を出て行った。


それからしばらくして仁は、黒川の家族がいずこかへ引っ越したと、世話になった警察の人間に聞いた。

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